偶像の棺 11 アルディは螢の前で膝をつき、顔を上げた。 その眼差しには侮蔑など欠片も入ってはいなかった。ただひたすらに、悲しげだった。 切なげにすら見えるその双眸に、螢は違和感を覚える。 こんな反応は予想していなかった。 アルディはそのまま黙って螢の右手をそっと掴んだ。それは包み込むと言った方が正しいほど、優しい手つきだった。 「何故、言って下さらなかったのですか」 その声は深く、柔らかだった。 優しい響きに螢は震えた。 頑なに、どんな罵声を浴びせられても平気でいられるように閉ざした心が揺らされる。 「言えるはずがない……それは罪だ」 罪悪を自ら告白するなど、懺悔する場合だろう。螢は懺悔する気などなかった。許しなど、信じていなかったからだ。 「おまえには到底受け入れられることではない」 傷付け合うために、自分の気持ちをさらけ出して何になる。 互いの痛みを生み出すだけの言葉に、何があるというのか。 「決めつけないで」 慰めるような言い方に、螢は唇を噛んで首を大きく振った。 「訊くまでもないだろう…それに私は侮蔑されたくなかった。それが怖かった。何より…」 怖かったのだ。 蔑んだ目で見られるのが途方もなく、怖かった。 さっきまで尊敬の眼差しを向けてくれていた人が、ずっと傍らで穏和な瞳をしていた人が、急激に憎悪に満たされていくのを見るのが恐ろしかった。 「侮蔑などあるはずがない」 あるはずがないのです。 そうアルディの声が、水の流れと共に聞こえてくる。 「何故、私も同じだと思って下さらないのですか」 ぽつりと、静まり返った部屋に一滴の水が落とされたように。その言葉は螢の耳には大きく反響した。 「同じ…」 「私も貴方と同じ気持ちだと、どうして思って下さらない」 真っ直ぐな眼差しを受けながら、螢は自分の中で何かが音を立てて崩れていくのを感じた。 自分の中で大切にしていた、支えになっていた何かだ。それが壊れてしまっては理性を保っていられないと分かっていた。けれど耳を塞ぐなんて、出来なかった。 「そんなことが……あるはずが。だってそれは神が許さない」 声が虚ろだった。 信じられないのだ。 螢の頭が理解することを拒否していた。 「私は神の子などではありません。神の子でいられるはずがない。母を殺した時から、いやもっと前から。私は神の子などではなかった」 人を殺めた者が、祝福を受けることがあるだろうか。 アルディは母を殺したことを悔やんでいる素振りがない。心の中ではそう思っているのかも知れないが、いやそう思っていたとすればそれから幾人も人を殺めることはないだろう。 ならば目の前にいる人はとうに、神の祝福など捨て去っているのか。 だがそんなことは知らなかった。 ついさっきまで、考えもしなかった。 「ずっと欺いていたのです。神を信仰するフリをして。そうした方が貴方に近付きやすかった。貴方を捕らえられた」 初めて会った時、アルディは信仰者として螢の前に現れた。 信仰者でなければ出会えなかっただろうと思う巡り合わせだ。 けれどその後も、信仰者であった理由は。 「貴方は、神を探しているようだったから」 吐息すら殺されているように感じた。 螢が神を探しているから、アルディは信仰者であるフリをしていた。そうすれば螢はアルディにも興味を抱くだろうと思ったのだろう。 だが螢はアルディが信仰者であるが故に、己の気持ちを隠して、殺して、自分の中のひずみを作った。気持ちを歪めていった。 「私にとっては貴方が全てです。他のことなど知らない。神など知らない。神がいるならば何故私は母に殺されかけたのでしょう。異端の目で見られ、疎まれたのでしょう。この力など私は欲しくなかった。いらなかった。叩かれ、罵られ、憎まれ、私が抜け出すための術が人殺しだけだった。それは何故ですか」 アルディが声を荒らげることはなかった。 けれど静かであることが、その心に抱き締め続けていた苦しみの深さをより一層突き付けていた。 人殺しが、救われるための唯一の手段であるなど。そんなことは辛すぎる。 情があるものなら、慈悲があるものなら、その前に救いを作るだろう。 他の道を指し示すだろう。 けれどアルディはそれがなかった。 底知れぬほどの悲哀は、繰り返される苛みは螢にも覚えがある。 共鳴し、泣き叫びたいほどだった。 「貴方だけが慈しんでくれた。守ってくれた。貴方だけが」 螢の視界が歪んだ。 涙だったのか、意識だったのか、それは分からない。 ただアルディに包まれたその手が螢が感じられる感覚の全てになってしまっていた。 「私は貴方を愛しています」 その音に螢は目の前から光が見えなくなった。 何という告白か。 どれほど甘く、狂おしい囁きであることか。 今まで自分を抑えていたものを全て払いのけられ、枷は外され、解き放たれる。 思うままに生きれば良かった。 何も取り繕わず、感じたままに動けば良かった。そうすれば何も傷付けなかった。狂わなかった。 他の誰も、アルディですら悲痛な思いにかられなかったかも知れない。 血も流れなかった。 ぐらぐらと精神が崩壊していく。 今まで自分が守ってきたことは、逃げ回っていたことは何だったのか。 何から、どんなものから、誰を大切にしていたというのか。 「さあ、帰りましょう」 崩されていく螢の意識に入り込むように、アルディが告げた。 甘い、人の心を揺さぶる甘言。 その奥で悪魔が笑う。笑っている。 愉快そうに。上機嫌で声を響かせている。 この光景はさぞかし楽しいのだろう。 悪魔の前に立っても、その甘さに心惹かれながらも虜にされる予兆のなかった螢がこれほどまでに揺れているのだ。 震えているのだ。 いっそ墜ちてしまいたいと言わんばかりに。 「戻れると言うのか……」 初めて、この魂が悪魔声に初めて引っ張られていた。 今までどれだけの甘言を囁かれても螢にとっては食欲が勝ったのだ。それに悪魔の甘言など戯れ事だと知っている。 それに惑わされないだけの精神力を持ち続けられていた。けれど今はそれが崩壊しようとしていた。 「戻れます」 アルディは笑みを深めて、そう告げる。 眼差しはそれを信じていた。 悪魔の声に身を委ねれば、アルディの手を握れば、もっと幸せになれるというのだろうか。 穏やかだったあの時に戻れるというのか。あの柔らかな時を手に入れられるというのか。 「螢!墜ちるつもりか!」 不動がそう叫んでいた。 距離はそう離れていないはずなのに、とても遠い。 悪魔の声ばかりが螢の頭の中に響いていた。 墜ちてしまえば、もうこの子を傷付けることもないのだろうか。二人で幸せに暮らしていけるというのだろうか。 不動との暮らしが穏やかであったように? 「二人で、あの国のあの時間に」 アルディの囁きに、螢は目を閉じた。 不動との時間に意識を向けた瞬間、すぅと切なさが込み上げてきた。 それはとても細い、一本の糸のような感情だった。けれどそれを見てしまえばもう無視出来ない。 悪魔の甘さに包まれるが、それは強引な強さで螢に食らいつくだけの魅力に欠けていた。 アルディとの時間はかけがえのないものだ。あの時は互いが互いのことを思うが故に、理解し合えないと思ってしまったがために離れることになった。 今ならもっと違う形になれるのかも知れない。幸せも、見付けられるのかも知れない。 だが、そうするにはもう遅すぎた。 二人は多くのものを抱えすぎた、二人だけでは生きていけない繋がりを増やしすぎた。 「無理だ」 「どうして?」 アルディの純粋に聞こえてきた問いに、螢は目を開けた。 その視界の中には、歓喜に身をくねらせる黒い影が見えていた。 「おまえも、分かっているだろう?」 螢はアルディではその影を見つめた。 だが悪魔は螢に感知されていることなど分からないだろう。 本来人などには見えないものだからだ。 「あの悪魔を抱えて、生きるなど無理だ」 悪魔は精神を貪る。 少しずつ、じわりじわりと浸食してはいつしか人の脳をぼろぼろにして捨てるのだ。 例外はない。 螢が知っている限り、悪魔を抱えている限り、人の終わりはただ一つだけだった。 発狂して自殺するか、人に殺される。 「制することが出来ます」 自信に満ちた答えに、螢は痛みを噛み締めた。 悪魔はそうして人を騙す。悪魔がいても大丈夫だ、制御することが出来ると思わせるのだ。そうして悪魔を内に抱え込ませようとする。 「無理だ。おまえにも聞こえるだろう?笑う声が。あの嘲笑が」 悪魔と繋がっているアルディの身体には、悪魔の声も感情もある程度伝わっているはずだ。 だからちゃんと聞こえているだろう。 あの忌々しい、恐ろしい哄笑が。 「そんなものは聞こえません」 平然とそんな嘘を付く。 あまりにも堂々としているから、いっそ信じてしまいたくなる。そうして平穏な時間に戻ると思ってしまいたくなる。 だがその先には、何もない。 二人にとっての未来など欠片もない。 「アルディ?…おまえ、己の命を引き替えにしただろう?生け贄も使わずに」 悪魔と契約をする際に、悪魔を引き入れる代わりに何かを差し出す必要がある。 それは悪魔から得られる力と同等と見なされるものだ。 大抵は命と引き替えにされる。 自分の命を元にすれば、危険な分だけ大きな力を得られる。悪魔そのものを取り込めるほどだ。けれど大抵の者は自分の命が奪われることを厭って、別の人間の命を生け贄に捧げる。 だがアルディは自分の命を差し出しただろう。だからそんなにも根深く、そしてこの時も悪魔はアルディの中に忍び込んでいる。 奥へ、奥へと、深まっていく影はもう止めようのないものだ。 それだけアルディの渇望は強くなってしまった。螢の心が揺れてしまった。 一刻、一刻、視覚出来るほどに濃く、強くなっていく悪魔。 同時にアルディの命が食われている証拠だ。 「だからおまえの中に巣くっている。心臓に絡み付いている」 気が付いているはずだ。 自分の身体が異常なまでの変化に晒されていることを。自分以外のものに乗っ取られようとしていることを。 分かっているはずなのだ。 だがそれでも動揺一つ見せない姿が、アルディの意志の強固さの現れのようだった。 「おまえは……それが、その悪魔がいなくなれば…死ぬのだろう…?」 喉が締め付けられた。 告げようとしても声が裏返りそうで、けれどもう見えている結果を無視は出来なかった。 アルディの足元には、死があった。 それはじきにアルディに触れるだろう。 「はい」 躊躇いすらなかった。 静かな声で、はっきりとアルディは言う。 悪魔が踊っている。 アルディの死を知った螢の心に、それを告げなければならなかったアルディの心に。喜んでいる。 楽しくて楽しくて、仕方がないのだろう。 再会した瞬間にはまだ切り離せると思えていた。ここに来て、螢が淡々と話をしている間も、まだ間に合うと思った。 だがもう駄目だった。 二人は喜んでしまったから。微かでも、お互いの気持ちを知って、嬉しいと感じてしまったから。心を大きく動かして、同時にあの時擦れ違ってしまった哀しみを悔いてしまった。 まだやり直せるかも知れないと、悪魔などに耳を貸してしまった。 心を保てなかった。 だからもう遅い。 悪魔に付け入る隙を見せ、奥深くまでそれを入れてしまった。 たった一瞬の鼓動の乱れが確実な終わりを選んでしまった。 next |