偶像の棺   10




  首に縄をかけられた、あの姿は人の最期にしてはあまりにも悲惨なものだった。
 人の命など儚い、短い、弱々しいものだとは知っていた。そんなものは目で見てきている。
 だがあれほど虚ろなものは、そう見られるものではなかった。
「自殺したのか」
 不動の静かな声音が響く。
 螢はそれに首を振った。
「身体は酷い有様だった。ぼろぼろで打撲の痕がそこら中に付いていた。あの人は殺されたんだよ」
 しかもそれは打撲の痕の酷さを見れば、首を絞められて殺されたわけではないと分かった。
「そして見せしめに吊された」
 首筋が寒くなるような話だった。
 だが当時はそんな狂気じみたことが日常の中に潜り混んでいても、さほど大事としては取られなかったのだ。
 戦で数え切れぬほど人は死んでいたのだから。
「あの人は異国の神を崇拝し、戦争は愚かだと我が国を批判した。非国民だよ」
 それは犯罪だったのだ。
 自国を誇り、自国を敬い、自国のために己を捨てる。それが国民としてのあるべき姿だった。
 たとえその心がどんなものであったとしても。
「どうやらあの人は自分の考えを他者にも語ってしまっていたらしい。ここだけでは我慢の限界があったのだろう。だがそれは許されないことだった」
 異国の神など、口に出してはならなかったはずだ。
 神はすでにこの国にはおわすのだから。
 戦に向かう者が崇拝しなければならないのは、最も崇拝されるべきなのは目に見えぬ者ではなかった。
「私は、吊されたあの人の姿を見て知りたくなった」
 見た瞬間に白く染まった脳裏には、ぼんやりとしたものが広がっていた。
 それは哀しみや、嘆きではない。
 もっと歪んだ。もっと乾ききったものだった。
「神はこれを見ているのだろうかと」
 全てを知っている。今もこの世を見下ろしている。
 その神はこの光景を見ているだろうか。
 あまりにも無惨な、あの人の死体を。
 もうじきこの身体はむせるような暑さに溶かされ、崩れ落ち、腐臭を放って朽ちていくだろう。
 それをどんな目で眺めているのだろうか。
「神を崇拝し、敬愛し、祈り続けた者の末路を神は見ているのだろうかと」
 もし見ているとすれば、何故こんな仕打ちを無言で見ているだけなのだろう。
 神の教えを説いていたはずの、あの人は助けるべき者ではなかったのか。手を差し伸べるべきものではなかったのか。
 そしてこんな有様で死んだあの人は、天国に逝けたのか。
 直前まで地獄のような状況に叩き付けられ、人としての尊厳を根こそぎ奪われたであろう。それでもまだ、あの人は信仰を変えなかったのだろうか。
「そして私は、この国を出た」
 この国が行く末に憂いを持ったわけではない。
 人をこんな風にして、虐待する人々が恐ろしかったわけではない。
 霊体に狂わされる人など見慣れていた。だからその狂気はまだ受け付けられないものではなかった。
「神というものを知りたかった。何も、分からないままに求めた」
 ここに立つと、思い出すと分かってしまう。
 本当は神に救いなど求めてなかったのだと。それは救いにならないと知っていた。
 それでも神が見たいと思ったのだ。
 人を守り、助け、救うだけの慈悲の固まりであったのなら、きっと会いたいなどと思わなかった。
 そんなものは自分にとってはほど遠いものだ。
 自分など、愚かさと浅ましさにまみれた自分など会えるはずがない。
 だが見ているくせに、何もせずにただじっとしている。戦をし、殺し合っている人々の上でただ淡々としている者ならば会いたいと思った。
 それはあまりにも生き物のようだと思ったからだ。
 その非情さが、人のようだと感じたからだ。
 それなのに人とは異なる、天上の存在。
「私は今も何も分からない。そして信じてもいない。己のことしか考えていないのだよ」
 神は信じるに値するものではない。
 ただの儚い期待だけだった。
 それも裏切られることを知っている期待だ。
 そのために多くの人間を振り回し、狂わせたのだ。
 責められることはあっても、罵られることはあっても、敬われるばずかない。そのはずなのに、誤ったことばかりが人に伝わっていく。
「そんな私が、神などというものになれるはずがない」
 人の思想を狂わせるだけのものが、神だと言われるはずがない。
 螢は何も知らないのだ。この世を眺めることすらしていない。
 ただ自分のためだけに動き、自分のためだけに生きている。
 他人の感情すら無視して、自分のいいように作り替えている。
 そんな身勝手な者が、非道な者が、歪なものが何だというのか。
「それでも良いのです」
 穏やかなアルディの声が刺さる。
「良くない。信仰者よ、何一つ良いことなど、正しいことなどありはしない!」
 首から信仰の印をぶらさげ、恭しいその服装に身を包み、教えを説く者にそう告げる。
 何一つとして、アルディにあげられるものなどない。教えてやれることなどない。
 この生き様がどんなものか、どんな気持ちであの国にいたのか。もう十分に分かったはずだ。
 冷静な顔をして、優しい言葉をかけながら、心の中では誰も信じていなかった。救おうとすら思っていなかった。
 全て偽りだった。
 慈悲も心も、人に平等に接する気持ちもなかった。
 アルディを拾ったのも、育てたのも気紛れで、一人でいるのが嫌だったから。そして逃げたのは。
「私は、私は…!」
 この場所に来たことがきっかけになったのか、抑えていた記憶の断片が込み上げてくる。
 その時の感情も付随して、螢の心臓を蝕んだ。
 思い出さないように必死で目をそらして、鎖でがんじがらめにした。いつかそのまま朽ち果てていくと信じていた。
 思いこんでいた。
 だがその気持ちは今でも鮮明に、こんなにも確かに鼓動を刻んでいる。
 不動に出会って、暮らして、その存在が肌に馴染んで。
 側にいなければ生きていけない。生きていきたくないとそう思った時に。
「私は」
 その鎖が緩んでしまった。
 けれどそれでも不動の側なら良かった。アルディがいなければ、それはこれほどの罪にはならなかった。
 その鎖が封じたものは、螢だけでなくアルディの首を絞めてしまうから。
「おまえを慈しんだ。大切にした。それは親のような立場だったから。親のような気持ちでいたから」
「はい。貴方は私を大事にして下さった」
 語る螢にアルディは頷いた。
 素直に肯定してくれる、その様にすら螢の心がきしむ。
「けれど私はそれを変えてしまった」
 喉が震えた。
 告げるべきではない言葉を言おうとしている。
 アルディを深く傷付ける、大きな後悔を負わせることを言おうとしている。
 あの檻に入れられた時も、決してこのことは言わなかった。自分が傷付くのが怖かったこともある。だがそれよりも怖かったのが、アルディが何かを信じる心まで奪ってしまうのではないかということだった。
 神を敬愛している彼が、うち砕かれて疑心暗鬼になるような様は見たくなかった。
 だから言えずにいた。けれどもう、偽れない。
 全てを壊す時が来たのだろう。まだ、引き返せるのだから。
 その悪魔はまだかろうじて引き離せるのだから。これを逃せば、アルディは命すら落とす。
 だからもう迷えなかった。それがこの身体を貫いて、喉を裂いて。
 悲鳴が血になったとしても。
「私はおまえの親として、存在し続ける自信がなかった。少しずつ大きく成長して、綺麗になっていくおまえが。私と同じ年に見えるほど育ったおまえが。可愛いおまえが。私は」
 いつからだっただろう。
 きらきらとした髪を撫でて、寝物語を聞かせていた頃には、とてもではないがそんなことは思わなかった。
 ただ健康に、ただすくすくと逞しく育ってくれと思った。
 悲しい過去があるというのに真っ直ぐ伸びて、日に日にしっかりとした心を見せる子を誇らしく思ったことはあったけれど、それが別の感情になるなんて、想像もしていなかった。
 いつまでも小さいと思っていたのだ。
 親子の関係が続くと。穏和な空気のままで、暮らしていけると思った。
 けれど螢は年を取らない。
 アルディは追いつき、いつしか螢と並んでしまった。
 傍らにいるその人を、自分を真っ直ぐ見つめて、信頼を寄せてくれるその人をそれまでと同じように自分の庇護が必要だとは思えなかった。
 むしろ守られているとすら感じた。
 抱き締めていたはずだったのに、いつしか抱き締められる側になっていた。その腕の中で、慈しむ感情は別のものに変わっていった。
「私は…!おまえを!」
 それ以上は声にならなかった。
 禁忌だ。
 アルディが望んだあの神はそれを許してはいない。
 今まで自分を子どもと思い、ずっと大切にしてくれていた親のような存在がある日、おまえを子どもとして見られなくなったと言ったら、どれほど衝撃を受けるだろう。
 どれほど心を壊してしまうだろう。
 それは神に対する反逆にも近かった。
 だから、言えなかった。
 そしてその気持ちは未だに螢の喉からは出てきてくれない。絞り出そうとするけれど、呆然とするアルディの顔に鼓動が止まってしまいそうだった。
 これは、罰なのだろう。
 全身に襲いかかってくるこの痛みは、心臓が引き裂かれるような切なさは、あの神が螢に与えた罰なのだろう。
 信仰する者に接触して、その相手によこしまな思いを抱いた結果だ。それを隠しながら、共に暮らしていた、これが結末だ。
 アルディの中で悪魔が笑っている。螢の苦痛を感じて、楽しんでいるのだ。
 笑えばいい。螢を蔑めばいい。
 だが同じようにアルディも螢を蔑めば、二人で暮らした日々も、罪に気が付けばもう螢を求めようとはしない。そうすればその盲目的な信仰もなくなって多少正気に戻る。
 そうすれば悪魔を引き剥がすことも出来るだろう。
 狂気が少しでも薄まればこちらも手を打てる。
「おまえを親としての目ではなく、もっと欲深く浅ましい目で見てしまいそうだった。それは、情欲ですらあった」
 喉の奥で、血の味がした。
 身体を裂かれても、言うまいと決めていたことだった。
 その決意を破ったのだ。
「私は…そういうものだったのだよ。親代わりであったのに、男であったというのに、抑えられるか分からなかった」
 己の気持ちを口にしてしまいそうだった。
 あのままではいつか、アルディに甘言を囁いて自分のものにしたいと思ってしまいそうだった。
 不動がこの前言っていたことが蘇る。
 どれほど恋しいのかと。
 あの時は分からなかった。分からないと思いこんでいた。だが心の奥ではずっと、アルディに焦がれていたのかも知れない。
 叶わぬ思いに苛まれていたのかも知れない。
「いつか大罪を犯す気がした。だから私はおまえから逃げた。二度と会わないように」
 アルディの信仰を受け入れられなかったのは、神ではないと言ったのは。そんなもので遠ざけて欲しくなかったからだ。
 神だなんて、そんな欲も浅ましさも知らないものだと思われたくなかった。あの時、心の中にあったのは膨らむばかりの己の気持ちに対する戸惑いと後ろめたさばかりだったのに。
「おまえが神と崇めた者は、胸の内では浅ましさに満ちていたのだよ」
 螢は自嘲を浮かべた。
 罵倒される覚悟は出来た。
 それは全身を斬りつけられるように痛いだろう。けれど哄笑を上げる悪魔を引き離すにはそれでいい。
 それでアルディの命が多少なりとも長らえるのであれば、悪魔などに命を取られないのであれば。どんな屈辱を黙って受けられる。
 それが十数年同じ時を過ごし、あの子の成長を見届けた螢が出来る、たった一つの役目だ。
 アルディは呆然とした表情のまま、螢に近寄った。
 暴力を振るうような人ではないと思ったが、どうされるかなど検討もつかない。
 全身を硬くして、緊張しているとアルディはその場に力無く膝をついた。
 生気が抜けているような、そんな弱々しい態度に絶望に打ちひしがれたのかと思った。
 けれどそれならば何故螢の目の前で膝をつくのか。
 混乱していると、アルディはゆっくりと顔を上げた。
 あの国の空を思い出させる青い瞳が、螢を見つめた。



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