偶像の棺   5




 震える指を止めることも出来ず、螢は唇に笑みを浮かべた。だがぎこちない口元は決して綺麗な形には緩んでくれなかった。
「平気」
 声だけでも軽く、明るいものにしようとした。
 だがそれが上手くいった自信はなかった。
『嘘だろ』
 充は間髪入れずにそう返してきた。
 どうやら螢は表情だけでなく、声すら繕えなくなっているようだ。
「……うん」
 平気だよ、大丈夫。心配しないで。そう続けることは容易い。
 けれど取り繕えば繕うほど、充は心配してしまう気がした。螢を気遣って、口をつぐんでしまう。
『平気じゃないのに。行くの?』
 後悔しているような音だった。
 充は螢に動いて欲しいと希望したことを、撤回したがっているようだ。
 だがすでにそれを受け入れられなくなっていた。
「だって……失いたくない」
 今傍らに寄り添ってくれている人がいなくなれば、その時螢は壊れてしまう。きっと二度と元には戻らない。
 感情を捨て、誰かと共にいることを捨て、きっと生きていることすら分からなくなる。
 それは楽なのかも知れない。傷付かずにいられる。
 けれど、触れた時に感じる人のあたたかさすら忘れてしまうのはあまりにも切なかった。
 螢の表情を見て黙っていられなくなったのか、不動が携帯電話に手を伸ばしてきた。
 けれど螢はその手をやんわりと掴んで止めた。
 何でもかんでも不動に任せるわけにはいかない。その人は人間なのだから。どれほど異質な血が流れていても、寿命すら人とは異なるとしても半分は人間のものだ。
 背負えるものは限られている。
 螢のものを全て預けて耐えられるはずがないのだ。
 そんな当たり前のことも分からなくなっていた。怯えていてばかりで、目が曇っていた。
『俺にもなんか出来ることない?あんま役に立たないかも知れないけど』
 悪魔に関しては充も専門から外れている。
 だから手伝えることなん情報を流すことくらいしかないだろう。それは今もやっていることだ。
 それにこれは、螢個人の問題に近かった。
「ありがとう」
 胸が詰まる。
 優しさが染みては痛みにすらなってしまいそうだった。
 身勝手な自分を思い知らされる。
 それから一言二言交わし、あの子が今いるであろう場所を聞いた。
 白昼の惨劇があったあの場所からそう離れていない。
 悪魔が増殖している箇所とも一部かぶっていた。
 住所を確認して、携帯電話の通話を切る。
 指先はもう震えてはいなかった。
 けれど心臓はまだ恐ろしいと悲鳴を上げている。
 逃げてしまいたいと訴えている。それでも振り返れば螢を見つめてくれている人がいるから、まだここに留まっていられた。
「あの子の居場所が分かった」
「俺が行く」
 螢が告げたことに不動はすぐに答えた。
 有無を言わさぬ意志の強さがそこにあった。
 それを感じた時、螢は何も言わずに頷いてきた。不動が強く望むことを阻むこと権利、拒む権利はないと思っていた。そしてそんなことがしたいとも思わなかった。
 だがこの時ばかりは、頷けなかった。
「俺も行く」
 さっきまで恐怖で震えていたというのに、突然どうして意見を変えるのか。不動は眉を寄せた。
「一人で十分だ」
「駄目だよ」
 不動は自分の力に自信がある。そして螢が行っても良いことは何もないと思っているのだろう。
「そんな弱く見えるのか」
「いや。でもあの子は昔から特別だった。何があるか分からない」
 どこか人と違っていたのだ。
 それが悪魔を抱えることによってどう変化したのか、予測出来ない。
 万が一という可能性は付きまとってくる。
 だが不動はその心配が不満そうだった。
「心配ない」
 見くびられているとでも思ったのかも知れない。
「不動を信じていないわけじゃない…怖いんだ。じっとしてられない」
 ここで黙って座っている間に不動を失うかも知れない。そう想像しただけで、呼吸が止まる。
 不動がけた外れの力を持っていることも、精神的にも強いことは分かっている。理解している。ただ、心がそれに納得出来ないのだ。
 自分一人安全に場所にいて、不動が傷付くかも知れないということが認められない。許せない。
「自分から傷付くに行くつもりか」
 少しばかりきつい言い方をされ、螢は目を伏せる。
 そのきつさは螢を窘めるためのものだ。心配しているからだ。
 互いの心配が相手に突き刺さっている。
「因果だ」
 心臓を潰されそうなこの不安も、今でも血を流す心も、全ては自分が招いたことだった。一番辛い場面になって、苦しい時になって、逃げるなんて卑怯だろう。
 まして自分を救ってくれた人を身代わりのように差し出すなんて。
「逃げられる因果だろう。今なら俺が断ち切って来られる」
「……俺は不動に救われた。守られてきた」
 逃げ出したあの時から、ずっと不動の腕の中にいたようなものだった。
 慰められ、あたためられ、包み込まれて少しずつ安堵を取り戻した。
「なら俺も守りたい。少しの不安の要素であっても」
 それが不動にとって些細すぎるものであっても。
 螢の言葉に不動は険しい顔をする。
「おまえはどこまで捕らわれるつもりだ」
「え…?」
「どこまであれが恋しい」
 不動の言葉が螢の中をすり抜けていく。
 理解出来なかったのだ。
 何故そんなことをいうのだろうか。
「こいしい…?」
 日本語だ。
 そう分かっていたはずなのに、思い出される意味があまりにも今の自分と懸け離れており異国の言葉でもその意味を探していた。
 そう見えるというのか、不動のその目には。
 冷静で、それなのに奥深く包み込んでくれるその眼差しでは恋しさが見えるというのか。
「そんなはずがない…」
 勘違いをしているる
 何故そんなことを言うのか困惑していると不動はそんな螢を見つめていた。
「恐怖する分だけ、強く懐かしがっている。思い出している」
 ざくりと不動の言ったことが突き刺さる。
 痛みが音になって耳の奥で響くようだった。
 違うとは言えなかった。
 あの子を怖がるたびに、怯えるたびに、螢は何度もあの子のとの生活を思い出していた。あの子を思っていた。
 そして平穏で、幸せだった頃の記憶を大切だと感じていた。懐かしがっていた。
「がんじがらめだ」
 四肢を絡め取り、心を縛り付け、あの子は螢の中に息づいている。強く、痛ましいままで消えてくれない。
 それを不動は見透かしている。
「意識に刻まれ過ぎている」
 返す言葉はなかった。
 事実だと、螢自身が感じていたからだ。
「いつになれば、俺が切ることが出来る」
 傍らにいるのに不動は螢の中にいるあの子を感じていたのかも知れない。会ったことも見たこともない人を。ずっと。
 それはどんな気持ちだっただろう。
 もし螢が不動の立場だったとすれば、奥深くをいつまでも占領し続ける人に対して良い思いは抱かないはずだ。
 それが自分の我が儘であったとしても。
「それは、今か?」
 今あの子を断ち切れば螢の思いは軽くなるのだろうか。
 問われても頷けることも、首を振ることもできない。
「不動……」
「訊くのは無茶なことか」
 溜息のように不動は言った。その吐息が螢を責めているように思えて、唇を噛んだ。
 不動にこれほど良くして貰っている。大切にしてもらっている。だが螢は何一つ返せていないのだ。むしろ傷付けてさえいるのだろう。
 それでも不動は螢を見捨てない。
 ここにいてくれる。
「だが、その時を今にしなければいけない。この機にしなければいけない」
 目の前にあの子がいるかのように、強く不動は告げる。
 まるでこれが最後のチャンスだと言わんばかりだった。



 会わずにいられるものならと思っていた。
 人の一生の長さなど知れている。螢が隠れ生きている間に終わってしまうものだと高をくくっていた。
 その程度の長さであるなら、きっとどうにか潜んでいられると。
 いや、むしろ国を出た時点であの子はもう螢にとたどり着けないと思っていたのだ。
 どれだけ探し求めたとしても、ここまでくることはないと。
 そしていつか忘れていく。
 あの子もあの執念を保つことは不可能だと思っていた。いつか諦めてくれると。いつか忘れてくれるだろうと願っていた。
 けれどもうそれは選べなくなった。
 そもそも虫の良い考えだったのかも知れない。
 逃げ出して、時が曖昧にして流し去るのを待つなんて。螢がやってきたことを思うと都合の良すぎる想像だったのだろう。
 人の心を惑わせるということはこういうことだ。どこまでいっても逃れられなくなる。
 充から電話を貰った直後に、別の霊体専門の人間があの子に会いに行って自殺をしたと情報が入ってきた。組織はもはや一刻の猶予も許さないとばかりに名指しで螢を指名したらしい。
 拒否することは出来ないと分かっていただけに、螢は充から指名のことを聞かされてすぐに動いた。
 悪魔を食いに行くのに準備など必要ない。身体があれば何でも出来る。
 もし何かが必要だとすれば、それは螢の覚悟だけだった。
 教えられた場所に行くと、そこにあったのは教会だった。
 少しばかり人家から離れた、けれど道を歩いていて目に入らないはずのない独特の建物。
 蝉の鳴き声の中で凛然とそびえているそれは、この国に戻って来てからはなるべく見ないようにしていたものだ。
 近くの駐車場に車を止め、中から降りるとほんのりと甘い香りが漂ってきた。
 なんという皮肉なのか。
 螢は苦笑を浮かべる。
 ここから悪魔が量産されたわけだ。
 本来悪魔なんてものとは対極にあるはずの場所だというのに。この状態は冒涜に近い。
 この教会に訪れる人は日々増えているらしい。それと同時に自殺者も増えていると聞いている。
 そんな異様な状態を警察も見逃しはしなかったらしい。色々と捜査に入ろうとしたのだろうが、丸め込まれて事件に出来ていないようだった。
 甘言を囁かれたのだろう。
 人の心を操るのが悪魔たちの特性だ。楽しいことを邪魔しに来る者を許すはずがない。
 異様だ、おかしい、何かあるはずだという気持ちを消すことまでは出来ないだろうが、そうと分かりつつも手が出せない状態なのだろう。
 螢は怯える心臓を抱えつつ教会の扉に手をかけた。
 だが震える指ではろくに力が入らない。
 まだ身体は迷っているのだ。逃げられるのではないかと。
 けれど傍らに立つ不動の気配や、優しい香りを感じて、手に力を込める。
 この人がいるから、大丈夫。
 中は荘厳な空気とまとわりつくような甘さが見ていた。
 真っ直ぐ教壇まで伸びた道。その両方に椅子がずらりと並んでいる。ステンドグラスからこぼれ落ちてくる光が内部を照らしている。
 色とりどりの光に包まれ、大きな十字架に背を向けてあの子は立っていた。
 まるで神父だ。
 実際それを目指していたことを知っている。
 すらりとした高い背に、真夏だというのに首まで詰まった服を纏っている。まるで暑さなど感じていないかのようだ。
 白い肌、太陽の色をした髪。柔和な顔立ち。
 首から信仰の証をぶら下げているあの子は、ここにいるのが最も相応しい姿をしていた。
 よく似合っている。
 たとえ、体内に渦巻く黒い甘さを内包していたとしても。



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