飢える慈悲   2




  神父関連の情報を探して、唯一気になった霊体専門の男に会う機会を充に作ってもらった。
 依頼者として、時間を貰うことにしたのだ。
 同業者だと知られれば何かしら警戒されるかも知れない。
 悪魔憑きではないと言われているが、念のためだ。
 約束の場所は駅の近くにある喫茶店だった。
 螢と不動は約束の時間より三十分ほど早く場所についた。早すぎると理解しながら行動していたので、待ち時間に不満はなかった。
 喫茶店に行く短い道のりの中、螢は行き交う人々の中にとある気配を感じた。
 霊体が唸り声を上げている。
 ちらりと周囲に視線をやると、一人の女性に目が止まった。
 顔色が悪く、俯いている。肩を落として、とても身体が重そうだった。
 それは両肩にしがみつくようにしている黒い影のせいだろう。
 霊体は思いが強すぎるのか、女性の全身にまとわりついてはきつく締め付けているようだった。
 あれでは呼吸するのも苦しいだろう。
(あれはまずい)
 憔悴している姿は力がなく、とても思い詰めているような表情をしていた。
 駅前の道を少し行くと車の通りが多い道路がある。そちらに足を向けているのが不安だった。
 いつ身を投げてもおかしくない雰囲気なのだ。
(取った方がいい)
 だが螢は仕事以外ではなるべく人と関わらないようにしている。特に霊体関係には。
 螢は霊体が見える。それを払うことも出来る。けれどそんなことを人に知られて、恐れられたり、敬われたりするのが嫌なのだ。
 特別扱いされるのはうんざりしていた。
 人間ですらないのだから、そうされるのは本来仕方のないことなのだが、自ら望んでそんな待遇をされる言動をしたくない。
 ひっそりと、隠されるように生きていたい。
 螢が立ててしまう波風というのものは、大抵ろくでもない上に引き返せない大きさになってしまう。
(どうしようか)
 螢の歩みは遅くなる。
 あのまま自殺でもされたら寝覚めが悪い。
 自分の目の届かない場所、音が聞こえてこない場所であるのならともかく、今近くで死なれると嫌な気持ちが残る。
 けれど人助けが出来る存在でもない。
 自分が救って欲しいくらいなのに。
 心は乱れた。迷いが強まる。
 これほどまでに悩むくらいならば、いっそ動いた方が後悔せずにすむのではないか。あれくらいの霊体ならすぐに喰える。
 そう思った時、螢より先に不動が動いた。
 螢が見ている霊体は、不動も見られる。常人であれば感知することは適わないはずなのだが、不動は生まれも育ちも特殊らしいのだ。
 真っ直ぐ女性に向かっていく様は、何の躊躇いもない。
 はっきりとした、迷いのない姿に悩む必要はないことなのかも知れないと思わせられる。
 随分憔悴している。放置すれば死ぬかも知れない。それはあまり気分の良いことではない。ならば救い出そう。
 そんな、単純な思考で良いのかも知れない。
 一拍遅れて螢は不動の後ろについた。
 自分よりずっと若い。比較にもならないほど短い時間しか生きていない人だというのに。螢よりもずっと冷静で、決断が早い。
 不動を見ていると、今まで生きてきた歳月の重さを考えさせられる。
 どれだけの時間を過ごしてきたとしても、そこに価値はあったのだろうかと。
 不動が女性に近付くより先に、一人の男が女性に声をかけた。
 黒い服を着ている三十歳くらいに見える男だ。
 眼鏡をかけており、首から鎖を下げていた。その先端にあるものを見て、螢の中に予感が走る。
 不動は足を止め、螢と並んで男の姿を眺めていた。
 同じことを思っていることだろう。
 男は優しい表情で女性に話しかける。話しかけられた女性は不審そうな目で男を見たが、言葉を交わしていく内に顔つきが変わった。
 影を落としていた表情は落ち着きを取り戻し、不信そうだった目は真剣に男を見つめ返している。
 次第に頷きが増えていき、最後には女性が顔を覆って肩を震わせた。
 泣いているのだろう。
 男は慰めるように肩に手を置いた。そして何かを囁いている。
 唇の動きから察するに「大丈夫」と何度も繰り返しているようだった。
 変化は女性だけではない。女性に憑いていた影、霊体にも影響を及ぼしていた。
 ゆらゆらとゆらめき始めたかと思うと、その暗さを僅かに薄めた。
 そしてその揺らぎは大きくなり、女性からゆっくりと離れていく。
 締め付けては苦しめせようとしていたというのに、何かに気が付いたように手をほどいている。
(なるほど。評判がいいはずだ)
 憑かれている人にも、霊体にも何も強制していない。ただ霊体には離れるように促しているだけ。憑かれている人には大丈夫だと安堵を与えているだけだ。
 ごく自然に、まるで祝福を授けるように男は霊を切り離している。
 だがそれにも問題があった。
 霊体は女性から離れて、姿を薄めてはいるが完全に消えてはいないのだ。
 この世から解放されるわけでも、消滅するわけでもない。
 あのままでは、何かのきっかけでまだ誰かに取り憑いてしまう。
(技術はあまり優れていないとは言っていたが。事実か)
 不動であるなら、あの程度の霊は一瞬で消してしまう。肩に触れるだけでもすぐだ。
 まして螢なら、一声かければ食い尽くす。
 けれど女性にとっては十分だっただろう。それまで重くのし掛かっていた影が取れたのだ。
 開放感と安心感に包まれているはずだ。
 泣きながら男に頭を下げている。
 しかし男はそれを制止ながら、ただ微笑んでいた。
 そしてお辞儀をすると女性から離れていく。
 どうやら依頼者だったわけではないらしい。ただ道端で出くわしただけなのか。
 笑みをたたえたまま、男は歩いてくる。
 二人がいる方向に来ているが、正体を明かしていないので依頼者だと分からないだろう。
 ただ約束していた場所に向かっているだけだ。
「すみません」
 螢は男を見て、そう声をかけた。男は即座に螢に視線を向けてくる。
「信田さんですね」
 そう確認を取ると、はいとやや不思議そうな目で男は頷いた。
 貴方は?と視線で問われ、不動が口を開く。
「今日お約束していた、笹淵です。こちらは螢」
 不動の名で約束されていたはずだ。信田はああ、と納得がいったようだった。
 けれど次の瞬間には、また怪訝そうな眼差しを向けてくる。
 無理もないだろう。
 確か霊の気配を感じて困っている、という内容で会う約束を取り付けたのだ。
 不動を見れば霊の気配など欠片もなく、また何かに困っている様子もない。泰然とし 過ぎているのだ。
 螢も同様。霊の気配などまとわりつかせているはずもない。全て喰ってしまうのだから。
「お悩みの方は、ご家族かご友人ですか?」
 当然の質問に不動は「いえ」と短く否定をした。
「本当は依頼がしたいわけではありません」
 何の表情も浮かべず、淡々とした口調で言われても信田は戸惑うばかりだ。
 まして不動は他人の疑問を寄せ付けない雰囲気がある。
「どういうことでしょう」
 困惑している人に、螢はなるだけ穏やな声音で喋る。
「同業者の方にお会いしてみたかったのです」
 おまえに悪魔が取り憑いてるかも知れない。そんな情報を受けたので見てみたかった。ただの好奇心だ。とは言えるはずもない。
 なので説得力があるのかどうかも分からないことを告げた。
 何だその理由は、と呆れられても構わなかった。
 信田を見ること。出来ることなら話をしてみてもいい。そう思っていただけだ。
 見たところ信田に悪魔の気配はなく、異常を感じる部分は何もない。
 悪魔をばらまくことが出来るとも思えず、やはり信田はあの情報には無関係のようだった。そもそも情報に信憑性もない。
「神父の中には悪魔を祓うことが出来る方がいると。私どもも似たような職を持っているもので」
 ねらいはおくびにも出さず、どうでもいいことをとってつける。
 信田は首を振った。
「私は神父ではありません。それに悪魔を払うことはあまり得意ではないのです。霊体に対してもそれほど優秀なわけではありません」
 自分の実力をしっかり把握しているらしい。
 螢の中に生まれた感想はその程度のものだった。
 神父でないことは充から聞いて知っている。だがその首にぶら下がっているもの、そして信田の落ち着いており、穏和な雰囲気がその職を彷彿とさせるのだろう。
「ですがみな貴方に感謝しているそうじゃないですか。素晴らしい人だと評されている」
 人格者だなんて、こんな胡散臭い商売をしている人にはあまり似合わない評価だ。
 けれど信田はそれをよく受けている。
「私がお会いする方はみなさん疲れていらっしゃる。誰かにすがりたい、助けて欲しいと願っていらっしゃる。私が霊を祓ったことで、それがとても素晴らしいことだと大袈裟に思われるだけです」
 ただタイミングの問題なのだと信田は言う。
 一番辛い時に手を差し伸べただけだと。
 けれどそんなことは他の同業者とて同じはずだ。霊が憑いて不安と疲労の中にいる時に、霊を祓い落とす。だが信田ほどの評価をされる者がどれだけいることだろう。
 苦笑を浮かべたまま謙遜を並べている様を眺める。
 嫌味がない分、本当にそう思っているように見えた。
 それもまた信田の人格を感じさせるのかも知れない。
「お時間を頂いてもよろしいでしょうか」
 螢は信田にそう尋ねる。
 依頼者でないことが分かった今では、断られても仕方がない。そんな時間はないと言われれば大人しく引き下がるつもりだった。
 けれど信田は「いいですよ」と快諾してくれ、約束をしていた喫茶店まで三人で向かった。
 こぢんまりとして落ち着いた雰囲気の喫茶店だった。店内にあまり人はおらず、流れている音楽がゆったりと響いている。
 一番奥の、あまり声が周りに届かない場所に座る。
 人に聞かれて困ることはないのだが、常識人であったのなら正気を疑うような会話になるかも知れない。
 あらゆる意味で特殊な仕事に就いている者たちだ。
「笹淵さんと、螢さんは悪魔を祓う方なのですか?」
 壁側に一人で座った信田は、注文した紅茶が届くとそう口にした。
「霊体も相手にしてます」
 不動が簡潔に答える。だが霊体なら他に請け負う人間が多いこともあり、二人の元に来るのは大抵悪魔だ。
「そうですか」
 こくりと頷き、信田はテーブルの上に置いていた手を組む。祈るような指の形だ。
「……人は、何故悪魔に憑かれるのだと思われますか?」
 穏和だった声音が曇る。
 思い悩んでいる人の表情に、螢はこの男がそのことについて真剣に考えていることを察した。
「欲があるからでしょう」
 不動が黙ったので、螢が言った。
 悪魔は人の欲に付け込む。強く、そして出来るだけ歪んでいる欲を好むらしい。
 人々が苦しみ、壊れていく様が好きなのだ。憑かれた本人だけでなく、周囲すら崩壊させてく。そのため感受性が高い者を選ぶ傾向もある。
 感情の起伏が大きく、神経質な者も悪魔にとっては手が出しやすいようだ。
「そう、欲ですね」
 信田は溜息のようにそう呟いた。
 そこに疲れのようなものが滲んでいる。
 霊体や悪魔に接し続けて、信田にも何か思うところがあるのだろう。
 同じ人間がそうして悪魔や霊体に憑かれて狂っていく様を見ていれば、人生が嫌になることもあるかも知れない。
 充なども霊体相手にしているので、死ぬ時は何も思わずに死にたい。誰かを恨んで死ぬことはだけは避けたいと言っていた。
 死んでもなおこの世に残っていることは生きて苦しむよりずっと苦しく、また無惨だ。
 人は大変だ。
 螢は同調することもなく、淡々とそんな感想を抱いた。
 何故、そう考えることに嫌気がさしたのかも知れない。
 答えが得られない時間ばかり積み重なって、きっと疑問は潰されてしまったのだ。



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