偶像の棺   1




 綺麗で、小さな檻。
 足元の鎖。
 格子がはめられた窓は、罪人の証であるようだった。
 どれだけの時が流れていったのかも分からず、ただあの眼差しから逃げられる日を待っていた。
 傷付けることを恐れて、大切なものを壊すのが怖くて、とうとう手放してしまった。
 これ以上、崩壊していく子を見ていられなかったから。
 狂気を増幅させるわけにはいかなかったから。
 あの国に行ってから、周囲には狂気があった。
 一方的な信仰の目が、盲目的な思いが、ぶつけられるばかりで受け入れられはしない言葉たちが、身の回りに溢れていた。
 そしてこちらから伸ばした手は、思った通りの位置に届かない。願っていた言葉は曲解される。
 それなのに、伸ばされたあの子の手は。
 真っ直ぐ伸びてきては触れてきた。
 あったかい、柔らかい、小さな手。
 はっきりと覚えている。その指がどんな切実さでしがみついてきたのか。
 どれほど人の優しさを欲しがっていたのか。
 寒さと辛さと空腹にどれほど恐ろしい思いをしていたか。
 それが分かったから、側にいる限りは抱き締めて、寒くないように包み込んで育てた。
 優しさを感じられるように、もう凍えないように、寂しくないように。
 持っている全てを与えたかった。
 それが過ちだった。
 あの子との暮らしは幸せで、楽しくて、あったかくて、いつまでも続けばいいと思っていた。いつまでも続けられるはずがないと知っていたのに、それを望んでしまった。
 あの子は大人になれば離れていくはずだと頭で理解していたのに、心がそれを受け入れたくないと言っていた。
 可愛いと思う気持ちは膨らむばかりで、抑えきれなかった。
 身体も精神も育っているのに、大人に近付いているというのに、まだ親代わりの自分が必要なのだと思いたかった。
 必要とされていると思いたかった。
 そしてあの子はその気持ちを察していたかのように、ずっと頼ってきてくれていた。
 だから嬉しかった。
 おかしいと分かっていたくせに、その違和感を無視してあの子の側にいた。
 その眼差しがいつしか、親への親しみなどではなく、信仰の色になっていたのに。
 気が付いていたはずなのに。現状を変えたくなくて、知らないふりをして。
 取り返しの付かないところまできてしまっていた。
 あの子も。自分自身の心も。
 かみさま。
 そうあの子が口にした時、はっきりと心が凍えるのを感じた。
 均整が崩れていく、精神が蝕まれていく。
 そんなものを欲しがったわけじゃない。そんな信頼を求めていたわけではない。
 かみさまだなんて。そんなものになりたかったわけじゃない。
 この手に力なんてない。誰かの願いを叶える能力なんてない。誰かの悲鳴を受け止めるだけの優しさだって、本当はなかったのだ。
 全ては自分のためだけに、動いていただけだ。
 慈愛なんて、そんなものをいくつも持っているわけではなかった。
 むしろかみさまなんて、信じてすらいなかった。いなかったのだ。
 神なんて。
 そう繰り返している内に、ちらりちらりと光が生まれてくる。
 真っ暗だった世界の足元から、ふんわりと柔らかで幻想的な光が浮かぶ。幾つも、幾つも。
 頼りなく、儚い光だ。
 触れれば消えてしまいそうな、その夢のような光はほのかに色を持っていた。
 淡い、緑。
 ああ、古い光だ。
 そう感じた。
 緑色のそれから感じるのは、セピアに近い感触だ。
 とても昔にこれを眺めていた。神の存在を意識しながら、これを見ていた。
 神とは何なのかと、呟いた記憶がある。
 それはいつだったか。
 あれは、どこでのことだったのか。
 この光は。



 意識が急激に持ち上げられるのを感じた。
 目を開けると薄暗い天井が見える。
 クーラーが起動している小さな音が聞こえる。
 それなのに、汗をびっしょりとかいていた。
 目覚めの気分は最低だ。
 どくりどくりと心臓はうるさく、まるで動き回った後のようだった。
 深く息を吐くと、震えていた。
 たぶん、うなされていたのだろう。
 夢の内容は明確には覚えていないけれど。ろくでもなかったことだけは印象に残っている。
 元々、夢見は良くない。
 記憶を刺激されるものは全て、痛みにしか変わらない。
 とてもではないが、そのまま眠りに戻る気にはなれず上半身を起こした。
 ベッド代わりにしているソファにもたれかかる。
 危険だと、頭のどこかで警告音がずっと鳴っている。
 この前から、止まることがない。
 恐れているのだ。
 あの子と出会うことに。
 この国に逃れてきてから、少しはこの恐ろしさが和らいだ。物理的に距離を空けたので、精神的重圧が減ったのだと思った。
 だが、ここ最近あの子の気配がする。
 悪魔が増えているなんて情報を耳にしてから、想像してしまうせいだろうか。もしかすると、あの子かも知れないと。
 有り得ないと笑い飛ばしてしまいたい気持ちでいっぱいだというのに。螢は心のどこかで思っていた。
 予感していた。
 あの子だろうと。
 半ば確信に近いものがあった。
「……はぁ」
 吐息は、まだ震えている。
 先ほど見た過去も、夢だと思いたい。
 あの子に会ったことも、螢の想像が生み出した幻だと思いたい。
 本当はずっと日本にいたのだと、他国になど行っていない、神の業だと人々に言われたりしていない、盲目的な信仰など集めていない。
 檻の中に入れられたことなど、なかったのだと現実を歪めたい。
「早く……」
 一刻も早くこの記憶が風化すればいい。
 いつだってそうやって記憶を捨ててきたはずなのだ。
 古いものが次々に、どれほど傷付いたものであっても、時の流れと同じ分だけ記憶は消えていったはずだ。
 だから、あの子のこともいずれ消えてしまうだろう。
 この心にどれほどの深さで傷があったとしても。血を流していたとしても。きっと記憶からは消えてしまう。
 早く、時が過ぎればいい。
 螢の記憶と同じように、人の命もまた長くは保たない。どれほど愛されていても、憎まれていても、人はある時を過ごすと土に還る。
 誰も逃れられはしない。それ人の宿命。
 早く全てを押し流して欲しい。
 そうすればこれ以上傷付けず、傷付かずに済む。
 このまま終わらせることが出来る。
 だから、お願いだから。
 この網膜にあの子が写されることが、二度とないように。
 そう切実に願った。
 けれど硬く閉じたまぶたの裏ではそれを嘲笑うように綺麗な金色の髪が思い出され、胸騒ぎは収まることを知らなかった。



「人が死にすぎている」
 充はしかめっ面でそう言った。
 電話では説明し切れないと言って、充はこの部屋に来ては無駄話をすることなく仕事を話し始めた。
 とても珍しいことだ。
 大抵充は仕事以外の話題から入る。むしろそれをメインにしているのではないかと思えるほど、色々な他愛ない話をふってくるのだ。
 だが今日はそんなことは一切言わなかった。
 玄関に足を踏み入れてから、難しい表情を崩しもしない。
 それだけ、充の置かれた状況が切羽詰まっていることを示していた。
 いや、正確には充の置かれている状況ではない。
 今現在の、世間の状態だ。
「突発的に人を殺す。それだけでなくバラしたりもするらしい」
「それは…また」
 猟奇的だ。
 螢もテレビのニュースには目を通しているので、その手の情報は知っている。
 最近急増していることも。
 しかもある特定の地域でのみ、爆発的に増えているのだ。
 異常であることは、ニュースでも話題になっている。
「しかも他人だけでなく、その衝動は自分自身にも向けられている。人を殺した後に、自分自身も斬りつけて、無惨に死んでいくらしいよ」
 充は淡々と語る。
 悲惨であることは感情を入れて語らなくとも、十分に伝わってくる。その、狂気も。
「他にも発狂する人間が後を絶たなくて。はっきり言って異常事態だ」
「だろう」
 そんなことは言わなくても明白だというような声で、不動が相づちを打った。
 普段は黙ってただ聞いているだけの不動も、この異様な事態に興味を持たざる得ないようだ。
「対処に追われてみんな悲鳴上げてるし、精神科の医者には泣きつかれるし」
 たまったもんじゃないよ。とその時だけ苦笑を見せる。
「もちろん、俺たちはそれが偶然だとは思っていない。連日続くと、どう考えたってなんかあるだろ」
 ないと考えるほうがおかしい。
「原因は悪魔だと?」
 ここに話を持って来たと言うことは、そういう結論を見出しているのだろう。
「そうだよ。あいつら増えてる」
「増えてるって…増えるようなもんじゃないのにな…」
 螢は困惑を見せる。
 だが少し前にも同じことを口にしたのだ。
 悪魔をばらまいている奴がいる。そう耳にした時にも。同じことを思った。
 半信半疑だったことが、とうとう実証されてしまったようだ。
「そう。増えるもんじゃない悪魔が急激にその数を増やしてる」
 充は憂鬱そうな溜息をついた。
「しかも確証を取りに行ったやつまで殺された」
 その言葉に、空気が凍り付いた。
 確証を取るというのは、充のように見ただけでそれがどの程度の力を持った霊体や悪魔であるのか判断をする人間だ。
 素人とは違い、霊体と対峙した時の対処もある程度知っているはずだ。
 その人間が殺されたということは、緊急事態を意味する。
 相手は並の相手ではないということだ。
「しかも狙われたわけじゃないらしいんだよね」
「どういうことだ」
 不動が渋い顔をした。
「無差別に殺された内の一人だったんだよ」
 充は苦痛に近い表情で告げた。
 自分と同じ立場の人間が殺されたというのは、彼にとって非常に考えさせられるのだろう。
「発狂した人間が突然暴れ始めて、その場に立ち会わせて巻き添えを食った」
 言葉がなかった。
 もし、霊体や悪魔を判別出来る人間だと勘づかれて攻撃されたのならまだやり方があった。
 バレないように何かしらの対処を考えもしただろう。
 だがそれすら許さない。
 相手はこちら側の何も察していない。何も感知していない。ただその場にいた。それだけの理由で、殺されたのだ。
 まさに無差別だ。たちが悪すぎる。
「物騒過ぎる」
 充と忌々しげに呟く。
 それは緊迫した空気を更に重くした。



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