偶像の棺   6




 男はドアが開かれた音に気が付いたのか、それとも気配を感じ取ったのか、こちらを見た。
 正しくは螢を、螢だけを見た。
 そして柔らかく笑んだ。
 何の邪気もないかのような、幸せそうな笑みだ。
 その笑みを何度見たことだろう。そして自分も同じように幸せな気持ちになっていた。
 だが今は不安に押し潰されそうだった。
「さあみなさん。時間が来てしまいました」
 男は螢から目をそらすことなく、周囲の椅子に座っている人たちに声をかけていた。
 流暢な日本語に螢は耳を疑った。
 あの子は螢があの国にいる時から、日本語の勉強はしていた。螢がかつて日本にいたと知って興味を覚えたらしい。
 だが短時間でこれだけよどみなく喋れるだけの勉強をしたとは思っていなかった。
 驚く螢とは反対に、人々は次々に席を立ち始めた。
 本当に時間がきたのかどうかは分かったものではない。
 螢がここに現れたから、人々が邪魔になって追い出すつもりなのかも知れない。
 けれど誰一人男の言葉に異議を唱える者はいなかった。
 まるで糸で操られているかのようだ。
「あの」
 一人の女性が男に歩み寄った。
 何かを伝えようとしたけれど、男は苦笑を浮かべる。
「申し訳在りませんが。今の私は貴方にあげられる時間がありません。また明日に」
 柔和な声音だ。
 だが決して逆らうことを許さない響きがそこにはあった。
 女は素直に頷いてドアへと迎う。そこには残念さも不満も浮かんでいなかった。ただどこかぼんやりとした瞳と嬉しそうな笑みがあるだけだ。
 砂糖菓子のような、人工的な甘さが女からは漂ってくる。
 しかしそれは弱々しく、螢の食指を誘うほどではなかった。だが人として歪であることは間違いない。
 螢と不動は扉から離れ、出ていく人々を見送った。中には二人をちらりと見る者もいたけれど声はかけてこない。
 口を開いた人はみな、教会に泰然と立ち続けている男に向けて感謝の言葉を告げていた。
 男はそれに笑顔で応える。
 螢からしてみれば異様だ。
 皆どこか虚ろで、その虚ろな部分に無理矢理甘い香りを詰め込んでいる。
 均整の悪い精神と従順過ぎる言動。
 人として崩れ始めていると気が付かないのだろうか。
 中にいた人がいなくなって、不動が教会の扉を閉ざした。
 これから行われることを人目にさらすのは危険だった。
 教会を世間から隔離して、ようやく不動は男に近付いた。
 螢もその後に続き、一歩近付くたびに濃くなる甘美な甘さに絶望が足元から広がる。
「お久しぶりです」
 男は互いの間が五歩ほどの距離になった時、そう告げた。
 嬉しそうに、目を細めて。
 他の誰かと混同するはずがない、懐かしい声に螢は泣きたくなった。
 間違いだと言ってくれと、叫びたかった。
「ずっとお会いしたかった」
 男は不動を見ようともしない。存在自体を認めてないかのように、螢にだけ語りかける。
「アルディ……」
 この名を口にしたのは、あの檻から出て初めてのことだった。
 もう二度と、呼ぶことがない名前だと信じていたかった。
 けれどアルディは螢の声に笑みを深くする。
「悪魔を広めていけばいつか貴方にたどり着けると思っていました。貴方は悪魔を放置してはいられないでしょうから」
 ごく自然に、他愛もないことのようにアルディは言った。
 その行動の残酷さなど考えもしてないようだ。
「……自分が何を背負っているのか分かっているのか」
 アルディが他者に対して情を見せないのは、時に非道であることはすでに理解していた。だから叱責はしない。
 困ったように笑われて、終わるのが目に見えていたからだ。
 けれどアルディ自身が背負っているそれは、無視することが出来なかった。
「神の下僕です」
 アルディはさらりと言った。
「悪魔だ」
 神などと絡めて取り上げるものではない。螢はアルディを睨み付ける。
 だがアルディは聞き分けのない子をいなすような声でこう続けた。
「悪魔は神の下僕ですよ」
「元々は、だろう。今は忌むべき存在のはずだ」
 そんなことは螢とて分かっている。だが現在では悪魔など忌むべき、退けるべきものであるはずだ。自分が取り込むべきものではない。
「使い道によります」
 アルディは自分の中にいる悪魔が感じ取れるのか、胸に手を当てた。
「これは言語を飛び越えます。悪魔同士で情報を交わすことも可能です」
 これほどすんなりとアルディが日本語を喋っている理由は、悪魔を内包したせいらしい。
 元々悪魔などというものは人間の根本的な精神に作用する。言語に捕らわれない。その特性を取り憑いた相手にも適用したのだろう。
 悪魔同士で情報のやりとりが可能であることも螢は知っていた。
 しかし彼らは集団になることを好まない。なので情報を実際にやりとりすることは極めて珍しいことだった。
 それをアルディはやっているのだろう。自分が悪魔を使う側に回ることで、言いように動かしているようだ。
「私はこれのおかげで、少しだけこの国のことを知りました。貴方がいた国のことを」
 嬉しそうな声に、螢は唇を噛んだ。
 あの国にいた時、アルディはこの国のことを知りたがった。螢がいた国がどんなものか気になっていたようだった。それは螢を知りたいという気持ちの一部に感じられた。
 あの時は純粋に嬉しいと思えたのに、今はそれが痛みにしかならない。
「どうして、ここに…?」
 馬鹿げた質問だと自分でも分かっていた。
 だがそう問わずにはいられなかったのだ。
 悲痛な訴えに近い。
「貴方を求めて」
 分かっているでしょう?そうアルディは笑う。
「貴方がいなくなった時、私は探し回りました。国内では情報が途切れており、その先が見付かりませんでした」
 当然だ。
 螢はあの時、唐突に現れた不動に拾われたのだから。
 逃走した足取りはそこでぷっつりと切れている。
「もしかすると、国から出たのではないか。貴方は日本に行ったのではないかと思っていた時、同じ頃に日本に帰った日本人がいたと突き止めました。貴方を捜していたことも」
 アルディの声が少しばかり下がった。
 途端に憎悪が滲み出る。
 矛先は螢の傍らにいる不動だろう。だが頑なに目を向けようとはしない。
 螢を奪った男など視線をやるのも嫌なのかも知れない。
 日本。日本人。それが二人を関連づけることになったわけだ。
 あの子との暮らしで螢が日本を懐かしがらなければ、ここにはたどり着けなかっただろうに。無駄な郷愁が今更首を絞める形になった。
「まさかと思って、ここに来ました。そしてそれは間違っていなかった」
 憎しみの響きは徐々に薄れ、アルディはまた満足そうな笑みを見せた。
 もう自分が螢を取り戻したと確信しているのだろう。
 目の前で悲愴な顔をしているというのに。
「…私に、会うために」
 この国に戻って来て、不動の傍らにいるようになって、螢は自分を俺と言うようになった。
 もう私などいう堅苦しい言い方は止めようと思った。
 礼儀正しくあることも、丁寧な物腰も、優しい口調も止めようと思った。他人を不快にさせることは良くない。けれど無理に自分を良く見せる必要もないと思ったのだ。
 それなのに、止めたはずの私という言い方が口から零れた。
「それだけのために」
 無論だと言うようにアルディは口にする。
「それだけのために悪魔にばらまいたと言うのか。悪魔と契約したと言うのか」
 アルディは悪魔に取り憑かれたわけではない。
 悪魔と契約したのだ。
 人では決して手に入れることが出来ないものを得るために、もしくは己には過ぎたものを得るために、何かを犠牲にして悪魔を手に入れる。
 それは必ず自分の身を滅ぼす術だ。
 少しでも冷静さがあれば、考えることが出来たのなら選ぶはずのない選択だ。
「他に何が?」
 それ以外に一体何を求めろというのか。
 螢はこれ以上ないほどに動揺している。怯え、苦しみに胸が裂かれそうになっている。だがそれとは反対にアルディは穏和な表情のままだった。
 かけらの不安も、揺るぎもない。
「私に会うためだけに国を出て、ここまでわざわざやっていたと。悪魔をばらまいたと」
「貴方に会って、取り戻すために。共に帰るために」
 そのためならどんなことも厭わない。手段は選ばない。
 アルディはそれを証明してみせたのだ。
 そして螢を追いつめる。
「私は、帰れない」
 側にはいられない。もう共に生きていくことは出来ない。あの国にいる時に何度もそれを繰り返した。だがアルディは聞かなかった。
 けれど螢は黙らなかった。
 きっと今も聞く気などないのだ。だがはっきりと、震える心臓を抑えつけて告げる。
「何故?」
「おまえとは一緒にはいられない」
 同じことを言い続けても理解し合うことはないのかも知れない。
 しかし諦めてしまえばそこで終わる。最低な形で、幕が下りてしまう気がした。
「貴方を惑わしている者がいるのですね?」
 アルディの瞳から笑みが消えた。
 途端に纏っていた空気が凍り付く。
 憎しみという表現すら生やさしい。それは強固な殺意だった。
「違うっ」
 誰に向けられた氷の刃かなど、考えるまでもない。
 現に不動は身を固くしていつでも動けるような体勢を取っていた。
「誰がいても、いなくとも。私はもうおまえの元には帰らない」
 首を振ってから、アルディをきつい眼差しで見る。
「私はどんなことがあってもあの国から出た。おまえには会わぬと決めていた」
 それが螢の優しさだった。
 アルディにあげられる、最後の安らぎに続く唯一の道だった。
 それを理解して貰えるとは思っていなかったけれど。憎まれることも覚悟していたけれど。
 同じ過ちを繰り返すことだけはしないと誓ったのだ。
 アルディは悲しげな表情を見せて小首を傾げる。
 頼りない、心許ないその顔に螢は拳を握った。
 それは嘘だ。作っている偽りの表情だ。けれど記憶を刺激しては螢を傷付ける。
「どうすれば心を動かして頂けるのですか。帰って来て下さるのですか?」
「もう同じようには暮らせない。戻れない。おまえとは一緒にいられない」
「何故ですか?」
 アルディには分からないのだろうか。
 今の二人が一緒にいることによってどれだけ、哀しみが広がるか。
 距離が縮まったとしても二人の理解は深まることはなく。感情を共有することも、出来ずにただ時間だけを失っていく。
 楽しいことも、嬉しいことも、幸せだと思う瞬間すら。
 もう二人には違いすぎてしまったのだ。
 螢の記憶には傷と痛みばかりが残ってしまい、何一つ笑みに繋がらない。
「傷付け合い、壊れるだけだ」
「そんなことはありません」
 アルディは強くそう言い放った。
 決してそんなことないのだと、螢に訴えてくる。
 信じているのだろう。まだ取り戻せるものがあると。
 その螢にとってはその取り戻せるものすら、絶望に代わりかねなかった。



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