飢える慈悲 3 悪魔は欲に取り憑く。 螢にしてみれば当然のことだった。 そして、それはどんな人間に取り憑いてもおかしくないということだった。 欲のない者なんていない。 「もっと幸せになりたい。裕福になりたい。もっと地位を、名誉を。そう望む気持ちに付け込むものです」 たかが百年ほどで死ぬというのに。人はそれらを求め続ける。 とても貪欲だ。 「…ええ。人は欲が深く。そして弱い。だから誘いにのってしまうのでしょうね」 憂いを帯びた表情で、信田が告げる。 「一度悪魔に憑かれた人が、もう一度憑かれることがあります。そんな方に会ったことは?」 螢は「いえ」とだけ答えた。 実のところ、そんな人間は何人も見てきている。 憑かれやすい人というのはいるものだ。 何度でも悪魔の声に耳を貸し、そして自分の身を滅ばしていく。 螢は三度目までは祓ったことがある。けれど四度目はなかった。 憑かれるたびに心身ともに衰弱し、最後には自殺してしまったのだ。 「私は一度目の時、その方にこう言いました。幸せはいつも自分の中にあるものだと」 欲しがるばかりの人は、自分が何を持っているのかすら分からなくなっている。 他人とは違う、素晴らしいものを持っていたとしてもそれが見えない。だから欲しがり続ける。 「自分を見つめ直し、自分と向かい合うことで本当の幸せは見付かるものだと。人を羨ましく思えるかも知れないが、誰もが苦しみを背負っている。それでも人はそれぞれ自分の幸せを手にしている」 信田は自分を神父ではないと言った。けれど人とこうして向かい合って話をするような仕事に就いてるのかも知れない。 語っている様は堂に入っている。 「本人に幸せという実感がなければどれほど恵まれていても意味がない」 「確かに」 幸せを受け取り、感じることが出来なければ、どんな幸いが訪れても意味がない。全て見逃してしまうことだろう。 そんな無意味なことはない。 「そう伝えたのですが。その人は再び悪魔に憑かれました」 熱弁を振るったのかも知れない。それが報われなかった事実は、信田にとっては残念だっただろう。 憂鬱になるのも無理はない。 「満たされないのです」 苦渋を滲ませて、信田がそう言った。 「他人が幸せに見えて仕方がない。自分だけが不幸であるとしか思えない。悪魔を祓った後も、そう言っていました」 欲しい、欲しい。他人だけがどうして幸せになるのか。自分にはどうして幸せが来ないのか。 羨ましい。ねたましい、口惜しい。 そんな欲ばかりが膨らんでいるのだろう。 それはもはや自分で悪魔を呼んでいるようなものだ。 「おそらく、また憑くでしょう。満たされない限り」 そんな人間はどうやって満たされるのかをきっと知らない。 信田の予想はじき証明されることだろう。 「満ちてしまえば人の欲は薄くなり、悪魔に憑かれることもなくなる。けれど人はいつまでも満たされることがないのです」 信田の嘆きは深まっていった。 だが螢はそれを淡々と眺め続ける。隣に座っている不動をちらりと横目で見たが、同意するような表情はなかった。 そもそも不動が誰かに同調しているところを見たことがないので、この反応は至極自然ではあった。 「欲しがり、奪い合い、争い、殺し合う。そうすれば悲しみが増えるだけだと知っているはずなのに」 随分広い目で語っているものだ。螢はそんな感想を抱いた。 今まで信田の元に訪れた依頼者だけでなく、人間そのものに関して信田は憂いを持っているのだ。 生きていればそう思う時があるのかも知れない。毎日ニュースでは命が奪われた情報が流れている。争いの話ばかりしている。 この世に、悲しみの種など尽きることはない。 「欲が人を生かしているからですよ」 螢は信田をどこか遠い生き物のように思いながら、そう言った。 「食欲がなくなれば人は食事を忘れ、栄養が足りずに死んでいく。睡眠欲がなくなれば人は眠らず衰弱死する。欲がなければ人は生きられないのです」 人だけではない。生き物は皆そうだ。 螢も食事をしなければきっと生きていけないのだろう。 死ぬより先に気が狂うかも知れないが。 「ですが、何故生きるために必要ではない欲まで抑えられないのでしょう」 地位や名誉がなくとも、人は生きていける。それなのにどうしてそれを求め続けるのか。 自分の身を滅ぼしてまでも。 信田が嘆く。 「それが人が人である理由ですよ。この世界がこうなった原因です」 人は他を制して自分の思うように世界を変えた。 より便利に、裕福に、それを願い続けて地を開拓し、道具を作った。 数を増やして、全てを支配しようとして。何もかも蹂躙した。 「それが良い、悪いなどは何者も分かりませんが」 考えたところで無駄なことだ。 人間以外が反映した世界など誰も知らない。 一つの姿しか見ることは出来ないのだ。 「人である限り、満たされないと?」 「快楽を求め続ける者の宿命です」 幸せも、刺激も、全ては快楽だ。 人はそれを好む。そればかり求める。 根本は悪魔と大差ない。 そもそも生きるということは快楽を求めることなのだろう。 「…貴方は諦めているのですか?人が救われる時はこないと」 螢の意見は悲観的に思えたのだろう。信田は悲哀を込めた声でそう言った。 「私は救いを見たことがありません」 信田の淡い願いを、螢は断ち切った。 長い間生きている。けれど螢は救いなど見たことがない。 螢が悪魔を落とした人間は、その行為を救いだと言って感謝してきた。けれど螢にとって悪魔祓いなど所詮食事でしかない。何の神聖性もない。 そして螢自身が望む救いなど、誰も何も持っていなかった。 「…救われたいと願うことはありませんか」 「ありますよ。今も思う」 人の中で、人と同じ姿で、けれど人よりずっと長生きをしている。終わりが来ない。 一体いつまで生きてるのか。どれだけの時を過ごせば死ぬのか。 たった一人で、自分と同じ生き物がいない世界で、どれだけの孤独を噛み締めれば解放されるというのか。 教えて欲しい。 出来るなら永遠に思える時から逃がして欲しい。 「けれど、救いを求めることもまた貪欲でしょう」 救われたい。それを強く願う気持ちは欲だ。 苦しみから解放されたい。悲しみを消したい。それも願望でしかない。 何も求めずに、満たされることなんて出来はしないのだ。 信田は俯いた。 重々しい溜息の中には、それまで語っていた切なさが宿っている気がした。 螢が淡々と斬り捨ててしまった切なさだ。 「そうですね……」 あまりにも悲愴な様子で呟くので、螢は多少の後ろめたさを感じた。 もっと言葉を誤魔化して、曖昧にするべきだったかも知れない。 信田を責めたいわけではなかった。ただ螢は自分が思っていることを述べただけだ。 けれどそれで信田が不快感、もしくは傷付くことは予測が出来ていた。 もしこれが救いだのという話でなければ、きっとここまで自分の考えをぶつけることはなかっただろう。 (大人げなかったか…) 別に信田と理解し合おうなどと思っていないのに。本音など突き付けても仕方がなかった。 「すみません、こんな話をしてしまって」 失敗したと自分を振り返る螢の前で、信田は苦笑を浮かべて謝った。 気分の切り替えをするらしい。 こんな話を続けてもどうしようもないことは分かり切っているのだろう。 「仕事の話をしましょうか?そのためにいらっしゃったんですよね?」 救いだの何だのという話が目的ではなかった。 もちろん、信田に告げた取り繕った理由のために来たわけでもない。 ただ少し気になっただけだ。 人々の心を落ち着かせている人格者というものに。 それは、今までの会話で把握出来た。 信田は人に対して心を砕いているのだろう。 人の幸せや平穏を考え、どうすればそれを与えられるのか自分に問うているのだろう。 だから人に優しい。 そしてその優しさは疲れ切った人に染み渡るのだろう。 「いえ。いいんです」 螢は緩く首を振る。 信田と隣にいる不動にも確認を取るように視線を向けたが、不動は頷くだけだった。 そもそも不動は信田が悪魔を持っているかどうかの確認が済んだ時点で、もう興味を失っている可能性が高い。 螢が関心を持ったので、ついてきてくれただけだろう。 「そうですか」 信田はもう一度紅茶に口をつけた。 喋り続けた喉を潤しているのか、小休止をしたかったのか。 「貴方の思っていたことは叶いましたか?」 苦みの代わりにやや憂いを帯びた瞳で、信田はそう尋ねてきた。 「十分に」 むしろ十分過ぎるほどだった。 深みのある話になり過ぎた気がする。精神論など螢にとっては空しいものだったが。 「お時間を頂いてありがとうございました」 螢が頭を下げると、信田は「いえいえ」と幾分か明るくなった声で答えた。 「私も同じような仕事をなさっている方がどう思っているのか気になっていましたから。とても有意義でした」 ありがとうございます。と信田もまた頭を下げる。 重かった空気が多少和み始める。 けれどぎこちなさはまだ残っていた。 街灯の微かな灯りがカーテン越しに部屋を照らす。 螢はリビングのソファに寝転がっていた。 不動と抱き合い食事をする場合は、不動のベッドに潜り込んでそのまま眠るのだが。それ以外の場合はこうしてリビングで寝ている。 ベッドを買おうかと不動に言われたのだが、ソファでも眠れる上に不動のベッドで寝る確率も低くはないので断っている。 さほど必要性の高いものだとは思わなかった。 ぼんやりと薄暗い世界を眺める。 (神父が悪魔をばらまいてるなんて、やっぱり戯れ言か) 消える寸前に、螢にショックを与えるために悪魔がついた嘘だ。 微かな可能性に気を取られてしまった。 (……それにしても突拍子もない嘘だ) この心を見透かしたわけでもないだろうに。 ころりと寝返りを打つ。狭いソファでは窮屈で動きづらい。 (思い詰めそうな人だったな) 昼間に会った信田を思い出し、螢はそんな印象を抱いた。 穏和そうな人だった。 きっと評判通り、優しさを持っている人だ。 けれど救いに関して話している時、悲哀が深すぎて危うい感すらあった。 自分のことではなく、今まで接してきた他人のことに関して話しているというのに、あまりにも熱の入った口調だった。 まるで、追いつめられているかのようだ。 必死な様に、記憶のかけらが蘇ってくる。 思い出したくもない。そのくせ時折否応なく蘇ってくるのだ。 些細な刺激で、その存在を取り戻してくる。 そして針のように螢の心を突き刺すのだ。決して、忘れぬようにと警告しているかのように。 信田の首からぶらさがっていた金属。 それはかつて螢がよく目にしていたものだった。 だが捨てたのだ。 多くのものと一緒に、捨てて逃げた。 瞼を下ろし、深く息を吐く。 終わったのだ。 もう、終わった。 next |