戯弄   4




「結論を先に言えば、貴方に何かしらが憑いているのは間違いないでしょう」
 螢が黙っているので、不動が口を開いた。
 不動には愛実が悪魔に憑かれているように見えるのだろうか。そもそも不動には悪魔というものたちはどんな風に感じられているのだろう。
 螢のように全身がそれを示してくれているのだろうか。
 訊いたことはないが、どんなものが理解するのは無理かも知れない。螢もこの感覚を教えることは出来ない。
 感覚的なものを他人が知るのは困難なことだ。
「わたし、どうすればいいんですか…?」
「こちらでどうとでもします」
 憑かれている人間が出来ることなどない。まして愛実自身の意志は眠っているような状況だ。悪魔と話をしているのに、何が出来るなんて答えられるはずがない。
 出ていってくれればそれが良いのだが、納得するはずもないだろう。
「出来るんですか?」
「可能です」
 淡々と答える不動に、天川が疑わしい顔をちらりと見せる。
「どうやって祓うんですか?祝詞とか、お札とか使うんですか?」
 よく訊かれる質問に、螢は視線を二人へと戻した。
「何も使いませんよ。引きずり出すだけです」
 螢はそう答え、柔らかく微笑んだ。
 安心させるために作った笑みだ。
 札、呪文、清水。そういう分かり易い道具があった方が依頼者が落ち着くのは分かっている。だが必要もないもをわざわざ用意して、その上道具に関する説明も考えなくてはならないなんて。想像しただけでうんざりする。
 現実はとても簡単で、言葉で誘い出して喰ってしまうだけなのだ。
「どうやって?」
「言葉です」
 呪文のようなものだと天川は思ったのかも知れない。腑に落ちたような様子を見せる。
 こうして会話しているのと何ら変わりがない、通常の会話のようなものだと知られれば、また追求が来ることだろう。
「わたしの中に…どんなものがいるんですか…?とても怖いものなんでしょう?」
「そうですね。怖いと言えば怖いのかも知れない」
 愛実は泣き出しそうな顔で自分の肩を抱いた。
 怯えているふりをしているが、悲愴さがかけらも見えない。だが隣の天川は同じように沈み込んでいる。
「助けて下さい…とても、恐ろしいです」
 何が?
 喉元までそんな問いが込み上げてくる。
 まるで笑い声が聞こえてくるような楽しそうな気配をまき散らしているというのに。一体何が恐ろしいというのだろう。
「大丈夫ですよ」
 螢はにっこりと微笑んでそう告げた。
 そんなに笑わなくても大丈夫。安全だと思っているのにおまえだけだ。
 すぐに食らいついて貪りつくしてやる。
 悪魔が泣き顔を作りながら楽しんでいるのなら、螢は笑顔を見せながら舌なめずりをしていた。
「本当に?」
「ええ」
 掌を知らせようとしないやりとりに、不動だけが小さく息を付いていた。
 その動きに愛実が気付き、視線を螢から不動へと移した。そしてじっと見つめてる。
「早急に対処したいところですが、この後にも講義があるそうですね」
「でもサボっても」
「いえ、今のところ落ち着いているようですから。今日中に手を打たなくとも大丈夫ですよ」
 愛実の関心は不動に移った。
 悪魔は一度気に入った相手はなかなか逃そうとしない。この後も何かと不動に接触を試みてくることだろう。
 そうなれば他の人間に影響を及ぼす可能性は低い。
 それに、螢がここで行動に出なかったのは天川の存在があったからだ。
 天川は愛実に感情移入しすぎている。悪魔の近くにいたのだ。心惹き付けられても仕方がない。
 もしこの後悪魔を祓うと言えば天川は必ずついて来るだろう。そしてそこで今の愛実は悪魔に意識を乗っ取られていると言えば、信じられないと叫ぶはずだ。
 天川からして今の愛実におかしい点などない。だからこうして親身になっている。それが偽りだと言われて、受け入れられるだろうか。
 おそらく出来ない。悪魔は一度人の心を掴むと離しはしないのだから。きっと螢の妨害になる。
 仕事をする時には、天川の存在は邪魔でしかない。
 依頼人が邪魔になるとは、皮肉なことだ。
「次はいつお時間を頂けるでしょうか」
「それはまだわかりません…」
 螢に訊かれ、愛実は戸惑っているようだ。
 大学生とは言え、日々は忙しいのだろうか。
「お電話かメールでお知らせしてもいいですか?」
「構いませんよ。こちらにお願いします」
 螢は新しく刷り直した名刺を取り出す。
 テーブルの上にそっと置くと、愛実が言いづらそうに「あの…」と声を上げる。
「笹渕さんの携帯の方が」
 そう言われ、螢は納得してしまった。
 予定が決まっていないというより、不動と連絡を取りたいからここで次の予定を言わないのか。
 確かに携帯電話でやりとりをすれば、簡単に近づける。
「不安なこととかあれば質問とかしたいし…」
 どんな質問になるのか興味はあったが、螢は苦笑を浮かべた。
 もくろみとしては悪くないが、不動相手には通じない。
「あいにく笹渕は携帯電話を持ちませんので」
 愛実だけでなく天川まで「え」と驚いたようだった。
 携帯電話は一人に一台の時代。とどこかで目にしたが、どうやらそれは本当のことらしい。
 持っていて当然という認識が広まっているほどに。
「あの、持たないんですか?」
「持ちません」
 不動は愛実に訊かれ、短く答えている。
 迷う素振りもないことから、持つ意志がかけらもないことは明白だ。
 けれど愛実はそこで黙らなかった。
「持ちましょうよ」
 軽く、そう誘ったのだ。
 不安を見せていた時とは少し異なり、微かに首を傾げて柔らかく投げかける。
 その声と仕草に螢はちりっと焦げるような不快感を感じた。
 この悪魔は本気で不動を誘いにかけているのだ。自分の意のままに操り、揺さぶり、おもちゃにしようと考えている。
「その方が便利だし。わたしも持っていて欲しいです」
 お願いです。と言いながら、愛実は声に甘さを滲ませた。
 こうして何人の人間を絡め取って、地獄に叩き付けてきたのだろう。
「何故」
 不動は誘いにはのらなかった。無表情のまま、微動だにしない。
「貴方とご連絡を取りたいんです」
「螢が持っています」
「でも…わたしは笹渕さんに持っていて欲しいんです」
 螢のことは完全に意識から追い出している。
「持ちましょうよ。苦手だと思ってても、持ってると便利ですよ。みんな持ってるし!」
 愛実のお願いに動いたのは、天川の方だった。
 前向きな姿勢で勧誘している。自分が愛実に踊らせているなんて思いもせずに。
「すぐに出来ますよ?なんなら今からでも」
「結構です」
 これから携帯電話の契約に連行しそうな天川を、不動はきっぱりと断った。
「必要ない」
 そう言って不動は立ち上がる。もう二人と話すことはないと判断したのだろう。
 無駄な会話をするような人間ではない。仕事でないのなら他人と顔を合わせるのも面倒だと感じているのだ。
「そんな」
 誘ったのに無下に断れたのがショックだったようだ。愛実は酷く傷付いた顔を見せる。
 だが不動はそれを見ることもない。
「空いている日を、螢に連絡して下さい」
 それだけを言い残すと頭を一度下げて、店から出ていってしまう。礼を欠いた態度ではあるが、これほどまでに積極的に関わりを持って来ようとする人間には、初めからきついほど拒絶を示して置いた方が後がなくて良い。
「ごめんなさい。気分を悪くさせてしまいました…」
 愛実は泣き出しそうな顔でそう謝る。それに天川は憤慨したのだろう。不動が出ていった店のドアを睨み付けている。
 愛実の分まで怒りを露わにしているかのようだ。
「いえ、こちらこそ失礼致しました」
 螢はそう謝罪を口にしたが、不動の言動は最良だと思っていた。
 それに悪魔に誘われるような人間であるのなら、こんな仕事はしていない。
 だが悪魔にとっては予想外だったはずだ。
 その戸惑いを眺めながら、螢もまた席を立った。



 荒い呼吸を整えようと深く息を吐いた。
 上からのしかかってくる身体が熱い。
 二人の鼓動は同じくらい早くて、しっとりとした肌が重なり合えば溶けてしまいそうだった。
 依頼人に会った後、二人は自宅にそのまま戻った。
 そして螢は玄関に一歩入った途端、不動の唇を奪ったのだ。
 愛実が纏っていた危ういまでの甘い香りが、後を引きずっていた。
 喰いたいのに目の前でお預けをくらい続けたのだ。
 愛実には喰いかかれず、不動には人目があって我慢しなければならなかった。抑えつけていた欲求は部屋に戻ると爆発してしまった。
 舌を執拗に絡めると不動から引き剥がされ、寝室へと引っ張られた。止められないところまで来ているを感じ取ったのだろう。
 ベッドの上に上がれば、服を脱ぐのももどかしく身体を重ねた。
 不動に身体を貫かれて、交われば愛実が纏っていた蠱惑的な香りが消えていく。熟れ崩れるような甘さは、清廉な不動の味に忘れ去られていった。
 いつの間にか馴染んでしまっていた味が心地よく、互いが精を吐き出した後もまだ離れられずにいた。
 繋がったままで、熱を帯びた吐息だけが寝室に満ちていた。
 唐突に欲情する螢に、よく付き合ってくれるものだ。感心してそっと額に触れる。滲んでいた汗を拭うと不動が顔を上げた。多少欲情している瞳だ。
 それでもぎらついていないところが、不動らしい。
 もう一度交わろうかどうしようかと思っているところ、携帯が震える無粋な音がした。
 どうやらベッドの上に放り投げた上着の中で震えているらしい。
 床に置いていればガタガタと騒音になって、さぞ不快だっただろう。
 セックス中の着信なんて、普段ならば無視していた。だがこの時だけは予感がしたのだ。
 きっと、あの悪魔だろうと。
 上着はベッドからずり落ちそうになっていた。手を伸ばすと代わりに不動が取ってくれた。
 中に入ってるものが少し動き、螢の中を微かに刺激する。息を飲むと不動の存在をより強く感じてしまった。
 銀色の携帯を開くと、知らないアドレスからメールが届いていた。
 見るとやはり愛実からだ。
 明後日、大学近くの駅で待ち合わせをしたい。不動にそう伝えて欲しい。自分の中に何かがいると思うと恐ろしい。早く助けて欲しい。
 そう書かれてあった。
 螢は一通りメールを読むと、それを不動へと見せた。瞳孔が左右に動くのをじっと見つめていると、セックスの最中だとは思えない冷静さが感じられた。
 瞳孔が動きが止まり、視線を逸らされたので螢は携帯電話を閉じて床に置いた。ベッドにはいらない機械だ。
「……あの悪魔、不動を欲しがってた」
 自分のものだと言ってしまいたかった。これはおまえが手を伸ばして良いものではないと。
 だが言えないもどかしさが螢の機嫌を斜めにしていったのだ。
「ずっと見つめていた。きっと誘ってたんだろう」
「そうか」
「感じてた?」
「何も」
 誘われていること自体感じなければ、悪魔に遊ばれることもない。そのことに少しほっとした。
「天川って女は随分簡単に操られていた。甘く誘って、自分の良いように動かして、心揺さぶって遊ぶんだ」
 愛実が虹色と言えば、モノクロパンダもカラフルに見えるだろう。
「きっと悪魔が憑いている本体の意識も時々起こしては、状態の異常に恐怖させて楽しんでる。壊れていくのが面白いんだろうさ」
 本体が完全に壊れて面白みがなくなれば、捨ててしまえばいい。悪魔たちはまた別の人間を見付けて遊べば良いだけのことだ。
「多分周囲の人間が自殺したのも、そうしろって誘ったんだろ。自らの手を汚すことなく、相手が自滅するのを眺めている」
 自分の手を一切汚さないたちの悪さには、毎度のことながら閉口してしまう。
「とても悪魔らしいやり方だ。知能があって遊び好き。自分は安全圏にいて、ただ囁いているだけ」
 人間を掻き乱すだけ掻き乱す。
 弱さを、不安定さを見出してはそこを付いてくる。そして蜜のように見せかけた毒を流し込んでは破壊していく。
「充がお手上げなだけあって。力はある」
 濃厚な甘さも。
 しかし目の前にある雪解け水のような清らかさを持つ味の方が、惹かれる。足をもう一度絡めようかと思っていると、不動が口を開いた。
「喰えるか?」
 力があると聞いて、螢が喰いきれるのかと思ったらしい。
 もしくは、力が強すぎて喰えないかも知れないと危惧したのか。
「変なこと訊かないでくれ」
 螢はその言葉を笑い飛ばす。
 すると不動に口付けられた。
 触れるだけのものだったが、もう終わらせるつもりなら口付けるより先に繋がっているものを引き抜くだろう。
「もう一回?」
 尋ねると首筋に噛みつかれた。
 軽い刺激は快楽を思い出させる。ねだるようにか細い声を漏らすと、不動の腰がゆっくりと動いた。
 喰えない魂なんてない。
 そう答えられなかった弱さが、螢の中にわだかまった。



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