戯弄   6




 もう取り繕う必要もなくなった悪魔は敵意を露わにすることも、大人しいふりすることも止めていた。
 胸を張るかのように背を伸ばした様は、愛実を演じていた頃よりも蠱惑的に見えた。
 それは螢が悪魔を喰う生き物だからか、それとも人を惹き付けるのが悪魔としての本性だからか。
「魂を喰うなんて。よくこんな化け物と一緒にいるな」
 悪魔は不動に向けてそう言う。
 まだ諦めていないのかも知れない。
「喰うのは悪魔だけか?魂であるのなら何でも喰いそうな目をしている」
 そう言われ、螢は苦笑を深くした。
 その通りだ。
 それにしても嫌なところをついてくる。カンで言っただけだと思いたいが、すぐにそんな台詞を突き付けられるとは思わず、微かに心が揺らいだ。
 それを悪魔は見逃しはしない。
 悪魔は人の中に住み、精神を自分の思うとおりに動かそうとする。そのため人の感情の機微に敏感だ。
 案の定螢の動きにも気が付いたらしい。
「いずれおまえも喰われるかもな」
 目を細めて不動を見つめる。愉快そうな様子だ。
 そうして人をじわりじわりと痛めつけるりが好きなのだろう。
「私よりこいつを先に始末した方がいいんじゃないか?喰われる前に」
 ふふんと笑う悪魔に、不動は胸元から煙草を取り出した。
 町中では煙草は吸わない男だ。
 人に迷惑をかけてまで吸うものじゃないというのが不動の考えらしいが、その男が煙草に火を付けるのだから、気分は良くないらしい。
「おまえに指図される筋合いはない」
 吐き捨てるようにそう言っては、火を生み出したジッポーの蓋をカチンと閉める。
「やはりそうか」
 にやりと悪魔が笑う。
 愛実でいた時とは大きく異なる笑みだ。
「口は達者だな。それで何人殺した」
 喋りが下手な悪魔に会ったことはない。だがそれにしてもよく喋るものだ。
 螢が冷ややかに言うと悪魔は瞳に楽しげな色を宿した。
「殺した?殺してなんかないさ。勝手に苦しんで勝手死んだ。自らを投げ捨てたのさ」
 悪魔は自分の手を下すことなんてない。口だけだ。言葉だけだ。
 罪になることは一切しない。
 人はみな自分で自分の命を投げた。だが殺したのは、間違いなく悪魔なのだ。
  「揺らせばすぐだ。あまりにも呆気なかった」
 嬉しそうに悪魔は語る。遊んだ記憶が蘇るのかも知れない。
「もう少し遊びたかったのに、つまらないと思ったほどだ」
 人はみんなすぐに死んでしまう。
 そう話す悪魔はずっと笑っていた。
 罪悪はない。そういう生き物として生まれ、育っているのだ。そうすることでしか生きていくことを知らない。
 そもそも悪魔自身に悲しい、苦しい、などの感覚が存在していない以上この反応は無理もない。
「玩具か」
 人々の中に混じり、人と同じように痛みや苦しみを味わっている螢にしてみれば、やはり悪魔というものは気分の良いものではない。
 呆気なく死んでいく人間たちに、心惹かれたことだってあるのだ。
 それを嘲られて同調など出来るはずもない。
「玩具以外の何になると言う」
 悪魔はふっと真顔になって螢に問うた。
 どうしてそんな当たり前のことを尋ねるのか、理解しがたいという様子だ。
「馬鹿みたいに溢れているんだ。玩具にしても数は尽きないだろう?」
 どうして責める。そう悪魔は言った。
 人とは異なる螢が、人のように悪魔に対して苛立ちを見せるのが不思議であるようだ。
 数がなくなるから玩具にするな、そんな理由ではないのだと、説明する気にもならない。
「腹が立つか?嫌悪するか?」
 気分を害している二人に、悪魔は再び笑った。
 嬉々とし始めているのが濃く漂ってくる香りから感じ取れる。
 人を傷付けようとしている時、悪魔はこうして愉悦を覚えるのだ。
「だがな、私を人間に近づけたのもまた人間だ。まして神に仕える職の者だった」
 この言葉には、螢も意識を引き寄せられた。
 悪魔を人間に引き寄せる。それは人間に取り憑いた悪魔が別の悪魔を呼んだ、というだけではないのか。中には他の悪魔を呼ぶ奴もいるのだ。
「悪魔が悪魔を呼んだだけだろう」
 人を侮辱したいのだろうが、それだけでは何の衝撃も受けない。そう冷静に返すと悪魔は愉快で仕方がないと言うように笑い声を上げた。
「違う!それは全く違うのさ!神父に憑いた悪魔はな、神父に使役されていた!いいか、中には悪魔に憑かれても意識を支配されない人間がいるのさ!」
 それは知っている。
 自分の中に悪魔がいると感じて、それを制御出来るだけの自制心を持つ人間もいるのだ。
 悪魔の甘言に流されず、自我を持ち続ける精神力のある人間が。
 だが悪魔に抵抗している人間が、悪魔を呼び寄せるというのはどういうことだ。
 それではまるで。
「悪魔を呼ぶ悪魔を自分の近くに寄せて、神父は私とこの女を引き合わせた!傑作だろう!悪魔を祓うはずの者が悪魔に惹かれて人を突き落としていくんだ!」
 悪魔の興奮した声は、螢の中に突き刺さる。
 嘘だろう。
 思わずそう呟きたくなった。
 悪魔に支配されずにいるというのに、どうして他人に悪魔を取り憑かせる。
 そこにどんな意味があるというのか。
 悪魔が憑けば不幸になるに決まっている。その人だけでなく、周囲も壊れてしまうだろう。
 そんなことを望んでいるとすれば、その人間こそ悪魔だ。
 身に宿った悪魔に支配される前から。
 信じられずにいると、悪魔は目を細める。
「人はそういう生き物だ。殺し合っている」
 それが事実だとすれば、異様な事態だ。
 だが悪魔の口から事実が出てくると思うこと自体過ちだ。
 螢はそう思い直す。こいつらが真実など吐くはずがない。
 こちらの心情を乱すための虚言でしかないはずだ。
「面白いじゃないか」
 そう投げかけられ、螢は肩をすくめる。
「話しすぎだ」
「そう?聞きたそうだったから」
 悪魔は唐突に愛実の姿を取り戻す。
 小首を傾げて、狂気じみた笑いを消して、優しい表情を浮かべる。
 人間の振る舞いを取り戻したことで、螢の神経を逆撫でした。
「知ったところでどうでもいいことだ」
「本当に?」
 投げやりな態度をとるが、愛実はそれに食いついてくる。
「ならどうして貴方の心は揺れているの?」
 舌打ちをしたくなる。
 人の気持ちを感じ取る相手だと知っている。それだというのに心が揺れたのは、記憶を刺激されたからだ。
 かつて、神に仕える職をごく身近に感じていた頃を。
 あの頃自分が感じていたものが蘇ってくるようで、つい神経がざわついた。
「そんな生き物の中で生きるのが嫌ではない?貴方は違うのに」
 人ではないことを強調してくる。
 それが螢にとって良い気分でないことを察しているのだ。
 爪の先で心を転がすような言い方に、螢は目を伏せる。けれど痛みは襲って来なかった。
「嫌になる時期は終わった」
「終わった?本当に?」
「ああ。終わった。そんなものはとうの昔に」
 この悪魔には想像もしていないだろう歳月を、螢は生きてきた。
 覚えてもいないほど、生きているのだ。
 今この世界にいる人間の誰よりも長生きをしているだろう。
 それだけ生きていれば、人間の中に混じって生きるのが嫌にならないか。などという質問の浅はかさに込み上げてくるものは乾いた笑いしかない。
 嫌になろうがどうしようが、死なないのだから生きているしかない。
「さあ、もう十分喋っただろう」
 螢は顔を上げ、深く息を吸った。
 心を揺らすのはもう終わりだ。
 悪魔の言葉に耳を貸すのも。
 今からは、螢が甘言を流し込まなければいけない。
 引きずり込み、溺れさせ、そして喰らい尽くす。
「楽にしてあげよう」
 ふわりと微笑み、螢は悪魔に一歩近付いた。
 個人的な感情は封じ込め、ただひたすら悪魔を感じることだけに集中する。螢が螢であると同時にもっと別の人格を感じる瞬間だ。
 魂を食べるという、異質な生き物に変わる時。
「はあ?」
 何を言い出すのか、という様子で悪魔は盛大に顔をしかめた。
「おまえは初めて恐怖を感じた」
「何を言っている」
「今までおまえを脅かすものは何一つなかった。誰一人」
 悪魔は魂だけの存在だ。
 それを失うことはない。危害をくわえてくる者は何一つ存在しないのだ。
 気が付けばこの世に在り、人の中に入っては精神を弄んで快楽を得て、宿主が死ねばまた別の人間の元に移る。
 それを何度も繰り返していく。
 死という概念もなければ、そういうものがあるということすら知らない。
 痛みも苦しみも、悪魔にはないのだ。
 だから恐怖も知らない。知っているのは快楽だけ。
 けれどこの悪魔は、違う。
 螢に手首を掴まれた瞬間、確実に今までとは違う感覚を味わったはずだ。その感覚に戸惑い、警戒心を抱いた。
 この悪魔は知ってしまったのだ。
 恐怖というものを。
「この世の全てはおまえにとって玩具でしかなかった。恐ろしいものなどなかった。私に会うまでは」
 悪魔は言われていることの意味をしっかりと理解していた。
 自分の手首を掴んでは、食い入るようにして螢を見つめてくる。
 少しずつ染み込んできているだろう感情に唇を噛んでいる。
 追いつめることしか知らなかったものが、今はじりじりと窮地に立たされている。
「おまえは今恐れを感じている。そして恐怖を知らなかった頃にはもう戻れはしない。一度味わったものを消すことなど、出来はしないのだから」
 螢は柔和な声で悪魔に語りかける。双眸には淡い慈愛が浮かび、それまで苛立ちと侮蔑を向けていたのが嘘のような表情だった。
 生まれてきた子どもを見つめる母親のような顔を見せる螢に、悪魔はきつく睨み付けてくる。だが困惑していることは、手を掴んでいる指が微かに震えていることから見て取れた。
 悪魔が話すことに憤っていた。
 けれどこうなってしまえば、もはや悪魔は螢の手に落ちてくることが決まっている、無防備な魂にしか思えなかった。
 それを抱き締め、甘く引き寄せ、愛おしい人に接するように口付ける。
 そうすればこの身体は満たされるのだ。
 鼻腔ではなく、螢の精神をくすぐる悪魔の香りに、笑みはいっそう慈しみを帯びる。
 この奥に宿っているのは貪欲なものでしかないというのに、現れるものは慈悲の固まりであるかのようなものばかりだ。
 そのことに、自分もまた悪魔とさしたる違いがないのだと思わせられた。



next 



TOP