戯弄   7




 螢はまた一歩、悪魔に近付いた。
 全身で威嚇している様は、もはや野良猫か何かのようだ。
 哀れみしか沸いてこない。
「これからずっと、おまえは喰われるという恐怖を抱いて生きてゆかなければならない」
 本当の恐怖は、今感じているものよりこれから先のことを考えたその時に生まれてくるものだ。
 悪魔たちには寿命がない。
 どうやって生まれてきて、死んで逝くのかは螢には分からないことであり、また悪魔たちも知らないらしい。
 そのため、この恐怖がこの先も続くというのは悪魔たちにとって耐え難い現実として迫ってくるものらしい。
 大きく震えている悪魔の心を感じ、螢は穏やかな眼差しで見つめる。
「おまえを殺せばすむ話だ!」
 悪魔は悲鳴のように叫んだ。
 だがその台詞に、螢は哀れみを深くする。
「どうやって?私は死んだことがないのだよ。もう何年も」
 そっと両手を広げて、螢は己を示した。
「ずっとこの姿で生きている、おまえたちを喰いながら」
 この悪魔には感じられることだろう。
 螢の言っていることが事実であることが。
 精神は静寂をたたえ、一つのよどみもないのだから。
「化け物!」
 抱いている恐怖が肥大化したらしい。悪魔はそう声を荒らげては後ろに下がろうとした。だが身体はぎこちなく、とてもではないが逃げられるような状態ではない。
 初めて目の前にした敵に、どうして良いのか判断も出来ないのだろう。
「この恐れを消せるのは私だけだ」
 怯える悪魔に、螢はそう囁いた。
「苦痛も退屈もない世界を、私はおまえに与えることが出来る。おまえを恐れから解放してやることが出来る」
「浅ましく貪り喰らうだけだろう!」
 喰らわれるという現実が、悪魔を押し潰そうとしている。
 人を狂わせ、壊し、殺してしまったというのに。悪魔はこんな他愛もない台詞に震え上がっているのだ。
 なんて脆弱な存在だろう。
「だがおまえが選ぶ道はそれしかない。どこに逃げたとしても、私はおまえを追うからだ」
 地の果てまで。
 そう螢は告げた。
 実際悪魔一匹のためにそれほど追跡はしないだろう。
 逃がしたことがないので、それが現実になった場合のことは想像の域から出ないことだが。
 その脅しは覿面だった。
 悪魔は顔色を失って、その場にすとんと座り込んだ。立っていられなくなったのだろう。
「それならば墜ちてくれば良い。自ら墜ちてくるのであればおまえは幸いを味わうことが出来る」
「嘘だ」
 涙を滲ませ、悪魔は嗚咽を零しながら言った。子どものような様に螢は笑みを深くする。
「嘘ではない」
「私に甘言を流し込むか」
 ぼろぼろと雫を落とし、悪魔は苦しそうに嘆く。今までは自分がそうして人間を墜としてきたというのに、最期にはこうして言葉を使って殺されていく。それが口惜しいのだろう。
「事実だ」
 虚言ではない。
 螢は悪魔の前で膝をついた。
 化粧は涙と恐怖で崩れ、目元には黒く滲んでいた。けれど見上げてくる瞳の揺らぎが魅力的だった。
「おいで」
 だだをこねる赤子を宥めるように螢は悪魔に手を伸ばす。
 すると悪魔はびくりと肩を震わせた。その手がさっき己を喰らおうとしたことを思い出したのだろう。
 けれど振り払われるより先に頬を濡らす涙を拭うと、唇は「嫌だ」と紡いだ。
「恐れなどない、恐怖などない」
 悪魔は己に言い聞かせているが、身体は震えたままだ。
 乗り越えることなど出来はしない。
「良い子だ。堪えることはない、泣きなさい」
 睨み付ける瞳に、螢はそう促した。
「大丈夫。もう傷付くことはない」
 そう言って髪を梳く。綺麗に手入れされているためか、脱色しているのに艶のある髪だった。
 この手を払えずにいること自体、自分が墜ちようとしていることなのだと悪魔は気が付かない。
「私を消せば、この人間は死ぬぞ…!」
 悪魔は反撃とばかりにそう言い放つ。
「この人間は自分のやったことに耐えられない!もうぼろぼろになっている!だから、きっと死ぬぞ!!」
 愛実は、悪魔が何をしたのか知っているだろう。
 この身体を使って、周囲の人間にどんな甘言を使ったのか。それによって人々がどうなったのか。
 おそらく深く傷付いたはずだ。
 悪魔のせいとは言えども、自分の唇がその言葉を吐いたのだから。
 大切な人が死んでいく様に、愛実の精神はどれだけ壊されたか。
 このまま身を巣くっていた悪魔が消え去って意識を取り戻しても、地獄が待っているだけかも知れない。
 だが螢は悪魔から手を離さなかった。
 以前なら、日本に戻ってくる前ならば、ここで迷ったことだろう。
 人を救えないかも知れない、ということは螢にとって重大な問題だったからだ。
 そして悪魔を祓った後、取り憑かれていた人のケアも考慮しなければならなかった。
 けれど今は違う。
 この仕事は、取り憑かれていた人間の今後など考える必要はない。
 それは螢の仕事ではない。
「それはおまえがこの苦しみを抱いて生き続けることよりも、大切なことか?この人間の命より、おまえは幸いが欲しくはないか?」
「幸いなんて…」
「私は与えることが出来る。今、ここで、おまえに最果てのない幸いを」
 自分の声が淡く、そして柔らかに溶けていくのを感じた。
 それは悪魔たちを誘い出す声だ。
 悪魔が人間の心を壊していくのであれば、螢は悪魔たちを壊してしまう。
 促すままに動かしてしまう。
「嘘だ…偽りだ」
 信じたくないと悪魔は言いたげだった。
 けれどその表情は、裏返せば信じてしまいそうになっているということだ。
「偽りなど、ない」
 ありはしないのだよ。と螢は頬を撫でる。
「おまえならば、偽りを感じ取ることが出来るだろう。人の心を読むのだから」
「分かるものか…!」
 悪魔は螢の心が穏和なものに満たされているのを感じているはずだ。
 そしてその様があまりにも慈愛に溢れていることも。
 螢自身にも、この心境の激変ぶりは分からない。
 悪魔を喰らおうと決めた途端、この心は慈愛に満ち、悪魔をまるで愛し子のように見てしまうのだ。
「墜ちておいで」
 間近でそう告げると、悪魔はもう言葉を紡ぐことが出来ないようだった。
 双眸は主人を見る犬のようにひたむきで、視線は外されることがない。
「私が救ってやろう」
 そう言って、螢は悪魔に口付けた。
 唇の感触などより、そこから流れ込んでくる甘さに全身が歓喜する。
 腹の奥が、身体の芯が一斉にその甘さに飛びついては吸収していく。
 指先まで熱が駆けめぐっては鼓動が忙しなく鳴り続ける。
 瞳を閉じると蜜の海に自分が融解して、一つになっていくような気がした。
 濃厚な、甘すぎる魂。
 この味を抱き締めたいような衝動にかられるが、まぶたを上げると愛実の泣き顔が見えて来て、微かな冷静さを取り戻す。
 不動であったのなら手を伸ばした。
 そうすれば抱き返してくれるから。
 けれどこの悪魔は螢にすがりついてくることだろう。この魂もまた幸いを感じては溺れてしまっているから。
 決して螢をすくい上げてはくれない。
 その事実が、螢の手を止めた。
 とめどなく溢れては流れていく愛実の涙に、一抹の憐憫が沸いてくる。
 この人は正気に戻った後、どうするだろうか。
 自殺した二人や兄に対して、どんなことを思うだろうか。
 甘さに酔いしれれば良いのに、そんなことを考えてしまい、ないはずの苦みまで覚えてしまった。
 そんなことは知ったことではないと突き放したばかりだというのに。
 無駄な思考を未だに持ち続けていることに、自嘲が浮かんできた。



 帰宅すると螢はどさりとソファに腰を下ろした。
 身体中に甘さがまとわりついてきている。
 自分の呼吸すらとろけているようで、こうして座っているのに指先から蜜になってしまいそうだ。
 不動は満足そうな螢を放置して、冷蔵庫を開いてがさがさ探っている。晩ご飯の用意をしようとしているのだろう。
「俺晩飯いらないから」
 螢はそう言って深く息を吐いた。
 あの悪魔は味が良く、また十分な力を持っていた。全てを喰らい、螢は食欲など抱ける状態ではなかった。
 もともと食事など食べなくても生きていけるのだ。
 必要ではない物を、趣味のように摂取していただけだ。
 髪を掻き上げ、喰らった悪魔の言った台詞を思い出す。
「悪魔を広める神父か……」
 自らの意志でやっているとすれば、神に仕えているとは決して言えない所行だ。
 何の目的で行っているのか知らないが、そこに利益はあるのだろうか。
 悪魔を人間に取り憑かせることで、人間が苦しむ様を見たい。そんな理由しか思いつかない。
 サディストの仕業と思えば良いのだろうか。
「神父らしくない」
 そう呟いて、螢は苦笑した。
 自分だってかつて似たようなことをしていた。
 悪魔を喰らうために、そんなフリをしていたのだ。
 らしくなかったと言うのなら、螢ほど神父が似合わない者はいない。
 神を信仰しておらず、また人を救いたいなどという慈悲もなかった。むしろ自分が救われたいとすら思っていたのだ。
 欲満たすためだけに甘言を操る者。
 悪魔と大差ない。
 逃げてきた場所を思い出す、螢は気分が重く沈んでいくのを感じた。
 胸を圧迫され、首を締められる。
「似非だろう」
 不動はやや乱暴に冷蔵庫の扉を閉めた。
 そして螢の元にやってくる。
 静かな眼差しに見下ろされると、まとわりついてくる記憶を全て投げ出したい気分になる。
 何も持っていなくても、この男は腕に引き寄せてくれる気がするのだ。
 死を知らないこの命を持っているというだけで。
 ずっと側にいてくれそうだ。
 時から取り残された生き物として肩を寄せ合うために。
「何もいらないのか」
「…少し、口直し」
 そう言って螢は不動を手招いた。
 とろとろした甘さは美味しいが、多すぎるとさすがに胃がもたれるような感覚になる。
 不動は近寄っては腰を屈めて顔を寄せてくる。
 何が欲しいのか、よく理解してくれている。
「あれは甘すぎた」
 不動の味はすっきりとしている。清水のように透き通り、そのくせ精神の奥まで染み込んでくるほんのりとした甘さがある。
 口付けるとすぅと身体が軽くなるような気がした。
 清らかさに洗われていくようで、心地がよい。
 舌を入れようかと思っていると、不動の手が後頭部に回された。
 触れるだけで終わらなくていいという意思表示だ。
 促され、唇を開く。
 流れ込んでくる不動に、螢は目を閉じた。
 この男をこうして喰らっている。けれど本当は、不動に喰われてしまいたいような気がする。そんな不思議なことを思いながら。







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