偶像の棺 2 狂気が増殖している。 それは多くの残酷な死を招いていた。 現状に、空気は冷たく、重くなる一方だった。 「他の分類の奴らも警戒してる。悪魔に取り憑かれているとしても、人間としては尋常じゃない状態だ。物理的に始末をする部門の奴らも、動ける準備を整えてるって話だ」 物理的に、ということは人を殺す悪魔憑きの人間を世間から消すということだろう。 それが心臓を止めることなのか、もっと別の方法になるのかは分からない。螢には他の部門の者たちがどんな技を用いて、どんな仕事をしているかなど知らないのだ。 だが本来悪魔憑きは悪魔が消えれば人間の方に問題はなくなる。 物理的に排除する必要のないものだ。 ただ、悪魔を排除出来るだけの人間がごく限られているだけで。 「霊体専門なんて、自分たちの手に負えない上に、相手が知覚出来るから襲われるんじゃないかって恐々としてる」 「あれだけの強さが増殖してるとなると、見ている側まで発狂しそうだな」 自分の手に負えないものが、増え続けるのだ。いつ自分が危険にさらされるか分からない。けれどそれを防ぐ方法はない。 いつどこで、悪魔憑きに会うか分からないのだ。 そして悲しいことに、家にいたとしてもいつ発狂した人間が攻撃を仕掛けてくるか分からない。 相手は誰でもいいのだ。理由などなく、ただ衝動のままに破壊行動を行っている。 自分の命がつ奪われるか分からないという純粋な恐怖に晒され続けるのだ。 いっそ何も見えず、知らない人間の方が穏やかな気持ちで生きていけるだろう。 悪魔自体が見えないのだから。 「というわけで、忙しくなるからよろしく」 充にそう宣言されなくとも状況を知れば理解出来ることだ。 どのような悪魔であっても、螢は手を出せる。人間とは異なっているのだ。 他のどんな人が逃げたとしても、螢はずっと立ち向かう。それが、生きることと似ている。 だから螢は素直に頷き、真面目に働くことを充に告げただろう。だが今は違った。 悪魔を食べることはいい。発狂する人間を減らすことも、螢は厭わない。だがその先に、決して見てはいけないものがある気がするのだ。 「たぶん、これは螢ちゃんが追ってたやつだよ」 その予感を充が口にする。 どくりと頭の奥で警告音が響いた。 「そいつがはっきりと動き始めたんだ」 充は忌々しそうに言った。 自分たちを翻弄し、人々をなぶっている。そんな人物が憎いのだろう。 「悪魔処理にてんてこ舞いだけど。一応そっちもまだ追ってるから」 辿ってしまう。 その先に、辿り着いてしまう。 不安が急激に膨らんだ。 悪魔たちの先にはきっと、あの姿がある。そして充の組織も、きっとそこを探している。 そして見付ければ螢に教えるだろう。 悪魔たちをばらまいているのは、あれだと。 そう教えられた時、螢はどうするだろう。動かざる得ないだろう。この先も仕事をするならば、命じられるままに、探しに行く。会いに行く。 始末をするために。 だが、もし本当にその姿を見付けて、始末することが出来るだろうか。 逃げずにいられるのか。 「どうしたの螢ちゃん。無口だね」 怯え始める心臓を抱えて、螢は口が開けなくなった。 言葉が出ないのだ。 すでにここから逃げ出したくなっていた。どこまでも、あの子に関わりのない場所まで隠れたい。 そうするために、ここに来たのだ。 それなのにどうしてここでまた、会わなければならないのか。対峙せねばならないのか。 「不動のが移った?」 隣に座っている男の特性を、螢まで持ってしまったのかと充は苦笑する。 冗談を言われ、螢は少しだけ表情を和らげた。 「インフルエンザでもあるまいし」 珍しく螢より先に不動が言い返す。 「インフルエンザなら俺が一番にかかってるな」 充は、螢が出会うよりずっと前から不動と関わりがあったらしい。 だからそんなことを言う。 よく喋る充が無口になるなんて、有り得ないことだ。 「何でもない。ちょっと気になることがあっただけ」 でも気のせいだ。 そう螢は言った。 到底気のせいではなかったが。この予感を話すわけにはいかない。 ただでさえ充は今のことに頭を悩ませているのだ。これ以上問題を与えるわけにはいかない。 それに充に言ったところで、どうにかなることではない。 どうにも、ならない。 発狂した人間が多く出ている地域へ、足を運ぶ。 電車で移動をし、駅から出た瞬間からぴりぴりとした空気に包まれていた。 蒸し暑い日本の夏。ただでさえ外を歩いているとうんざりとするだろうに、それを更に過酷にしていた。 鳴り響く蝉の声が頭に痛い。 どこかあまったるい香りが、肌にまとわりつく。 食欲をそそる匂いではあるが、うっすらとした匂いが全体的に漂っているのは異様だとしか思えなかった。 どこから匂いが生まれているのか、分からないのだ。 あちこちから、朧気に発生している。 まるでこの土地自体が、その甘さを作り出しているかのようだ。 しかしそんなことは有り得ない。 土地が悪魔を内包しているなどあるはずがないのだ。悪魔は生きている者の精神に作用をする存在。精神を持っていない土地自体に取り憑くはずがない。 ならば答えは簡単だ。 複数の者が悪魔と接触している。そして悪魔を抱え込んでいる者も、ここに潜んでいる。 きっとその異常事態は人々もなんとなく感じ取っているのだろう。 悪魔など知らない、見えないだろう人たちでもどこか警戒をしているように見えた。 気難しい顔で、肩をいからせている者が多い。 ここはどこか狂っている。そう感知してしまっているのだ。 隣を歩く不動も、眉間に皺を寄せている。 不機嫌というより危険が差し迫っているように感じているのかも知れない。 螢にとっては好みとは少し外れており、甘ったるさが鬱陶しいくらいで。危険だとは思えなかった。 ただ心臓を締め付ける予感が表情をずっと曇らせている。 本心を言えば、悪魔とは関わり合いになりたくなかった。だが不動の立場がそれを許さない。 そして不動が動くということは螢も動く。悪魔が相手なら螢の方が有利だ。ミスをすることも、被害を食らうこともない。 「どいつも、こいつも」 不動が低く呟いた。 みんなどこかおかしい。正常に日々を送っているはずなのに、ぎこちない。 しかし誰がどうなっているかのは分からないのだ。誰が悪魔を抱えているのか、探り当てられない。 この場の空気自体が異様であるせいで、どこかにいるはずの悪魔の所在がぼやけている。 それに不動は螢ほど感知力が鋭くはないようだった。 無理もないだろう。 生きていく上で悪魔が必要な生き物と、必要ではない生き物なら差が出て当然だ。 螢は神経をとがらせて、周囲を探る。 甘い方、甘い方へと足を向ける。 不動もそれに従ってくれた。 駅前は人が多く、擦れ違う人々の暗い顔が視界を流れていく。 いつ誰に危害をくわえられるか分からないと疑心暗鬼になっているのだろう。 しばらくすると、螢の感覚に何かが引っかかった。 今にも落ちてしまいそうなほど熟れた果実の匂い。 甘すぎて気味が悪いほどだ。 胸の奥を刺激され、螢は身体が望むままに足取りを早めた。 匂いが濃くなる頃には駆け足になり、気が急いていた。 危険過ぎる。 そう頭のどこかが告げていた。 この匂いは甘すぎる、濃すぎる。 濃厚なばかりで濁っている匂いは、おそらく狂気だ。 人並みを掻き分ける際に人に当たりかけるが、謝罪を口にしている間も惜しかった。 こんな状況で狂気を膨らませるなんて、それは悲劇を引き起こすと言っているようなものだ。 食い物であると胸の奥、最も貪欲な意識は訴えているのだが。螢の理性がそれどころではないと言っていた。 鼻の中を満たしては、支配してしまいそうなほど強くなった香りに辿り着くと。悲鳴が上がった。 螢が向かっていた先、もう少しで到着すると思ったところからだ。 見ると、視界で血が飛んだ。 人々はそこで時を止める。 凍り付いた空間の中で鮮血は更に勢い良く飛び散り、煉瓦を敷き詰めた道を汚す。 絶叫が鳴り響いた。 恐怖に捕らわれた人々がそこから逃げ出そうと必死になって走る。螢は逆流する波にもみくちゃにされながら、その中心を見た。 包丁を持った男が、女を何度も刺していた。 うつぶせになった女はなんとか逃げようとするのだが、男が馬乗りになって背中に何度も包丁を突き立てる。 救いを求めるように伸ばされた指は空しく震えているだけだった。 男の目はうつろで、唇が動いており何かを言っているようだったが、周囲の悲鳴に掻き消されて何も聞こえなかった。 螢の目にはその男にまとわりつく影がはっきりと見えた。それを食えば男は正気を取り戻すだろうということも分かっていた。 だが近付くことが出来ない。 人の目がある。 逃げ惑う人たちは男なんて振り返りはしないだろう。だが周囲の建物の中にいる人は、安全な場所にいる人は男を見下ろしている。 そんな状況の中、悪魔を食えるはずがない。 見せ物になるわけにはいかないのだ。螢がしようとしていることは、常識などでは理解できない。人々に知らしめるものではない。 知られたところで、ろくな結果にはならないのだ。 あの国で、追いつめられたように。 唇を噛んで立ちつくす。 どうしようもなかった。 これでは、出てきた意味がない。 せいぜい警察に連絡するくらいだ。 なんて無力で、馬鹿げた存在なのか。 ふつふつと込み上げる憤りを堪えていると、ふわりと別の香りがした。 男からではない。 少し離れたところから微かに、それは漂ってくる。 どうしてこれほど濃厚な匂いの中、別の香りが混ざるのか不思議だった。 視線を向けると、一際背の高い後ろ姿が見えた。 それは男のようでしっかりとした体格をしている。着ている物は夏だというのに黒い長袖。隙間から見える肌は白く、何より目を引くのが。 金色の髪。 走り去っていく人たちの中で、その後ろ姿だけはゆったりとしていた。まるで危険なものなど何もないと知っているかのようだ。 めまいがした。 頭の先から血がさあっと一気に引いていく。 そのくせ変な汗が背中にじわりと滲む。 足音、悲鳴、恐怖の声、そんなものが一斉に遠のいていく。 その代わり、自分の心臓の音がはっきりと聞こえてきた。悲鳴のように早鐘を打っては震え始める音が。 瞬きも忘れて、螢はその背を見つめる。逃げなければと思うのに、足が動かない。 螢に気が付いたかのように。 その瞬間、頭の中で何かが弾けた。 next |