飢える慈悲 1 ソファに寝転がりながら、近くにあるテレビを眺めていた。 そこには子どもの頭を撫でている神父の姿があった。 黒い服装、首から下げられている十字架。穏和そうな顔立ちに微笑み。 まるで絵画のようだった。 流れてくる音楽は緩やかな旋律で、聞こえてくる言葉は祝福だ。 平和な光景だった。 だが螢の目には、それが美しい物だとは映らない。 (この人間は何を得たのだろう) 神を信仰して、人々に施しを与えて、教えを広めることによってこの神父は何を得たのだろう。 何を知ったのだろう。 救いというものを少しでも感じられただろうか。 神の片鱗でも、見られただろうか。 そう思い、螢は自嘲を浮かべる。 こんな浅ましさが神を遠ざけるのか。 結局、螢はどれだけ生きても、求めてもその存在を知ることも出来ない。 信じ切ることすら出来ないままだ。 (だが諦められない。ずっと、そんな愚かさを持ったままだ) 重々しく溜息をつく。 テレビの中からは賛美歌が響いてくる。 (悪魔を憑かせる神父) 一週間ほど前に始末した悪魔がそんなことを言っていた。 神父が悪魔を広めているのだと。 そもそも悪魔とは神に仕える者として忌むべき存在だろう。それを自分の側に引き入れただけでなく、利用しているなんて。それはもはや神父ではない。 神父の格好をしたただのまがい物だ。 (大体悪魔を扱うなんて、常人の出来ることじゃないだろ) 悪魔と接触すれば自分を乗っ取られてしまう可能性の方が遙かに高い。悪魔というものはその術に長けているからだ。 精神に付け込んで、人間を支配する。 その誘惑に抗うだけの精神力を持っており、なおかつ悪魔を使って人を惑わしている。 そこに何の理由があるのか。 (遊びか…?) 人を陥れて楽しんでいるというのなら、その神父まがいも悪魔と何の違いもない。 十字架をぶら下げているとしても。 脳内に鈍い光を反射させる十字を思い出し、螢は眉を寄せた。 去った国が蘇ってくる。 遠く、逃れてきたというのに。どうしてまだ記憶を抱えて込んでいるのだろう。 その記憶はいつになったら薄れてくれるのだろう。 今まで、そうして自分の記憶を零していったように。 全身を投げ出していると、玄関が開かれる音がした。 どうやら不動が戻ってきたらしい。 煙草を買いに行くと行って二十分は経過している。コンビニで他の買い物でもしていたのか。 身体を起こすと、不動が部屋に入ってくる。 案の定片手には膨らんだビニール袋がある。 その後ろに見知った人がいた。 「ちわ」 充は片手を上げて笑顔を見せた。 憂鬱そうな顔をしてここに入ってくることのない男だ。 今日も鮮やかなオレンジの服を着ている。髪の毛の色も似たようなものなので、南国にでもいればぴったり合いそうだ。 充もまたビニール袋を手にぶら下げていた。 「ちわ」 充と同じ台詞を返す。 よく喋る充が来ると、部屋が明るくなったような気がする。不動は一緒にいれば落ち着くけれど、決してよく喋る方ではないのだ。 「コンビニで不動にばったり会ってさぁ」 充はソファの前にあったローテーブルにどさりと置く。そして中から生菓子を取り出した。 「これお土産。あんみつ。不動には抹茶プリンで」 螢があずき好きなのを知っているので、あんみつという選択は理解出来ないでもなかった。 けれど不動にプリンというのは。いくら抹茶を好むからといっても可愛すぎる。 もう一つ出てきたエクレアは自分の分らしい。 甘味好きが三人も揃うと女の子が集まったかのような菓子になってしまう。 不動がカップを三つ持ってくる。匂いからして紅茶らしい。 なんだか可愛らしいおやつの時間になっている。囲んでいるのは誰も成人した男だというのに。 螢の隣に不動。向かいに充が座るという、いつもの体勢になる。 不動が、コンビニで入れて貰える透明で小さなスプーンを手にすると、それがとても小さく見えた。つくづく似合わない。 「そーいえば神父」 充はついたままだってテレビを見て、思い出したように口を開いた。 「珍しく本題から入ったな」 充は必要な話があってこの家に来ても、なかなか言い出さない。ここに来るとリラックスし過ぎて仕事の気分ですらなくなるらしい。 「やー、思い出した時に言わないと」 そもそも仕事で来ている時も、その仕事の話を忘れていくこと自体どうかと思うのだが、改善されることは今のところなかった。 悪魔をばらまいている神父がいるかどうか、充に調べてもらっていたのだ。 ただの悪魔の戯れ言だと鼻で笑っていれば良かったのだが、一応念を入れることにした。 個人的に、真実を知りたいという思いもあった。 そんな人物が本当にいるのかどうか。それを確かめなければ、落ち着いて生活出来ない。 「結果としては、悪魔をばらまいてる神父なんていなかった」 「そりゃそうだろ」 螢は充の言葉に、即座にそう答えた。 そうでなければいけない。 それが真実であってはならないのだ。 だが内心ほっとしていた。もし、そんな者がいたなら、と考えただけでも嫌な気分だったせいだろう。 必要のない不安が込み上げてきていた。 それが払拭されただけでも十分だ。 「で、神父って関連で調べてみた」 充は仕事を始めると多くの可能性を視野に入れてくる。 目的の情報を得ただけで満足はしない。関連されることを調べて、ある程度手を広げるのだ。 ただの好奇心だと本人は言っているが、人に情報を与える側の人間としては向いている性格だろう。 「そしたら、神父らしいのはいるんだよね。でもすげぇ真っ当」 「神父らしいの」 「正しくは神父ではないらしいけど」 それは見た目が神父らしいという意味なのか。中身も神父らしいのか。 どちらの意味なのだろうか。 そもそも霊体や悪魔などという者に関係している仕事だ。悪魔払いという存在が公式に認められている職についている者がいたとしてもおかしくはない。 「二日前に仕事を頼んだ時も違和感はなかったらしいから。外れだとは思うけどね」 仕事の話を持っていく人間たちの繋がりがあるのだろう。充はそれを使ってその神父らしい者のの情報を聞いたようだ。 二日前に違和感を覚えなかったということは、それ以前に悪魔をばらまいていた者ではない。ということだろう。 (神父らしい者に仕事を持っていた奴の感性が鈍くなければ) 悪魔は能力が高くなればなるほど身を潜める。 たとえ感知する力がある人間の目の前に田っても気付かれないように隠れることは出来るらしい。 螢にとっては無意味なことだが。 どれほど形を潜めていても、その匂いは消すことは出来ない。 「悪魔だなんて話もいまいち聞かないらしいし」 「その人は悪魔払い?」 「いや、霊体専門。そんなに技術が高いわけでもないらしい」 神父だからといって悪魔を相手にしなければならないなんてことはない。 こんなものは生まれ持ってきた感覚が全てを左右する。 霊体を相手に出来るだけでも奇特な生き物だ。 「依頼者を落ち着かせるのが上手いって。評判はいいけどね」 霊体だの悪魔だのに関わってしまった人は、誰もがどこか精神が不安定になっている。 常識では有り得ないはずものを目にした上に、それに悩まされているのだ。疲弊もする。 それを慰めることが出来る、というのはある意味優れている人物だろう。 螢はそのあたりのフォローをする気がない。 引きずられて、こちらまで疲れ切ってしまうのが目に見えていた。 「螢ちゃんが訊いてきた情報に当てはまるのはこの人くらいかなぁ」 充はエクレアを食べ終わり、紅茶を飲んでいる。 けれど螢はまだあんみつを手を着け始めたばかりだった。 「…まあ、信じてないからいい。悪魔の言うことだしな」 無理して螢が探してくれと頼んだ者を見つけだす必要なんてない。元々半信半疑だったのだ。 いなければいないで構わない。 「人の動揺誘っただけだと思うけど」 「だろうな」 充の言葉に頷いた。 あんみつをスプーンですくい口に運ぶのだが、一口入れれば必ず紅茶を飲みたくなる味だった。 「そんなに気になる?」 疑問が解けて晴れた顔はしていないのだろう。実際不安は多少消えたものの、何かが引っかかっていた。 「まあ」 「内容が神父なだけに?」 充は、螢が何に怯えているのか知っている。 何を捨ててきたのかも、曖昧には分かっているだろう。だから螢の表情が曇っているのも感知出来るのだ。 「そっちじゃない」 神父という単語が胸の中でずっとわだかまっている。 それがなければ、もっと気楽に構えられたかも知れない。 だが螢はそれを否定した。ならどっちだと訊かれれば、口ごもってしまうことは明白だったのに。認めたくなかった。 「俺はそっちかと思った」 充はそんな螢の気持ちを見透かしていることだろう。 そんな一言を告げた。だがそれ以上込み入ったことは尋ねてこない。 「ここに戻ってきて何年だっけ?」 充は戻ってきた、と言った。 確から螢にしてみればそう表現したい場所ではある。だがここで暮らしていた頃の記憶など、あまりにもおぼろげだ。 「…そろそろ三年」 歳月を数えることも少なくなってきた頃だった。 あの国から出た時は、カレンダを見ては何日過ぎた、何ヶ月過ぎたと考えていたものだ。 「まだそれくらいか。もっと前からいるみたいな感覚だ。不動に馴染み過ぎて」 不動に馴染むのは時間がかかると充は言う。 喋らない。無表情。何を考えているのか分からない。 性格も把握出来ないので、付き合いづらい相手だと思われているらしい。 充も最初は身構えて接していたという。 だが螢は、誰の力も必要とせずに一人で立っている不動を初めから気に入っていた。 眩しいほどだと、感じていた。 近くに寄れば、不動は無駄に干渉をしてこない。だが突っぱねもしない。それが心地よかった。 「悪くなかった」 話題にされていた人は抹茶プリンを空にした。 悪くなかったとわざわざ言うということは、美味しかったのだろう。 「それは良かった」 抹茶プリンを土産に持ってきた人はまんざらでもない顔だった。 「俺のはなぁ」 二人が食べ終わったところで、螢は手元を眺める。 実に減りが悪い。 「まずい?」 充は顔を寄せてあんみつを見下ろしてくる。 色とりどりで綺麗なお菓子なのだが。 「まずくない。まずくはないんだが、甘すぎる」 べたつく甘さというのだろうか。甘さに丸みがなくてきつすぎる。 いちいち紅茶で口の中にある甘さを消さなければならなかった。 なので手が進まないのだ。 「どれくらい?」 充は螢が置いていたスプーンを使ってあんみつをすくい上げる。 そして一口食べると、唸った。 「あっまいな…」 甘味好きであってもなかなかに辛いのではないかという甘さだ。 これは抹茶に合わせるのが丁度良いのかも知れない。 「まぁいいけど」 「小豆だから?」 あんこを好む螢をからかうように見てくる。 どれだけ好きなんだよという目だが、気にしない。 「そう」 頷いて、また甘すぎるあんみつを舌の上に乗せる。 小豆は特別好きな食べ物ではなかった。 好きでも嫌いでもない。さして印象もないものだった。 けれどこの国に帰ってきて、まず食べたのがおはぎだった。 口に入れた瞬間、涙が溢れたのを覚えている。堪えようとしても止まらず、泣きながらおはぎを食べた。 確かにこの国にいた。ここで暮らしていた。 記憶はなくとも、身体で覚えていたのだ。この国のことを。 その時味わった安堵と懐かしさは、何にも代え難い。 (何もなく過ごしたい) もうこれ以上掻き乱されたくない。静かに暮らしていきたい。もうしばらくは、このままで。 そう願っていた。 next |