戯弄   5




 愛実からメールで指定されていた駅前は、やはり女子大生と思われる女性が多かった。どれも似たような服装に髪型をしている。
 けれど愛実を捜すのに時間はかからなかった。
 白いふわりとしたスカートをはいて、壁を背にして立っている彼女からは、甘さが漂ってくる。
 触れれば落ちる、熟した果実のような匂いだ。
 蠱惑的だが、香しさに何か含みがあるのを感じ取らずにいられない。
 現にそれは食い物としては異常なものだ。
 近寄ると愛実は不動に気が付いた。きっと不動を気に入っているから、この気配を探すことに神経が敏感になっているのだろう。
 愛実は不動を見ると淡く微笑んだ。優しげだが力の入っていない笑い方は、弱っているのだろうと思わせるものだ。
 だが螢からしてみればわくわくとしている雰囲気が見えるので、その微笑み方もわざとらしさ以外の何も感じられない。
「友達は?」
 愛実のことを気にして、依頼までしてきた天川の姿が見えない。
 そのことを螢が問いかけると、ここにきてようやく視線があった。
「内緒です。あの子心配性だから」
 そう少し困ったように言った。
 心配性にさせたのは、他の誰でもない愛実自身だろうに。
「お祓いしてくれるんですよね?」
 不動を上目遣いで見ている。
 救いを求めているようにも見えるが、興味を惹かれているという気持ちを表しているような気がした。
 熱っぽい視線とでも言うのだろうか。
「人が多い場所でするような話じゃないから。移動しようか」
 不動は見つめられても何も言わない。
 なので螢がそう促した。
「どこに?」
「部屋かな」
 仕事が胡散臭いため、悪魔に憑かれている人間の自宅が利用出来ない場合は仕事用に借りている部屋に連れていく。
 他にもその部屋を利用している同業者がいるため、事前に部屋が空いているかどうかを確かめる必要があった。
 今日は夜まで空いているので、大丈夫だろう。
 愛実は友人を自分の側に引き込んでいるので、愛実の自宅を利用しようという考えは初めからなかった。
 家族がいた場合、異変を察知して止めようとする可能性があるからだ。
 人間に暴れられると、それを抑えるのに時間がかかる。
「おうちですか?」
「いえ、仕事場ですよ」
 愛実は不動の自宅に行けるとでも思ったのか、一瞬喜色を見せた。
 けれど自分たちの家でわざわざ悪魔祓いなんてしたくないのが、二人の本音だ。
 家にいる時くらいは悪魔も霊体も感じずに過ごしたい。
「あの…お願いが」
 人気の少ない方向に向かう。
 車はここから少し離れた場所に止めてあるのだ。駅前は人が多く、車を止められるようなスペースもない。
 それに駐車禁止の取り締まりをくらうかも知れない。
 出来るだけ人通りの少ない、地味なところに止めて危険を回避しようとしたのだ。
 なので三人で歩いていると愛実が言いづらそうに口を開いた。
「笹渕さんと二人だけにしてもらえませんか?」
 先ほど不動に向けたものとよく似た、上目遣いで愛実が言う。ねだっているような口調に、邪険にされているという意味合いは薄れていく。だが言っていることはそのままだ。
 おまえは邪魔だ。そう愛実は螢を排除しようとしている。
「なんで?」
 愛実の意図を知りながら、螢はきょとんとした顔で問いかける。
 そんなことを言われる理由が分からないという様子を見せては、心の中で笑った。
 今すぐにでも不動が欲しいのかと。
「だって、悪霊に憑かれた原因とか、思い当たる節とか訊かれるんですよね?そんな話、誰にも知って欲しくないし。出来れば笹渕さん一人に」
「秘密を知られる相手は少なければ少ないほどいいってこと?」
 はい、と愛実は頷いた。
 不安そうな顔を見せるが、螢はにこやかな笑みを浮かべる。
「じゃあ俺だけが仕事をすることになるね。今日は不動じゃなくて、俺の専門だから」
 不動は悪魔の相手は基本的にしない。
 出来ないこともないだろうが、螢が悪魔を喰うので、大抵譲ってくれるのだ。
「え、でも」
 螢は助手としか聞いていない愛実は、それに驚いたようだった。
「仕事内容によって役割が変わるんだよ。君の場合は俺。残念だったね」
 優しげに笑みを浮かべながら、螢はそう告げる。
 やや毒が混じっているのは、不動に関与しようとするその姿勢が癇に障るからだ。
 離されるのを頑なに嫌がるほど、どうやら不動の傍らは居心地が良いらしい。こんな時実感してしまう。
「俺と二人でお祓いする?」
「いえ、笹渕さんも一緒に」
 ここで笹渕との縁を切られるわけにはいかない。そう思ったのだろう、愛実は食いついてきた。
 そして緩く巻いている栗色の髪をそっと手で触った。
 どう攻めるか考えているのかも知れない。
「私、笹渕さんといると安心出来る気がするんです。初めて会った時から。どうしてなのか分からないんですけど」
 私を助けてくれるのはこの人だろうって気がしたんです。そう愛実は口にする。
 その気持ちは螢もかつて感じた。
 この男であるのなら、独りにしないでいてくれる。そう思って手を伸ばした。
 だが螢は自分と同じ生き物を増やすつもりはない。まして悪魔に不動を落とされるなんて冗談ではない。
「気のせいですね」
「そんなこと」
 ばっさりと斬り捨てる螢に、愛実は傷付いた顔をして見せた。
「そんなことありません!私!」
 螢に酷いことを言われ、不動の手を取った。そしてすがろうとしたのだろう。
 だが不動は掴まれた手を冷静な見下ろしただけで、やはり黙ったままだ。
 三人とも足を止め、奇妙な空気が流れた。
 涙をじわりと浮かべては不動に助けを求める愛実に、螢は溜息をついた。
 もう茶番は止めよう。
 幸いここは使われているのかどうかもよく分からないビルと遊具がぽつりと置かれている小さな公園に挟まれている。
 人目が全くなかった。
「不動を落とそうとするのは止めてくれ」
 螢は不動を掴んでいる愛実の手首を取った。
 すると愛実はばっと螢の手を振り払い、目を見開いた。
 それまで楽しげだった愛実の気配が一変して、緊張の糸を張りつめた。
 気が付いたのだ。
 螢に掴まれた手から、自分が喰われてしまいそうになったことを。
 たった一瞬で自分が奪われていくことに気が付いたのだ。やはのこの悪魔は愚鈍じゃない。
「…何…」
 愛実の声はふわふわとした柔らかなものから、棘のついた冷たいものに変わっていた。
 螢を刺すような視線で睨み付けている。
 そう、それが正しい。螢はようやく愛実の表情と気配が一致したことに苦笑した。
「何をしたの…」
 螢に掴まれた手首をさすり、愛実は警戒を見せる。不動にすがろうとは、もうしないようだ。
「さあ、何も」
 とぼけて見せると、愛実は眉を寄せる。子犬のように助けを求めていたというのに、そんなことなかったかのような表情だ。
「嘘」
「どうして怯えているんですか?」
 螢と距離を取っている愛実に一歩近付く。すると戸惑いを色濃く見せた。
 ここで自分の存在を、悪魔であることを暴露するべきではないと思っているのかも知れない。だが、ただの人間を装って螢に近くにいることは危険だと理解しているだろう。
 どうするべきなのか迷っている。それが見ていて分かった。
「だって何かしたでしょう?」
「何もしてませんよ。貴方が人であるのなら何も感じなかったはずだ」
 そんなに甘い香りを漂わせて、螢の食指を誘う存在でなかったのなら。
 ただの人間であったのなら。
 螢は喰おうとはしなかった。人は喰わないと決めているからだ。
 けれど悪魔だから、喰い者として見ることを自分に許したものだから、その甘さに牙を立てたのだ。
「何を仰っているんですか」
 苦しげな様で愛実は言い返す。
 この人間は何者だ。なんだこれは。
 そう言いたげに愛実の雰囲気は乱れていた。
「俺はね。悪魔を喰うんです。魂だけの存在を」
 己の正体を、螢はほころんだ唇で告げる。
「だからおまえの相手は俺だ」
 愛実は螢を凝視しては、眦を上げる。
 不動が常人と少しばかり異なっていることは感じ取っただろうが、螢からは何も探れなかったのだ。それだというのに、今更こうして知らされたことに、苛立ちでも抱いているのかも知れない。
「正気ですか?」
 嘲笑するような響きで言うが、正気も何も事実であることはすでに感じ取ったはずだ。
 螢は笑顔で頷く。
「何ならもう一度貴方の手を掴みましょうか?人であるなら何も感じないはずだ」
 お互いがただの人間であるのなら。
 何の感覚も与えないはずのことだ。
 けれど愛実はそれに同意しなかった。
「笹渕さん…これは」
「不動は知ってますよ。貴方が悪魔だということは」
「悪魔だなんて酷い!」
 螢の懐柔が不可能だと感じたのだろう。愛実は不動へと救いを求め始めた。自分の側に落としてしまえば、不動を使って螢を遠ざけられると思ったのだろう。
「腹の中で笑いながら、泣き顔なんて作り出すのは悪魔ですよ」
 それが人間であっても、悪魔と呼ばれることに間違いはないだろう。
「ここからでも貴方の哄笑が聞こえてきそうだ。人をたぶらかせて苦しませるのはさぞ楽しいんだろうな」
 ずっとあの悪魔は笑っていたのだ。
 初めて会った時から、さっきまでずっと。
 なじるような口調に愛実は何かを言おうとした。だが螢はそれを手で制す。
「何も言わなくていい。引きずり出すだけだから」
 もう愛実の皮をかぶって言い訳も言わなくていい。不動に甘言を囁かなくてもいい。
 嫌というほど聞かされたのだ。
 いい加減喰わせてくれてもいいだろう。
 その香りは食欲をそそるには十分過ぎるほどなのだから。
 喋ることを厭った螢に、愛実はふっと不安の色を消して。そしてくいっと口角を上げる。
 それだけでか弱さを纏っていた女性はいなくなってしまった。
 そこにいるのは不遜な態度をとり、嘲りを隠そうともしない一つの存在。
 きらびやかな模様が描かれた爪で、肩にかかっていた髪を後ろへと払う。
 実年齢よりずっと大人びた様子だが、あるのは艶やかさなどではなく冷淡さだけだ。
「人を悪魔呼ばわりしているが、おまえだって随分と異様じゃないか」
 冷たさだけを帯びた声。それまでの口調や声色からは想像も付かないほど鋭い。
「人のふりをして紛れ込んだ化け物だ」
 真っ向から貶めてくる悪魔を螢は鼻で笑った。
 ようやく自分の言葉で喋り始めたらしい。
 馬鹿げた真似事が終わったことに、少しだけ苛立ちが収まった。



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