偶像の棺   7




「おまえと私は違いすぎる」
 考えも生き方も、進んでいこうとしている先も。
 そして身体も、寿命も、生き物としても何もかも異なっている。
 認めさせるには辛いことだった。
 螢自身がその事実に何度も打ちのめされている。
 息を吸うことすら罪悪であるかのように、痛みを感じてきた。
 それを他人に説き伏せるのは、自分の傷をえぐようなものだった。けれどそうしなければいけない。
 罪悪を深める前にそうしなければ、ならない。
「それとは分かり合えると?」
 ようやくアルディは螢の側にいる不動に目を向けた。
 まるで視線から棘が生まれていくようだ。
 今すぐにでも襲いかかって殺してやりたいと眼差しが告げている。だがアルディはまだ微動だにしない。
「彼は、人とは異なる」
 今のアルディなら、悪魔を持っている状態なら感じられるだろう。
 不動がただの人間とは違うことが。その身が纏っているものが、人では有り得ないものであることが見えるはずだ。
「私も人とは異なる者ですよ。昔から」
 特殊な子だと言われ、そういう目で見られてきたアルディにとっては凡人と同じだと言われることは受け入れられないのかも知れない。
 だが螢にとってみれば、それは些細な違いだった。
 不動とは比べ者にはならない。
「それに今は一層異なるでしょう」
 自嘲なのか、それとも誇らしいとでも思っているのか。アルディは微笑みながらそう告げる。
「このままではおまえは確実に人間から切り離される。酷いことになる」
 悪魔と契約をした人間から、悪魔そのものになりかねない。
 その容姿すら、いつか変化するかも知れないのだ。
「もう引き返せないかもしれないけれど」
 螢の目には、アルディの身体の深部まで影が届いている。もう悪魔はアルディに根付いているのだ。
 だが今ならまだなんとか出来るかも知れない。螢の力では無理だけれど、不動の力では少しずつ悪魔を切り離すことが出来るだろう。そのためにアルディ自身にも悪魔を拒絶する自制心と強い意志が必要なのだが。
「貴方がいない以上に酷いことなんてありません。貴方が私の全てなのですから」
 まただ。
 螢は眉を寄せた。
 盲目的な目が、絡み付いてくる。
 そしてアルディの中にいる悪魔が身をよじらせて笑っているのを感じ取る。
 悪魔と手を切れと言っている螢を、いともあっさり拒否する姿は悪魔にとって愉快なのだろう。
「……逃がしてくれ」
 溜息と共に螢は告げる。
 それは懇願だった。
 足元にすがりついてもいい、土下座をしても構わない。
 それで螢を逃がしてくれるというのなら、その手に掴むことを止めてくれるというのなら。矜持など塵に等しい。
「何処へ?」
 アルディは何を言っているのか分からないという顔をして見せる。
 それは理解しようとすることを拒否した態度だ。
 奥歯を噛み締め、ここから立ち去ってしまいたい衝動を抑えつけた。そうすれば、また不安に怯える日々に戻ってしまう。
「貴方は帰りたいとは思いませんか?二人で過ごした幸せなあの日々に。心地よい家に」
 アルディは優しく問いかける。
 慈悲すら感じられる声音だ。
 それが記憶を刺激する。
 幼子との暮らしは苦労することも多かった。小さな子どもの世話などしたことがなかったのだ。だがアルディは聡明な子で、こちらの意図をちゃんと理解してくれていたし、螢も必死になって向かい合っていた。
 時が流れるにつれて、共にいる時間が増えるにつれて、二人は家族になっていった。
 食卓で食べるご飯は時間が許す限りは二人で作ったもの、家事は分担制でアルディは何でもやりたがった。螢の手伝いはいつも嬉々として動いていた。
 そんな子どもの姿が螢にとっては可愛くて仕方がなかった。
 頭を撫でて、良い子だと褒めるたびに幸せそうに笑うアルディに、螢もまた自然と笑みを浮かべていた。
 血も繋がらない、人種も違う、年だって他者から見れば違和感を覚えるほどしか離れていなかった。
 それでもあの時、二人は家族だった。
 かけがえのない家族だった。
「戻れない」
「いえ、戻れます。いつだって」
 込み上げてくる懐かしさと悲哀に声が震えた。アルディはその揺らぎに食い付くようにして言葉を返してくる。
 まるで今すぐにでもその手に戻ってくるかのような言い方だ。
「戻れはしない。悪魔を背負ったというのに、どうやって?」
「こんなものに私が支配されるとでも?」
 アルディは苦笑をしていた。
「…おまえは…」
 悪魔に取り憑かれているわけではない。契約をしているのだからアルディと悪魔との間で優位に立っているのはアルディの方だろう。
 けれど悪魔を完全に支配出来るはずがない。あれらは精神を少しずつ蝕んでいく。今は理性を保っていられるとしても、それがずっと続くはずがない。
 悪魔の甘言がそれを無視させているのかも知れない。ずっと自我を保てると油断させておいて、いつか全てを奪うつもりかも知れない。
 だがどんな状態であったとしても。悪魔を支配出来ると思っている時点で、それは人として異常だ。
「壊れている」
 常軌を逸している。そう言っても過言ではない。
「昔からです。ずっとずっと前から。生まれて落ちた時からそうでした。だから人は私を恐れる。疎む。母が私を殺したがったのも、私が壊れていたから。異常だったからですよ」
 アルディは傷付いた風でもなく、ただ淡々と告げた。
 浮かんでいる笑みから感情は読み取れない。
「殺したがった…?」
 何でもないかのように言ったが、それは悲愴な現実だ。
「ご存じなかったですか?」
「……虐待があったらしいとは知っている」
 知っているも何も、その虐待の痕を目で見たこともある。
 そして一緒に暮らし始めた後もアルディは何か小さな失敗をした時、たとえば皿を一枚割ったのを螢に見られると異常なまでに怯えた。
 それは母親に殴られたことを思い出していたからだろう。
 虐待は死を直感させるほど、酷いものだったようだ。小さな子どもにとって大人の暴力とはそれほどの恐怖を生み出す。
「私は生まれながらも悪魔でしたから」
「それは違う。おまえは人間だ」
 螢は断言した。
 アルディは人間だった。今も、人間に戻れる可能性をまだ残している。
 螢にとってみれば、悪魔などという存在を騙るような生き物ではない。
「本心からそう言ってくれるのは、貴方だけでした」
 アルディは少し寂しげに言った。
 人は異質なものを怖がる。疎む。
 螢からしてみれば微かな違いでも、人間にとってはそれが大きく感じられアルディを遠ざけようとしていたのだろう。
 疎外感はアルディにずっと付きまとった。
「だから私は貴方の側にずっといたかった。貴方しかいなかった。今もそれは変わらない」
 自分を異端だとしか見ない者を好ましく思ったのは、螢にもよく分かる。けれど人間たちから自ら遠ざかってしまうのでは孤独感が酷くなる一方だろう。
 世界は圧倒的な数を誇る者たちを中心に回っているのだから。
「だが邪魔をされる。今もそうです」
 最も大きな障害は螢の心だというのに、アルディはそれが見えないのか。不動のことを意識しているようなことを言う。
「あの男のようになれば良いのですか?」
「アルディ」
 あの男とアルディが蔑むように言う時は、かつて螢に好きだと告げた男のことだ。
 事故にあって、亡くなったいあの人をアルディは蛇蝎のごとく嫌っていた。
「もう貴方のことを他人に任せたりはしません。貴方の元から離れたりしません」
 誰かと接触をさせるつもりもないということだろう。
 それを人は狂気に似た独占欲だと言うだろう。
 けれどアルディはごく自然な感情だとしか捕らえていない。指摘しても、無駄だったのだ。
 螢の脳裏には檻が蘇る。灰色の日々と、息苦しい時間。
 そしてふと別の人間の顔を思い出した。あの国を出てから気になっていたことがあるのだ。
「……あの人は、どうした?」
「あの人?」
「私が鍵を奪った、あの人は……」
 甘言を囁き、鍵を渡すことをそそのかした。
 口止めはしなかった。そこまで意識を操作してしまえばそれはもう螢の下僕のようなものだ。人間を下僕になどしたくない。
 そして硬く口止めをすればするほど、アルディが彼を責めると思ったのだ。酷い仕打ちをするかも知れない。それこそ、拷問のような。
 だが真実をさらりと口に出してしまえば、過酷な折檻などはしないだろう。
 しかし酷い怒りを受けることはもはや避けようがなく、そのことにずっと心が痛んだ。
 アルディは螢の言っているのが誰なのか思い出したらしい、ああと呟いた後にそ双眸に恐ろしいものを滲ませた。
 冷酷さだ。
 殺意ですらない。生々しさの欠落した、闇のような虚ろだ。
「殺しましたよ」
 意図も容易く告げられた言葉に、螢は絶句した。
「貴方を私から切り離したあんな愚かしい者を生かしておくはずがありません」
「……だから、殺したと」
 螢の喉がひりついた。
 心が崩れていく。
 なぜそんなにも簡単に言えるのか。一つの命を奪うことが、どれほど罪深いことからくらい知っているはずだろうに。
「はい。貴方に触れたあの男のように」
 ぐさりと言葉が刺さる。
 螢の心を貫こうとしているかのようだ。
「アルディ……おまえはあの人を殺したのか」
 あれからずっと、疑惑は螢の中に残されていた。
 まさか、そんなはずがない。だって警察は人がやったとは思えない。そんな形跡だとは思えないと言っていた。
 けれど同時に人為的なものを螢は感じていた。そして事故としても、故意にやられたとしても不自然な事件だった。
 真実は何なのか。そう思いながらも深追いはしなかった。
 知れば、自分の中の大切なものが壊れてしまう気がしたからだ。
 けれどもう知らずにはいられない。その疑問は無視してはいられない。だって黙っていたとしても、アルディは口にしてしまうだろう。
「私がどうして母親に壊れていると言われていたのか。恐れられていたのか。そして何故今では周囲に人が集まり、それらを従えていられるのか。その理由がこれです」
 アルディは螢の疑問に微笑みながら己のことを語り、右手を持ち上げた。
 人差し指で高みを指す。
 そこにはステンドグラスがあった。
 丸い形の窓にはめられている、十字架を真ん中に配置した色彩豊かな硝子。
 食物が十字架の近くに置かれており、それはあの書物に関連のある図式になっている。
 螢がそのステンドグラスを目にした後、艶やかな甘さを漂わせる歪な空間に不釣り合いな音が響いた。
 硬く薄い物が割れる、音だ。
 それがとっさに何か分からなかった。
 だが戸惑う螢の瞳には、大きくひび割れるステンドグラスが映っていた。
 そのヒビは大きく、無数に広がっては硝子全体に行き渡り、破片が舞い落ちてくる。
 ばらばらと、まるで雨か何かのように。
 日光に反射しては輝き、その色の豊かさは壮絶なまでに美しいものだった。けれど同時に、声を上げることも許さない底知れぬ恐ろしさを帯びていた。



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