偶像の棺   9




 不動の車に乗り、螢は行き先を告げた。
 正確な位置は分からない。
 ただ行こうとしている場所の近くには寺があり、それが現在でも残されていることは知っていた。
 そう言うと不動はその寺の所在を調べ、カーナビゲーションに入れた。
 数時間走り、日は暮れて辺りが夜に包まれた頃にようやく近くまで辿り着いた。
 螢が本当に行きたい場所は到底車が入れる所ではなく、その手前で車を止める。
 寺に行くまでの道は綺麗に整理されているが、そこから先は徒歩でしか通れないような細い道なのだ。
 木々が生い茂る山の中、人家の灯りなどはない。
 だが夜にかかる月は丸く、周囲を確認出来る程度の明るさを持っていた。
 虫の鳴き声があちこちから聞こえてくる。その中に水が流れる音も混じっていた。
 とても懐かしい。
 蒸し暑く、少し動くは汗ばむこの気候も、夜の虫たちの響きも、湿った土の匂いも、草木の匂いも。
 何もかもが、螢を包み込んでくれる。
 螢は無言で先を歩いた。
 二人はその後を付いてくる。
 人の手は入っているだろうが、そう整備されているわけでもない道を歩き続け川に出る。
 慰め程度の小さな石で出来た階段を下り、数メートルほど幅のある川の両端には砂利が敷き詰められている。
 しかし到底人が頻繁に訪れる場所ではないだろう。
 水の流れは清らかな香りを漂わせる。微かな汚れすら感じさせないその様は、どこか不動と似ている。
 悠然と時を流れ、変わることのないその有様が螢には羨ましい。
 せせらぎに混じるようにして、緑の淡い光が舞っていた。
 頼りなくふわりふわりと浮かんでいるその光は、一つの命だ。
 暗がりの中でそれらが無数に飛び交っている光景は幻想的だった。
 とても美しい、だが刹那の間だけしか見ていられない光なのだ。
 虫の一生はとても短い。
 己の呼び名を思い出しては苦い思いが込み上げてくる。なんて、相反するものだろう。
「ほたる…ですね」
 アルディがそう呟いた。
 この国の人間ではないアルディがその言葉を口にしたのが意外だった。
「知っているのか」
「悪魔が情報をくれるもので」
 アルディは何でもないことのようにそう言って、自分の周囲に舞っている螢に目をやった。
「ここにいた時は、ずっとそう呼ばれていたのですか?」
 螢はその問いに首を振った。
 今はそう呼ばれている。だがそれは不動がくれたものだ。
「いや、きっと違う。もう覚えていない」
 あの国に行く前に自分がどう呼ばれていたのか。そんな些細なことはもう覚えていない。それは今の螢を生かすことに必要ではないのだろう。
「でも螢が舞っている様は、この場所のことは覚えていた」
 随分は古びて、所々危うくなってはいるけれど、この光の優麗さは眼窩の奥に刻まれていた。
「私はここで、神が見たいと思った」
 川の流れを聞きながら、目の前で光が浮かんでいるのを眺めながら、あの時神というものは何なのかと思ったのだ。
 知りたくなった。
「六十年以上前のことで、この国はまだ戦をしていた」
 戦時中のことだ。この国はとても貧しく、苦しい状態にあった。
 それがどんなものであったのかは、当時生まれていなかった不動も多少は知っているだろう。
 特に蒸し暑い時期になると、戦のことはあらゆる場面で耳や目にする機会が増える。
「私は戦とはあまり関係がなかった。私は秘されている者だったから」
 戸籍などを元にして徴兵は行われていたことだろう。だが螢に戸籍などあるはずがなかった。
 それに、人ではないことを知っている者の家で暮らしていたのだ。螢がどんな存在であるのかを知っている上で、戦に関われという方が無理だろう。
 見た目がどれほど健康そうな男であっても、中身は人ですらない。
「しかし人目をはばかることを強いられ、夜中にしか外には出られなかった」
 昼間にふらふらしていれば、あの人は戦に出兵しないのかと噂される時がくる。
 それは都合が悪い。
 だから螢はなるべく人目に付かないように、屋敷の奥で暮らしていた。だがそれも窮屈だ。
「人に会わないように、夜中には辺鄙なところを散歩していた。ここはそんな場所の一つだ」
 今よりずっと夜が深い時間に歩いていたのだ。
 人などふらりとしているとは思えなかった。
 だが、螢は何度かここに来ている内にばったりと、それを見たのだ。
「そんな時に一人の人間と出会った」
 性別が何であったのか、たぶん男だったような気がする。けれど女であってもおかしくはない。それほど、もう曖昧だった。
 螢はその人間の外見には全く興味がなかったのだ。だから覚えているのは、その会話の内容だけだった。
「その人は毎晩戦の愚かさについて、一人嘆いていた。川のせせらぎに消えそうな声量だったはずなのに、鬼気迫った声が私に届いてきてしまっていた」
 あの人は真剣だった。
 両手を胸の前で合わせて、指を絡めて軽く握っていた。
 そして涙を浮かべながら、何かを訴えていたのだ。そこには誰もいないというのに。
「戦の批判をするということは、当時の私にとって珍しいものだった。それは非国民として罰せられる時代だったから」
 国民全員が一つの方向を見て、戦に立ち向かっていこうとしていた時代だ。
 それを強要されていた時代だ。恐怖を感じることも、それが嫌だということも許されなかった。一人でもそんな者がいたならば、考えを改めさせなければならないと思われていた時代だ。
 思想の統一を国によって決められていた。
「だからあの人もこんな、誰も来ないようなところで一人、嘆いていたんだろう」
 口に出してはいけない。けれど黙ってもいられない。
 相反する気持ちが、あの人をここに連れてきたのだ。そして言葉を紡がせた。
「あの人は、何度も何度も神は全てを見ていると言っていた。知っていると。きっと嘆いておられると、そう告げていた」
 螢はそれがこの国で生まれた神でないことは、なんとなく察しが付いていた。
 その人がこの国ではあまり見ない形のものを手に握り締めていたからだ。
 それに祈っていると思われるその姿は、見慣れぬものだった。
 だが伝え聞いてはいた。そういう神がいるのだと。
「いつか裁きが下る。そう口にしていた。この世で唯一の神は戦を好まない。この国の有様をきっと怒っていらっしゃると」
 その時螢はその人の声は聞こえるけれど、あちらから姿を見られないだろうという木の陰にいた。
 その人の嘆く姿をなんとなく眺めていた。
「私はその人の言葉を聞きながら、そんな存在がいるのだろうかと思った。この世の全てを見下ろす、万能なものがいるのだろうかと」
 この国にも神はいる。
 けれどこの国の神は万能ではない。それぞれ特性があり、何でもかんでも救ってくれるわけではない。何かを成した者に対して、それ相応のものを与える。
 それに人全てを無条件で助け、守ってくるものなど、都合の良過ぎることは許されない。
 螢の心を引っ掻いたのはそれだけではない。
 その神は全てを見落とし、知っている者だというところが気になった。
「その人は泣きながら訴え、そして慈悲が、天国がというような言葉を涙ながらに喋っていた」
 もうそこまでくるとまともに声を発してはいなかた。すすり泣きに近い。
 哀しみが極まったのか、首を振って膝をつき俯いていた。
「この世は地獄になり果てる。その人はいつもその言葉を言いながら、悔やんでいるようだった」
 最後はいつもそうだ。
 地獄だと言うのだ。
 その人は地獄と言う時に怯えているようで、それが恐ろしい場所なのだと察しはついた。そして天国という場所がそれと逆の場所にあることも。
「毎夜、一心不乱だった」
 その人は毎日通ってきていた。
 語っても語っても、心の中にあるものは消えない。軽くもならないのだろう。
 嘆き、苦しみ、肩を落として帰った翌日にも、また同じように泣いていた。
 それを同じように毎日確認しているのも、どうかと思ったけれど。その時螢には時間が余っていた。
「半月はそうしていた。次第に私はあの人が言う神というものが気になり始めた。心を、惹かれた」
 初めはそんな都合の良いものがいるのかと思った。そして暮らしていた屋敷でその神のことを聞くと世界に広められていると聞いた。
 多くの者が信仰しているそれは、もしかすると本当に慈悲を持ち、この世のことを全て知り尽くして、今も世界を見下ろしているのだろうかと思った。
 半分以上は信じていなかったけれど、どんなものなのだろうかと心が傾いた。
「全てを知ってるのであれば私が何であるのかも知っているかも知れない。私がどこから来て、どうなるのか」
 生きてきた経歴も、螢はよく知らない。覚えていない。
 自分のことだ。けれど何も知らない。
 まして他人が知るはずもない。
 その事実以上に不安定なことなどなかった。一体己が何であるかも知らない生き物に、存在している理由などあるのだろうか。
 この世の過ちで、偶発的に出来た化け物なのではないか。
 そう思いながらも、どうすることも出来ずにただ流されて生きてきた。
 誰も螢の不安を払拭出来ない。肯定も出来ないのだ。
「私はこの世に一人しかいない生き物なのか。ずっと孤独であり続けるのか。私は…死ぬことが出来るのか」
 螢は川が流れていくさまをじっと見つめていた。
 誰の顔も見たいとは思わなかった。
 気持ちを吐露したところで理解されるとも思っていない。それは不可能なことだからだ。けれど人の哀れみの眼差しも受けたくなかった。
 どれほど悲哀に満ちたことなのかは自分が最も感じ取っているから。
「私はその者に尋ねようと思った。貴方の祈っている神はどこにおわすのか。声が聞けるのかと」
 近付いてみたいと思ってしまった。
「儚い願いだとは分かっていた。けれどこの世には人ならざる者の声を聞ける者がいる。その大半は偽りだけれど、中には本物もいるだろうと思った」
 この国にも、人ではない者の声を聞く者たちがいる。
 ならば他国にも、神の声を聞ける者がいるのではないかと思った。
「だから、明日は声をかけようと思った。信じられないだろうけれど、己の身の話をして、神がどんなものか尋ねようと思った」
 無駄な話で終わることも、その人に嘘話だと思われて信じて貰えなくとも、それはそれで構わなかった。あの時の螢はもう疲弊していたのだ。
 人でないことに、そして戦で摩耗していく人々の心に、疲れていた。
 自分が戦に参戦出来ないからと言って、完全に戦と切り離されることは不可能だったのだ。屋敷の中でも戦の話は出る。
 霊体を食える、それは霊体を操れるのではないかという考えを持った者もいるらしい。敵に悪霊を憑けてくれなどという馬鹿馬鹿しい願いをされたこともあった。
 あの人の話を詳しく聞こうと思ったのは、そんな現状に辟易していたからかも知れない。
「けれどその機会は永遠に失われた」
 螢は溜息をついた。
 清らかな水の香りを押し返すかのような、悪魔の匂い。それを背後に感じながら記憶を探ると、心の均整が乱される。悪魔というのは存在しているだけで、精神に作用を及ぼすから厄介だ。
「会えなくなったのですか?」
 口を閉ざしてしまった螢に、アルディが問う。
「いや、会った。けれどあの人はもう話せる状態じゃなかった」
 螢は少しだけ振り返った。
 二人の視線を浴びながら、頭上にある木々の一つを指でさす。
 正確な木がどれであるのかは分からない。この場所があの場所であるのかも。
 けれどこれと酷似した光景だった。
「あの人は吊されてしまった。木にぶら下がっていた」
 弛緩しきった身体が半月の下で揺れていた。
 裸足が、ゆらりと、見えていた。
 螢はいつものようにあの人が来ると思って、神の話をするのだろうと思ってここに来た。けれどそこにあったのは死体だったのだ。
 物言わぬ肉。
 螢たちの光の中で、それは歪んだ有様として目に焼き付いた。



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