偶像の棺 12 「ずっとこのままでは、おまえは心身ともにそう保たない。人間の身にそれは重い。重すぎる」 帰ろうと言った、その人に返す言葉はそんなことだった。 おまえは死ぬだろうと、発狂するだろうと。 そんなことしか言えない自分など消えてしまえばいいと思った。 喉を潰して、この手を取って共に滅んでしまいたいと。 「ならば少しの間でいいのです。どうか側にいさせて下さい」 「おまえの中にいるものは私すら誘ってくる。そんな力のあるものを抱えていつまで保つ」 それは刹那の時間ではないか。 いくら螢が最も心を動かすであろうアルディを目の前にして弱っていたとしても、本来なら悪魔の言葉など人の声以上に些細なものであるのだ。 それなのにこんなにも影響を受けてしまっている。 そんなものを持って、人間がいつまで生きられるというのだ。 「保たせます。貴方がいるなら」 強く、アルディは訴える。 必死の表情に螢は頷きたくなった。 けれどその気持ちを無理矢理押し込めて、首を振る。 「アルディ…私はよく知っているよ。おまえは、このままでは意識を食われて、知性を壊され、人の判別すら分からなくなり、狂い死ぬ」 そういう人間を見てきているのだ。 その有様が凄惨なものであることも、よく知っている。 苦しみ、足掻き、悲鳴を上げ続ける。 あれほど惨めな、あれほど悲しい死に方はない。 人間の尊厳など塵ほどにも残されてないのだ。 「今のおまえが理性を残しているのが不思議なほどだ」 一緒に暮らしていた頃からアルディはとても意志の強い子だった。 幼い頃から凛然としていた。 そのおかげでまだ人としての意識を保っていられているのだ。 そうでなければとうに、発狂している。 「限界なのだと、おまえも感じているだろう」 ぎりぎりと張り詰められている精神を、本人が感じていないはずがない。 誰かに操られている、意識を食われている。そんな感覚が日常の中にあったはずだ。それが日々増えていることも、気が付いているだろう。 「私は耐えられます」 健気だと思えるほど、アルディは精一杯反論をしてくる。 それが根拠のないものであることを知っているだろうに。 「いつまで?その手で私を殺すまで?」 アルディの目から、ぽかりと必死さが抜け落ちた。 代わりに螢の口元には淡い笑みが浮かぶ。 その手でこの首を絞めたいというのなら、この命を奪い取りたいというのなら。拒むこともないだろう。 それだけの仕打ちをしてきたのだから。 「それが望みだというのなら私は」 「望まない!そんなことは決して望まない!」 アルディは螢にしがみついた。 最後まで言わせるものかと言うように、瞬時に言葉を遮ってくる。 「私は幸せな頃に戻りたい、貴方と一緒にいたい。それだけです」 真摯な声が螢に突き刺さる。 私もそうだと言えれば、どれほど良かっただろう。 あの時に戻りたいと叫び喉が裂けたとしても、声に出せればどれほど嬉しかっただろう。 だがそれは出来ないのだ。 螢の心はそれだけで満たされることはない。戻れたとしても、螢はもうあの頃と全く同じではいられない。 「たった一つの幸せに抱かれていたい…だけです」 おまえにとっての幸せはあの時間だけだったのだね。 そう抱き締めてやりたかった。 二人で共に暮らしたあの蜜月だけが、アルディが幸せであったと確かに感じられる、唯一の時間だったのだろう。 血も繋がっていない、人種も故郷も異なる、ちぐはぐな二人が肩を寄せ合った。あの時だけが。 「戻る術が……一つだけある」 螢の心の中に、最も選びたくない道が浮かんできた。 だがそれしかないということも、すでに分かっていた。分かりながら、手に取りたくはなかった。 「戻して…下さいますか」 「けれど、そうすればおまえの目は二度と開かれなくなる」 螢が与えられるのは、二度と覚めない夢への道を開いてやることぐらいだ。 幸せだと思えるほどの甘さを与えながら、目を閉じてやることくらいだ。 それはアルディにも察しが付いているだろう。 あの国にいた時には螢の傍らで何度もその景色を見ていたはずだ。恍惚とした表情の人間が目を閉じていく様を、覚えているはずだ。 あれらは僅かな間だけの夢だった。次に目を開ければ悪魔から解放された現実が待っている。だがアルディはもう悪魔と離れて生きていくことは出来ない。 離れられたとすれば、その時は。 「私の目などとうに潰れてしまった」 アルディはそう言っては苦笑した。 分かってしまっている。そう感じた。 この先に何が待っているのか。 ただアルディの中にいる悪魔だけが、戸惑ったように哄笑を小さくさせた。 「貴方と出会って、私はこの世に光があると知りました。貴方は私の光なのです」 それは螢も似たようなものだった。 無邪気な笑顔を向けてくれる幼子がいてくれたおかげで、螢はこの世にこんな幸せな、あたたかなものがあるのかと思った。それが自分にも感じられるのかと。 螢は腰を曲げてはアルディに顔を近付けた。 両手で頬を包み込む。 間近で交わる眼差しは痛ましいほどに柔らかだ。 名前を呼ぶより先に、アルディに口付けられた。 あったかい唇。 甘すぎる味が口の中に広がって、じわりと視界が歪んだ。 拒みはしなかった。 ただあまりに苦しかった。 「ずっと、こうしたかった」 吐息のような小さな声は、震えていた。 アルディが初めて見せる弱さだった。 全てを差し出し、心をようやく伝えられ。 それでもこの時間は、もうすぐ終わる。 今度は螢が口付けた。触れるだけのそれは情欲などかけらもなく、むしろ誓約に近いような尊さがあった。 たとえこの唇から流し込まれてくる味が、熟れた果実より甘く、大輪の花より艶やかであっとしても。蠱惑的で狂おしいまでに濃厚な美味であったとしても。 螢はそれに心奪われることはなかった。 「愛しています」 耳に心地よい、螢の心臓を貫く言葉。 唇が離れるたびに、アルディはそう繰り返した。 ようやく伝えられる言葉に歓喜するように、何度も何度も。 そして幸せそうに笑った。 螢は口付けのたびにアルディの命に触れる感触がして、躊躇った。 悪魔だけを喰うことが出来るのではないか、命を残すことも出来るのではないかという迷いがあるのだ。 けれどそれは味を感じるたびに、空しく散っていく。 甘さの中には間違いなく、命の味がした。 それは甘いとも、苦いとも言える。 どくりどくりと脈を打つ鼓動を唇と喉で受け止めているような気持ちだった。 飲み込めない。 食べられない。 そう思うけれど、螢はそれを吐き出すことが出来なかった。 そもそも吐き出す方法を、知らない。 感じた瞬間にはすでに螢の一部になってしまっている。 「愛している」 聞こえるたびに、声も出ない。 その言葉を聞きたかった。口にしたかった。 こんな形で聞くことになるなんて、誰が想像しただろう。 涙を流すことも出来ず、螢はその唇を塞ぐ。 だが一気に喰らい尽くすことも出来ず、嗚咽が零れてきてはまた唇を離してしまうのだ。 これが愛だというのなら。 なんて脆弱なものだろう。 どれほど愚かしく、儚いものだろう。 奪い合うことしか分からず。己の気持ちを偽ることにばかり長けて、互いの心を見失ってしまった。 これが愛なのだとすれば。 人はどれほど悲しい生き物なのだろう。 螢はもう喰うことも出来なくなって、ただアルディを見つめた。 悪魔の声は聞こえない。 アルディが押さえ込んでいるのか、悪魔自体の力はもう喰い終わってしまったのか。それも分からない。そんなことはどうでもいい。 分かるのは、アルディの身体から力が抜けていき、鼓動が弱まっていることだけだ。 螢を抱き返そうとしていた腕はだらりと下ろされ膝が崩れる。 倒れ込む身体をしっかりと抱き留め、螢は横向きにアルディを支える。 呼吸が浅く、小さくなった。 アルディはそれでも微笑んでいた。 嬉しそうに、優しい目をしていた。 「愛しています」 もう声にもなっていなかった。 「愛おしい人……」 螢はこのまま一言も返せないままではあまりにも辛いと思い、上擦った声でそう告げた。 するとアルディは目を細めて、そのまままぶたを下ろした。 「 」 唇だけで告げたそれは、かつて螢がそう呼ばれていた名前だった。 懐かしい、愛しく、切ない名前。 螢の腕の中で重みは増し、呼吸が止まった。 それでも安らかな顔はまるで眠っているようだった。 声をかければまたまぶたを開けて、笑んでくれるような気がした。 かつて眠っている子がそうであったのように。 アルディは小さな頃は怖い夢を見たと言っては螢のベッドに潜り込んだ。 寝るのが怖い、そう告げる子どもに夢の内容は聞かなかった。 それはあの子の記憶にまつわることだと思ったのだ。 痛ましい過去を持つ子に、それを思い出させるようなことはさせたくなかった。 螢のベッドで眠る子はそれは安らかな顔をしていて、悪夢なんてどこかに捨ててきたかのようだった。 真冬は一人で寝てると寒いと言って、また螢のベッドに入ってきた。 擦り寄って来ては、くすぐったそうに笑っていた。 いつまでも子どものようで。 螢と身長が並んだ頃に、ベッドに潜るのを止めてくれと言ったら酷く悲しげな顔をしていた。 どうして、どうしてと繰り返して、螢を困らせていた。 「……目を…」 目を開けて。 その空色の瞳で見て欲しい。 笑って欲しい。 嘘だと、こんなものは夢だったのだと言って。 本当は目を開けるとあの部屋にいて、アルディはまだ小さくて、傍らでぐっすり眠っているのだ。 いつもこっそり人のベッドに入ってくるから、目覚めた時にびっくりする。 可愛い子。 愛おしい子。 「………っ」 殺したのは自分だというのに、鼓動が聞こえることを願った。 ゆったりと消えていく甘い気配を感じているのに、それを無視してこの身体がまた動くことを祈っていた。 それが出来ないのなら。 叶わない願いだとするならば。 「……死んでしまいたい……」 このまま死んでしまいたい。 アルディが悪魔を抱えた理由は、死んだ理由は他の誰でもない。 自分のせいだ。 ならばこのまま共に朽ちてしまいたい。 痛いのだ。 心臓が痛い。 身体が痛い。 もう生きていられないと思うほどに、何もかもが痛い。 「死んで…しまいたい…!」 肺に残っていた酸素を全て吐き出して、そう告げる。 いっそこれで鼓動が止まればいい。 だがそれに反して心臓は動き、肺は上下して酸素を取り入れる。 痛みを深めるために。 淡い光の粒が舞う中、土を踏む音が螢の傍らに下りた。 「許さない」 硬い声が聞こえて、螢の頬に掌が触れた。 あたたかな、けれどアルディとは違う感触。 「そんなことは許さない」 怒気すらはらんだ声が螢の心臓をつく。 清らかな香りが、それまで螢を包んでいた甘さを退けるようだった。 いつであっても堂々と、泰然と立っている人の姿は今の螢には眩しくて、強すぎて見上げられない。 だが双眸が歪んでは耐えきれずに雫が一滴、アルディの白い肌に落ちた。 それでもアルディは微動だにしない。 命途切れた身体にはその雫すらもう受け止めることが出来ない。 冷たくなっていく身体に反して、螢の身体はあたたかなままで。 たとえ抱き締めているこの愛おしい存在が土に還ったとしても、きっとこの姿のままだ。 自然は螢を拒絶している。 いつまで経っても、どこにいったとしても。 二人は一緒にはなれない。 決して、同じにはなれない。 ただ愛おしいと思った、この気持ちだけは。あの思いだけは。同じものだった。 たった一瞬だけでも、同じだった。 next |