偶像の棺   4




 外には出たくなかった。
 この部屋から出てしまえば、そこには不安や恐れが渦を巻いている。
 いつそれに飲み込まれるか分からない。
 だからこのまま、部屋の中に閉じこもっていたかった。
 ここは少なくとも安全であるような気がした。
 けれど窓から外を見ると、思い出すのだ。
 格子をはめられてはいないけれど、これではあの国にいた時と同じだと。
 あの時の檻は螢を外の世界と切り離して隔離するためのもの。この檻は螢を守るためのものだった。
 しかしあの子の存在に怯えていることには変わりがない。そして自由がないことも。
 だがどれだけ部屋に引きこもっていたとしても、電話はひっきりなしに鳴っていた。
 悪魔が増え続け、世間が混乱し始めているというのに悪魔専門の不動や螢がじっとしていられるはずがない。
 むしろ休む間もなく働くべきなのだろう。
 組織はそれを要求していた。
 駆り出されて当然だ。
 けれど螢は沈黙を続けていた。不動も何か言いたいようだったが螢の好きにさせてくれていた。
 だがそれにも限界がある。
 いつまでもこんな我が儘が許されるはずがない。
 組織に組み込まれている以上、働きを要望されるのは当たり前のこと。こんな時に仕事が出来ませんなんてことが言えるはずがない。
 まして身体を悪くしているわけでもないのだ。能力を失っているわけでもない。
 ただ、螢が怯えているだけだ。
 そんな理由は通らない。
 まして同業者が殺されている。充から情報を貰った後にも殺された人がいるらしい。
 組織としては煮え湯を飲まされた形だ。
「俺一人で動く」
 不動はテレビも付けずソファで膝を抱えている螢にそう告げた。
 冷静な声だった。
「不動……」
 仕事を拒否する螢に愛想が尽きたのかと思った。
 言うことを聞かない、仕事をしないような螢と一緒にいるのが嫌になったのかと。だが見上げた人の顔には苛立ちがない。
「おまえは出るな。見付かりたくないんだろう」
 困惑する螢の傍らに、不動は腰を下ろした。
 見下ろされていると、その身長のせいで嫌でも威圧感を感じてしまう。だか差が縮まると決してそんなものは不動にはないのだと分かる。
「俺なら面が割れてない」
 だからもし仕事中に出会ったとしても大丈夫だと言いたいのだろう。
 螢が出ていく危険性に比べれば、格段に落ちる。けれど、不動一人だけで仕事をするということに抵抗がちらりと生まれてきた。
「でも」
「元々は俺の仕事だろう」
 そうだ。螢は不動の仕事の手伝いという位置にいた。悪魔専門の人間が少ないのでそれを扱える不動のところによく悪魔仕事を回ってきて、螢は悪魔を食うから、自然と螢が仕事をしている場合が多いのだが。
 本来なら不動が主格となって動くものなのだろう。
「それとも力不足だと?」
 そう尋ねられ螢は首を大袈裟なくらいに振った。
 不動を無能扱いするなんてとんでもない。螢が見てきた人間の中で、霊体に関しては一番優秀だ。
「増え続けるものは消さなければならない」
 邪魔だ、と不動は淡々とした口調で言った。
 それが人にとってはとても恐ろしいものだとしても、不動にとってみればただの障害物なのだろう。すぐに取り除ける程度の認識なのかも知れない。
 だが螢はとてもそんな風には捕らえられなかった。
「うん…」
 頷きながらも、いつか不動はあの子に会うのでないか。いや、確実に会うことになる。そうなれば、どうすればいいのか。どう逃げれば。
 そう思案している時、携帯電話が鳴った。
 家の電話は無視していたが、さすがに携帯電話は無視出来なかった。相手が充だと分かっていたからだ。
 仕事の話をされると分かっていても、友人と呼びたい相手を無視は出来なかった。
「大丈夫か」
 ソファの傍らに投げ出していた携帯電話を手に取った螢に、不動が問う。仕事の話を聞き入れられるのかと、そう言っているのだろう。
「大丈夫」
 何もかも不動に押し付けるなんて申し訳がない。
 それにまだ不動一人で仕事に向かって貰うと決めたわけじゃなかった。
 携帯電話の着信には案の定充の名前があった。
「もしもし」
『あ、もしもーし。螢ちゃん』
 充の声はいつもと変わりがない。そのことにちょっとだけほっとした。
『どーしたの。電話繋がりにくいって言われたんだけど』
「ごめん。ちょっとごたついて」
 組織の誰かに言われたのだろう。次々生まれる悪魔のせいで充だけでは仕事の斡旋が追いつかなくなっているのだ。
 だが螢は家の電話を取っていないので、苦情が充に行ってしまっているようだ。
『そうか。仕事増えてるもんな』
 充の台詞に、螢は胸をえぐられるようだった。増えているのだろうが、螢は仕事を受けていない。
 そのことを充はまだ知らないのかも知れない。
『俺はちょっとした朗報をお知らせしようと思って』
 充の声が含みを帯びた。
 朗報という単語は本来いい意味のはずだが、螢は不安にかられる。こんな状態で、良い情報が入ってくるとは到底思えなかったからだ。
『螢ちゃんが言ってた、悪魔を広めてる男が見付かった』
 充はそれをはっきりとした声で告げた。螢が求めていたものを、ようやく教えることが出来たと多少喜んでいるのかも知れない。
 だが螢の心は凍り付く一方だった。
 聞きたくないと悲鳴を上げそうになる。
 だがまだかろうじて望みがあった。あの子ではないかも知れないと、心の片隅で思いたかった。馬鹿げた考えだ。
 悪魔を背負っていることを自分の目で確認したというのに。
『まぁこれだけ悪魔を広めてくれたら嫌でも見付かるけどね。どうやら外国人らしい』
 ああ……と螢は声を漏らした。
 溜息にすらならない。何の感情も込められていない虚ろな音だった。
 やっぱりというべきなのだろう。絶望に突き落とされていてもどこかにまだ残っている理性が「そうであると思っていた」と言っている。
 それ以外考えられないのだと。
 その理性に心が更に叩き付けられる。
 充は外見の特徴をいくつか述べていった。
 背が高く、金髪で、青い目をしていると。神父のような服装をしており、人の良さそうな顔立ちをしている。
 そんなことは言われなくとも螢の方がずっとよく知っている。
 あの子を育て上げたのは螢なのだから。
 小さい頃に釘が剥き出しになった板の上でこけて、右膝に深い傷跡が残っていることも。左の腕には小さなやけどの痕があることも。
 螢は知っている。
『そいつとぶちあたってもらうと思う』
 そう言われ、螢は携帯電話を握り締めた。
 嫌だ。
 そんなことは出来ない。
 あの子と対峙するなんて。到底。
『結構強いらしいから、二人で行って欲しいんだけど』
 充はそこで語尾を濁した。
 まるで螢の心を読んだかのようだ。
『不動が一人で動くつもりだって本当?』
 こちらを窺うような声で、充が訊く。
 これには驚いた。
 不動はいつの間にそれを充に話していたのだろう。
 螢はついさっき聞いたばかりだというのに。先に充に話を通していたらしい。
 だが充は納得がいかないのだろう。今まで不動一人、螢一人で動くことなんてなかったのだ。それがここに来てそんなことを言い出したのだから、怪訝に思うのも無理はない。
「そう、言ってる」
 螢はどう言って良いものか迷いながら、充の言葉を肯定した。
 すると電話の向こうで充が小さく唸ったようだった。
『まずくない?』
 声を少しばかり落として、充は戸惑いを滲ませる。
『だって今回の相手は半端ないみたいだよ?不動が強いってことは知ってるけど。でも一人より二人の方が安心だ』
 充から心配そうに言われ、螢は逃げてきたあの背中を思い出す。
 あの子が背負っていたものは、並大抵のものではなかった。
 それは分かっている。
『悪魔を広めてるような奴だよ?』
 充も念を押してくる。
 そう、悪魔を広めるものがそこいらに転がっているただの悪魔と同じはずがない。
 突出している。だから悪魔を呼べる、増やせる。
 単純な事実だ。充のように生まれてから二十数年しか経っていない人間に分かることを、螢が分からないはずがない。それらとずっと対立してきたのだから。
 けれど目の前の恐怖に捕らわれていて、あの子から逃げることに必死になっていて悪魔の強さを重視していなかった。
 螢にとってそもそも強さなど味の甘さくらいの問題だからだ。落とすのに多少時間はかかるかも知れないが、それも大した手間ではなかった。
 だが不動にしてみればどうだろう。
 悪魔が強いということはその手でねじ伏せるのも苦労することではないのか。
 もし悪魔の誘いが強すぎて耳をふさげなければ、精神に作用して安定を崩されれば。不動は壊れてしまうかも知れない。
 ましてそれを持っているのはあの子だ。
 他人に対して容赦をするだろうか。誰かに慈悲をかけるだろうか。
 かつては優しい子だった。けれど、螢は知っている。
 自分の障害になる相手に対してはどこまでも非道になれることを。
 不動は、勝てるだろうか。
 強いと言われている悪魔に、あの子に。
 想像しようと思うのに頭がそれを拒絶する。したくないとわめく。
 ただ指先が震えていた。
 失いたくない。
 もう失いたくない。
 不動がいなくなけば、どう生きていけばいいのか分からない。ようやく自分と歩調を同じようにして歩いてくれる人が見付かったのだ。
 とても長い時間を共にいられる人と出会ったのだ。
 ありのままの螢を見ても逃げない。受け入れて抱き締めてくれる人の傍らにいられるのだ。
 こんなにも恵まれていた時間はない。こんなにも安堵を感じられる場所はなかった。
 それを壊されるだなんて、決して黙っていられない。
『螢ちゃん、不調?動けない?』
 不動が危険にさらされることは充にとっても避けたいのだろう。
 螢の具合を気にしながらも、動くことを願っている。
『無理はして欲しくないけど』
 返事の出来ない螢に充は申し訳なさそうに言う。
 調子は悪くない。動けないわけではない。
 ただ恐ろしいだけだ。途方もなく恐ろしいだけ。
 だが本当に恐ろしいのは、何だろう。
 あの子に会うことと、不動を失うこと。どちらが本当の恐怖だろう。
 硬く目を閉じて唇を噛んだ。
 安穏と暮らしたい。傷付かず、傷付けず、何も失わずに生きていきたい。
 ただ幸せに、ただ静かに。それだけを願っている。
 けれどそれが叶えられるにはあまりにも多くのしがらみを作ってしまった。
 息が出来なくなるほどのしがらみに捕らわれてしまったのだ。



next 



TOP