偶像の棺   3




  気が付くと螢は走っていた。
 どこをどう走ってきたのか分からない。ただ無我夢中だった。
 見付からない内に、捕まらない内に、逃げなければならない。
 視線が絡めばきっと引き戻されてしまう。
 あの檻の中に入れられてしまう。
 だから、もう二度と格子越しの空を見ないためにも。あそこにいてはいけなかった。
 あの眼差しから、思いから隠れなければならなかった。
 息が切れ、汗が滴り落ちる。
 人の波も途切れ、細い路地に入り込みようやく螢は走るのを止めた。
 だがまだ立ち止まる勇気はなかった。
 もし、こうしている間にもあの子が追い掛けてきたらと思うと恐ろしくて消えたくなる。
 けれどもう一度走るには、足が動かなくなっていた。
 普段の運動不足がたたっているというより、震える喉が呼吸をろくに出来なくなっていたのだ。息が吸えなくて、動けない。
 もしかして自分は泣いているのだろうかと思うほど、全身が震えていた。
 けれど目は潤まない。流れていくのは汗だけだ。
 あれは、きっとあの子だ。
 見間違えるはずがない。
 あの子を別の誰かと混同するはずがない。
 ずっと見守ってきたのだ。慈しんできたのだ。
 分からないはずがない。
 そして今まで何度も、数え切れないほど悪魔を食べていた。悪魔と接してしまった人間を見てきた。
 あの子は、それに酷似していた。
 だが一つ、悪魔に取り憑かれていた者とは異なる点がある。
 あの子は悪魔に支配されていなかった。甘い香りを纏ってはいたけれど、決して飲み込まれていない。それが、より一層悲惨な現実を螢に突き付ける。
「嘘だ……」
 呟きはあまりにもか細く、螢自身の耳にすら空々しく聞こえた。
 嘘だなんて思っていないくせに。確信しているくせに。もう分かってしまったくせに。
 あの子の望んだ結果がどんなことになったのか。螢が置いてきた結果が、どうなってしまったのか。
 もう目にしてしまったのだ。
 せせら笑うように蝉が大声で鳴いている。
 その声は頭の中で大きく反響する。
 冷え切った螢の心を怖そうとしているかのようだ。
「螢」
 声をかけられ、びくりと肩を震わせる。
 だがその呼び声が誰であるのか、振り返らなくても分かる。
 静かな、だが穏やかさを帯びた低い声。
 香ってくる、清らかで涼しげな甘さ。
「ふど…」
 振り返ると不動がしかめっ面をしていた。
 額から汗が流れている。真夏の街で走らされたのだ。無理もない。
 唐突に走り出した螢に困ったのだろう。
 けれど目を合わせるとそれは困惑の色へと変化した。
「どうした」
 肩を掴まれ、螢は息を呑む。喉がひくっと鳴ったのだ。
 まるでおえつのように。
 正面で顔を合わせても、何も言えない。
 言葉が出てこなかった。
 どう言えばいい。あの子が私を追ってきたと、そう言うのか。だがそう言えば、現実を認めてしまったような気がした。いや、認めざる得ないことは分かっていたのだが。
 逃げたかった。
「震えてる」
 不動は螢の異変を指摘する。
 ただごとではないのはもう明らかだった。
「かえ…かえろう」
「螢?」
「帰ろう」
 不動、帰ろう。と繰り返した。
 小さな幼子のように、拙い声で。
 これでは日本語を覚えたばかりであるかのようだ。だが螢は他に言いたいことはなかった。
 帰ろう。
 二人で暮らしている。あの安全な部屋に。あの子がたどり着けない場所に。二人で帰ろう。
 静かで、優しい。あの檻とは全く違うあの許された時間に帰ろう。
 危険なことなんてもうしたくない。怖いことなんてもうしたくない。安心して、寄り添って生きていこう。
 だってもう失うのは嫌だ。
「……おまえの言っていた、あの子がいたのか」
 螢がこれほど怯えるのは、他に思い当たる理由がなかったのだろう。不動は螢の恐怖を言い当ててしまった。
 違うとは誤魔化せなかった。
 触れられていた肩が、震えてしまった。そうだと教えてしまった。
 途端に不動の眉間の皺が深くなる。
「螢」
 宥めるような、気遣ってくれる柔らかな声に螢は全身から力が抜けるのを感じた。
 崩れ落ちそうな膝に気が付いたのか、不動が腰に腕を回して支えてくれる。
「…ど…して」
 溢れ出てくる感情は、痛みや苦しみや嘆きばかりだ。
 胃を這い上がり、喉を貫き、脳髄まで突き刺さる。
「ここは日本で……私は、逃げられたはず……」
 脳裏に蘇るあの子の葛藤。ただ伝わらない、分かり合えない、一方的な信仰に首を絞められていた日々。
 それは捨て去ってきたはずだ。
 それなのにどうしてここに戻ってくるのか。何故あの子がいるのか。
「何の跡も…残してなかったはずだ……なのに、どうして。どうして!?」
 あの国から出られたのは不動に会ったからだ。
 そしてその出会いは完全に偶然だった。
 螢にも、不動にも予想していなかった事態だ。もちろんあの子だって想像が出来るはずがない。
 だが、もしかするという可能性はあった。
 あの子は螢が日本でずっと生きてきた事を知っていた。あの国から逃れて次に行くとすればこの国だろうと、予測はしたのかも知れない。
 だが、そんな淡い可能性でここまで来たというのか。
 そんなものは普通じゃない。正気じゃない。
「……帰すか」
「え?」
 ぼそりと聞こえてきたことを聞き返した。とてもではないが、すぐに分かるような内容ではなかった。
「あの国に叩き帰すか」
 不動はさして苦ではないような言い方をする。だが螢はそれに目を見開いた。
 心臓が潰れるかと思うほど、締め付けられる。
「どうやって…」
「力ずくでも」
 本気でそれを考えているらしい不動の腕を掴んだ。
「無理だ!あの子は」
「悪魔憑き、だろう。あの男がこの騒ぎを起こしているんじゃないのか」
 否定など出来ない。
 したところで不動はそれを信じはしないだろう。
 現実はもはや隠しようがない。あの子が狂気を広めているのだ。人殺しを増長させているのだ。
 止めなければならない。それは仕事にも入っている。
 不動はそう思ったのだろう。だが螢はそれに同意出来ない。全く逆の気持ちだった。
「なら、あれを」
「止めてくれ。やめて…やめて」
 螢は首を何度も振った。
 お願いだからと懇願して、不動の声を抑える。
 どこにも行かないでくれと願いながら、苦しくて仕方ない鼓動抱える。
「螢」
 窘める声にも応じられない。
 怖くて、怖くて不動の声を聞き入れることすら恐怖に代わってしまいそうだった。
「壊したくない。私と接することであの子を壊したくない」
 もう十分壊してしまった。
 だがまだあの子は立っている。まだ生きている。
 ならまだ引き返せるのではないのか。まだ、どうにかなるのではないか。
 壊れたものは、治るのではないか。そんな淡い期待が残っているのだ。
 まだ捨て切れていないのだ。
 そんなものだけ。
「触れたくない……触れられない」
 近付けば、距離を縮めてしまえば哀しみしか生み出せない。
「傷付けたくない」
 これ以上、何を奪い合うのか。傷付け合うのか。
 許して欲しい。離して欲しい。
 何の接触もしないことが、お互いにとって最も良い形なのだ。
 他には何もない。
 盲目的な信仰を恐れた。それは苦痛だった。けれど、それでもあの子と一緒にいた時間の中には。
 幸せがあったのだ。
 その思いをこれ以上潰したくない。
 そしてあの子の中にも、もしその記憶と思いが残っているであれば。それ以上汚したくない。
「それほどに大切か」
 そう告げた不動の声はひんやりとしていた。
 怒りに感じられて、螢の心臓は跳ね上がった。
 いつの間にか俯いていた顔を上げると、不動の瞳は重い色をしていた。だが声とは違い、怒りなどの感情は見えない。
「もう、一つの傷も許せないほどに」
 尋ねられ、螢は何かを言おうとした。
「たい…せつ」
 果たして大切だっただろうか。
 小さな子どもたったあの子は、確かに大事に育てた。
 自分が華奢な子どもをちゃんと成長させられるか不安で、四苦八苦しながら、それでも懸命に暮らしていた。
 けれど、本当に大切なら。自分の命すら惜しむことなく慈しむものではないのか。
 あの子の狂気からも、逃れることなく。受け止めるべきなのではなかったのか。
「分からない…」
 考えれば考えるほど、感情は曖昧になっていく。
 何かに、蓋をしてしまっているかのように。
 そんな螢を不動は物言いたげな眼差しで見下ろしていた。



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