偶像の棺   8




 ステンドグラスの破片が落ちてくる。
 粉々になって、綺麗な粒子をまき散らす。
 きらきらと、歌っているかのようだ。
 けれどそれは悲愴な音に違いなかった。
 ぽかりと空いた窓からは外の音が入り込んできていた。蝉の鳴き声が耳に届く。
 だが螢がそれを認識するのに時間を要した。
 目で見たものを理解出来なかったのだ。
 どうしてステンドグラスが壊れるのか。
 誰も何もしていない。触れていない。
 何かの操作がされたのか、けれどあれほど粉々になるのは爆発でもさせなければ無理だろうに、何の音もしなかった。
 無音で、ステンドグラスは自ら壊れていったのだ。
 舌打ちが聞こえる。
 どうやら横にいる不動が苛立ちを抑えられなかったらしい。珍しいことだ。
「私は、壊せるのですよ」
 たった一人、アルディだけが悠然としていた。
「意識しただけで物を破壊することが出来る。悪魔を手に入れるまではそれほど力も大きくなく、また一度に集中力の大半を使ってしまっていたので何度も出来ることではなかったのですが」
 そこまで告げて、アルディは一呼吸置いた。
「今は人の五体をばらばらにすることくらいは容易に出来ます」
 ぞくりとした。
 アルディの目の前に、二人は命をさらけ出しているようなものなのだ。
 危険は覚悟していた。自分が過酷な目に遭うことも想像していた。けれどここまで死に直結するとは、まだ想像が浅はかだった。
 嫌な汗を掌にかく。
 もはや一瞬であっても、アルディから目が離せない。
 果たしてアルディの力は螢に目視出来るものだろうか。
 意識してみれば、螢は人には見えないものの流れを見ることが出来る。霊体に通じるものであるなら間違いなく確認出来るだろう。だがアルディが持っているものは、それに当たるかどうかは怪しいところだった。
「あの男の事故の際には、ブレーキを壊しました」
 人工では無理だと、人には出来ないことだと言われた理由がようやく判明した。
 確かにただの人には出来ないことだ。しかしアルディには出来た。
 まさかこんな方法を使ったなんて誰も思わないだろう。だからアルディはまだ捕まっていない。捕まることもないだろう。証明する術がないのだから。
 もしかすると。そう思っていた疑惑は、今何の不明な点もなく解明されてしまった。
 知らなければ良かった。分からなければ良かった。そんな思いだけを螢に与えて。
「母もこの方法で殺しました」
 アルディ…?と問う声は掠れてろくに響かなかった。
 淡々と笑みを浮かべたまま話す人の言葉が螢の中で反響していく。
「あの頃の私はとても小さな子どもで、力もろくに使えなかった。けれど時折溢れる力を表に出しては母親に殴られていました」
 虐待の理由は、アルディは人とは異なるものが時折見えるからだけではなかった。
 この力があることを母親は知っていたのだ。それが恐ろしいことがあることも、感じ取っていたに違いない。だからアルディを疎んだ。
 人間の本能として、脅威になるだろう存在を拒絶することを選んだのだ。
「今のように壊すやり方もろくに分からず、ベランダにいるあの背中を睨み付けていました。ありったけの思いを込めて、落ちろと」
 アルディが母親を失った時の年齢を思い出して、螢はぞっとした。
 この子はなんて幼い頃から人を呪っていたのか。
「落ちて死ねと思っていました。ただそれだけを願った」
 偽りのない本音なのだろう。アルディはさして力を込めることもなく告げている。
 それが一層、恐ろしい。
「私は貴方と一緒にいたかったのです。貴方と二人だけでいたかった。母は邪魔だった。あの女は貴方を求めていた。貴方だけを。それには私が邪魔だった」
 螢の元に来ていた母親は、何かと螢のことに関して尋ねてきた。そしてとても親しげに接してきた。
 しかしそれでも信仰の色が強くあり、螢は彼女に対して距離を置いて接することしか考えなかった。
 他の人々と同じ、彼女もまた螢を勘違いした目で見ていると知っていたからだ。螢はそんな関係を求めてはいない。
 だが彼女はそんな螢のことを想像もしていなかったのか。付き合いたいと言うようなことまで言っていた。子どもがいることが、彼女の中でのネックだったようだが、それ以前のことなのだとは、最後まで伝わらなかった。
「だから殺そうと思った」
 そして実際にそれを実行した。
 お互いがお互いを邪魔だと、いてはいけない存在だと思っている親子。
 信じられない思いだった。
 親子というは誰もが誰も大切にし合っているものではない。慈しみ合っているものではない。それは現実で見てきている。理不尽な扱いを受けているものも知っている。
 だがあんな年で母親をそれほど憎み、疎み、そして殺してしまったような子どもは知らない。
 あれくらいの年の子どもにとって母親というのは自分と同じくらい大きな存在であるはずではないのか。
「この力は私を苦しめていたけれど、あの時から、あの女を殺した時からこの力は私にとって苦痛になるだけのものではないと気が付いた」
 それまでアルディを苦しめるだけだった力が、救いになった。それは喜ばしいことだったのかも知れない。その手段が、母殺しでなければ。 「やがて年を取るにつれて私はこの力の使い方が分かるようになり、自分のために有益に使えるようになりました」
 硝子の雨を降らせたように。
「それが私の周囲に人々を集められた理由です。貴方は人望だと言っていましたが、それは違う。神の教えを説いていただけでは人などあんなに集まりません。妄信的な信頼も」
 アルディの周囲には人々がよく集まった。
 友好的なアルディの態度が、人に好感を与えているのだろうと思っていた。
 中には螢に向けるような、信仰めいた感情を見せる者もいたけれど。それはアルディが神の教えを人々に説く場合があり、それが神秘的に感じられたのだろうと思っていた。
 あまりにも楽観的で見通しの甘い考え方だ。
 この目は節穴だったということか。
「もちろんこの事を知っている人は限られています」
 自分が異質であることを知っているアルディは己の力が切り札のような役割であることを知っていたのだろう。見せびらかせば、価値が下がることも。
「だから多くは神の言葉を私の口から聞いていただけに過ぎません。けれど」
 アルディはそこで含みのある止め方をした。
「私にとっての神は貴方です」
「違う!」
 それ以上は聞きたくなかった。
 神などという単語はもはや自分に向けられていると思うだけで、衝動的に逃げ出したくなる。
 もしくは喋っている者の口を閉ざしてしまいたくなる。
「違っていても良いのです。私にとって貴方がそうである。ただそれだけのこと」
 どうしてそんなことを言うのだろう。
 違うと頑なに否定する螢の言葉を無視して、認めずに、ただ自分の気持ちだけを突き付ける。
 拒絶すら許さない態度のままで。
「その言葉が!その気持ちが私を追いつめる!」
 だから逃げずにはいられなかった。側にいることなんて出来なかった。
 それを理解してくれない。
「何故?」
「私はおまえの神などにはなれない!理想になどなれない!おまえが望むほど正しくも美しくもない!おぞましい欲に満ちている!慈悲など持ち合わせていない!」
 どんな気持ちでアルディと暮らしていたか。
 慈しみたい、大切にしたいとは思った。けれど一方で自分の寂しさを埋めたかった。必要とされたかった。
 自分にとって都合の良い相手になるように、自分の良いところばかりを見せていた。装飾を付け、浅ましい部分は隠し、自分の本音をぶつけることすら避けた。
 所詮人の時間など自分とは比べものにならないほど短いものだと、侮っていた。
 真摯な態度ではなかったのだ。
 だからアルディの真っ直ぐな信頼や、純粋な眼差しに心を痛めたことも多くあった。
 後ろめたいと感じたことも数え切れなかった。
「私の理想が、貴方に分かりますか?」
 そんなに冷たい声を自分に投げられたのは初めてだった。
 突き放すようなことを言われ、螢は目を見開いた。
 時が止まる。
 怒りすら滲んでいるその双眸は螢の見たことのないものだ。
 アルディの理想。
 螢を神だと崇める姿をおかしいと思った。異様だと感じて止めた。その奥には信仰があると思ったからだ。己の感情すら無視する、盲目的な姿勢があると思っていた。
 それは間違いだったのか。
 全身から力が抜ける。
 過ちがある。何かが大きく食い違っている。
 アルディとは決定的な何かが、大切なはずの何かが欠落したままになっている。
 それは何だというのか。
 呆けたようになっている螢を見てアルディは一度目を伏せた。何かに思案したかのように見える。
「貴方を留めるものを切れば、帰って来ずにはいられないでしょう?」
 アルディは自分の理想に関して話すつもりはないらしい。
 再び視線を上げた時には、またあの笑みを浮かべていた。
「切る…?」
「精神的に、物理的にも」
 アルディはまた右手を挙げた。その指先を辿った先にあるのは、不動の首だった。
 螢がとっさに動くより先に、不動は自分の前で腕を交差させた。
 衝撃がぶつかる気配がした。空気の流れが大きく渦を巻く。
 おそらく不動とアルディの意識がぶつかったのだろう。
 不動の腕には斜めに傷が走る。
 そして力に弾かれたように両腕が身体の前から離される。
 螢の目にはその直後、圧縮された空気が不動の首に巻き付くのを確認した。
 あれが、アルディの力なのだろう。
 螢の目ですらはっきりとは感知出来ないのだ。人間の網膜で何かしらを察知することは不可能だろう。
「不動!」
 血を流す手で、不動は自分の首の辺りを引っ掻く。まとわりついている力を剥がそうとしているのだろう。けれど掴めている素振りはなく、呼吸が乱れていく。
「…っ…」
 じわりじわりと締め付けているのか、不動の表情が歪む。
 螢も不動の首に指をかけるが、静電気のようなものが指先を弾く。何度も触れようとするが全く寄せ付けられない。
「アルディ!」
 止めろと悲鳴のような声で責める。
 だがアルディは涼しげな表情をしていた。
「そんなものはいりません」
「止めろ!」
 不動が苦しんでいる。その様が螢を苦痛に叩き付ける。
 自分が痛むのは構わない。自業自得だ。けれど不動は、不動には傷付いて欲しくない。まして自分のことでこんな思いをする必要なんてないのだ。
「帰って来て下さいますね?」
 そこには確信があった。アルディは螢がもう拒絶出来ないことを知っているのだ。
 だがずっと拒んできたのだ。それだけは駄目だと、逃げ回ってきた。
「…かえ、るな」
 不動は螢を見て、そう告げた。
 途切れ途切れの苦悶に満ちた響き。
 それが螢の迷いを断ち切る。
「分かった」
「螢っ…!」
 不動の眼差しが叱責するが、螢は首を振った。
 苦しむのは螢一人で十分なはずだ。
「けれど私にも用意がある」
「生活のことならお気になさらず、そのまま残してありますよ」
 アルディはにっこりと微笑んだ。
 自分の元に螢が帰ってくると確信して、機嫌が良くなったのだろう。
 螢を閉じ込め続けたあの檻がそのまま置かれているのかと思うと、目の前が暗くなるのを感じた。
 あの日々が戻ってくるのか。
「行きたい場所が、ある」
 螢は記憶の片隅、ほんの僅かにひっかかっている場所に行きたいと思った。
 再びの地を離れるのであれば、あの場所にもう一度立ってみたい。
 それは不動と共に平穏な時間を過ごしていた時には思わなかったことだ。
 けれど今は強く惹かれている。
「螢…」
 止めようとしているのか、不動は螢の手を掴んでくる。その指に、螢は自分の指を絡めた。
 あったかい手だ。
 この手にどれだけ救われたことか。守られたことか。
 決してこの人を失ってはいけない。
 螢自身のためだけではない、きっと不動は螢以外にも誰かを救ってくれる人だから。
 自分のために犠牲になって良いはずがない。
「だから少しだけ待って欲しい」
「人の寿命は短いのですよ?」
 素直に応じることなく、アルディはそんな皮肉を口にした。
 行くなと言いたいのだろう。
「少しの間だけ」
「なら私も共に行きます」
 螢を視界から逃すのがもう嫌なのか、アルディは同行を申し出た。
 断ったところで聞かないのは目に見えている。
 螢はそんなアルディを見て、ああ…と呟いた。
「そうだ……うん。一緒に行こう」
 来たがったアルディに、螢はあの場所を思い出しては頷いた。
「おまえにも見せたいと思ったことがある」
 あの国にいる時に、ごくまれに思い出した時はアルディにも見せてやりたいと思ったことがあった。けれど見せることはないだろうと思っていた。
 それが叶うことになった。
 果たしてそれがどんな結果を生み出すかは分からない。
 ただ螢はあの場に戻らなければならない気がしたのだ。
「不動も」
 螢は繋いだ手に力を込めた。
 困惑を見せるその眼差しを見つめ返す。
 教会内の空気が緊迫したものに変わっていくのは、アルディの気配がそうさせているのだろう。けれど手を離したくはなかった。
 まだ、不動も螢もここにいるのだ。まだ離れていない。
 だからも後もう少しだけだったとしても、このままでいたかった。
「それは、何処だ」
 不動は見当が付かないようだった。無理もない。螢はその場所を不動に教えたことはなかった。
「…はじまりの場所」
 螢はそう告げた。
 あの場所で、あの時に、はじまった。



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