戯弄   3




 依頼人と悪魔を宿しているらしい女子大生が通っている大学の近くにあるカフェにいた。
 一番奥の席で、不動と並んで座り、目の前の壁を眺める。
 コーヒーのポスターがそこに貼られてあり。湯気が実に立体的だった。
 店内にいるのは若い女性ばかりで、男二人だけというのも居心地はあまり良くない。
 依頼人たちは講義が終わり次第ここに来ると言っていた。
 出来るだけ早く来て欲しいというのが心情だった。ここにはあんこ関係のメニューもなく、コーヒーという面白みも何もないものを頼んでしまったのだ。
 時間の経過は遅い。
「不動は大学出た?」
 同居してから三年が立つが、不動は自分のことを語らない。螢が問いかけるまで、自らのことを教えてはくれないので、知らないことがいっぱいある。
 なので気になればそのつど尋ねる。そうしてきて嫌な顔をされたことがないので、自分のことを知られたくないというわけではないのだろう。
「出た」
「どんな?」
「四年制」
 大学の多くは二年制と四年制とに分けられるらしいので、答えとしては間違っていない。けれど正確さに欠ける。
  「学部は?」
「社会」
「へぇ」
 社会学部、と心の中で呟いても、螢にはどんなことをしている学部なのかさっぱり分からない。
 そもそも螢は大学どころか学校というものに縁がないのだ。
「どんなこと勉強してた?」
「あまり日常に役立ちそうもないことだな」
「なんだそりゃ」
 大学の勉強は日常に関係ないものなのか。と思った時、カフェのドアについていた鈴がカランと鳴った。
 途端に感じた異様な気配に、螢は目を見開き、不動はコーヒーを持とうとしていた手を止めた。
 濃厚な、甘すぎるほどの匂い。
 熟れた果実の誘う芳香は間違いなく悪魔のもの、しかもはっきりとした力を所持しているものだ。
 日本に来てから、これほどの香りを漂わせる悪魔に会ったことはなかった。
 どくりどくりと心臓が高鳴っては、すぐさまその悪魔の首を捕まえろと囁いてくる。獲物を目の前にした獣のように貪欲な気持ちが頭をもたげたのだ。
 充がヤバイと言ったのも頷ける。
 振り返るとそこにはショートカットの女性と、栗色の髪を肩で緩く巻いた女性がいた。
 食い物は、栗色の髪をした方だ。
 なかなかに可愛らしい顔をしている。片方の女性よりも小柄で、ふわふわとしたスカートをはいている様はどこか人形を思い起こさせる。
 実際、悪魔に身体を支配された人形のようなものだろう。
 螢は立ち上がり、二人に向けて笑みを浮かべる。それだけで自分たちが仕事を請け負う人間なのだと気付いて貰えたようだった。
 人に好印象を持たせるための笑みの作り方ではなく、自然に嬉々とした笑い方になってしまったのは仕方がないことだろう。
 女性二人がゆっくりとこちら歩いてくる。悪魔が付いている方は何気ない様子で螢を見てくるが、実のところ値踏みするような視線になっていた。気付かれないように密やかな態度にしているようだが、悪魔の感情や思考を感じるのに敏感な螢にはよく分かった。
「貴方が」
 ショートカットの女性が螢にそう問いかけた。きっと依頼人だろう。
「正しくはこちらです」
 螢が隣を見ると、高い身長の不動が無言で立ち上がり頭を下げた。
「笹渕不動です。これは助手の螢」
 充から名前は聞いているのだろう。女性は軽く頷いた。
「私が依頼をしました天川で。祓って欲しいのはこの子です」
 はっきりとした喋り方の女性は、悪魔を見て口を開くように促していた。
「平山愛実です」
 不安そうに、愛実は名乗った。声はふわふわとした高い声だった。
 だが伝わってくる気配からは、どこか楽しみ始めている感があった。きっと常にはない刺激に悪魔が興味を示しているのだろう。
 二人は向かいに腰を下ろす。不動の前には天川が座り、螢の前には愛実がきたが、その視線は不動に向けられた。
 おそらく不動の気配が気になるのだろう。
 人とは異なる、特殊な空気を纏っている。人間と大きく懸け離れた感はないが、異質であることは悪魔も感じているはずだ。
 食おうとしなければ螢は何の変哲もない、ただの人間と変わりがない気配しか持っていないのでその行為は無理もない。
「単刀直入にお訊きしますが、この子には悪霊が憑いているんでしょうか」
 尋ねながらも、天川は確信している目だった。
 睨み付けるようにして不動を見ているところからして、気の強い女なのかもしれない。
「そういうことが、貴方たちには分かるんですよね?」
 分からないのであれば、充から紹介された意味がないだろう。
 憑いているというより巣くっている、もしくは乗っ取っているという方が正しいのだが、見たところ愛実は大人しくしている。異変をそうそう頻繁に出してはいないのだろう。
「そうですね。愛実さんが良くない状況だというのは感じられます」
「祓えるんですよね」
 天川は愛実に悪霊が取り憑いていると信じ切ってしまったらしい。
 すでにお祓いへと気持ちが切り替わっている。
 行動的なのは嫌いではないが、話をとんとんと進めすぎだ。
「まずはお話を聞かせて下さい。どうするかはそれからです」
 見たところ悪魔が宿っている。螢が単純な悪魔を食うだけならば、今すぐ愛実に手を伸ばせば事は済む。だが仕事として請け負った以上相手の話を聞いて状況を把握して、穏便にいくように手を打つくらいの義務はあるだろう。
「愛実」
 それまでは天川が喋り続けていたが、愛実の身に起こったことだ。本人しか正確なことを把握しているものはいない。
 なので天川は愛実に対して説明するように求めていた。だが螢はそれを生ぬるい気持ちで眺めた。
 自分がどうやってその身体に巣くい、周囲の人間を落としたのか語るというのか。
「初めは…友達が亡くなったんです。彼氏が浮気してるんじゃないかってずっと悩んでたみたいで、相談にものってたんですけど」
 愛実は俯いて話し始めた。頼りない様子が嫌味ではないように演出されている。人にどう見られるのかを考えた上でそうしているのだろう。
「どんどん暗く塞いでいっちゃって…」
「実際彼氏は浮気してた?」
「分かりません。でもあの子の勘違いじゃなかってくらい仲は良かったです」
 声の調子は重いというのに、愛実からは弾むような空気が漂ってくる。濃い甘みにその様子は、螢を強く誘ってくる。話なんか聞きたくない。今すぐ引きずり出したい。
「浮気って思った理由もすごく曖昧で。気のせいじゃないのって宥めてたんですけど。思い詰めて電車に…」
「飛び込んだの?」
「……はい」
 衝動的だったのか、計画的だったのか。
 どちらにせよ、相談にのっていたであろう愛実がそれを促していたのは間違いないだろうな。と螢は淡々と思った。
 現に愛実からは自殺をした子のの話が出ても悲しむ気配が全くない。それどころかいっそう面白がっている雰囲気だ。
「その後、彼氏の人も首を吊って。彼女があんな形で亡くなってすごくショックだったんだと思います」
「その二つは君に関係があると思った?」
 痴情のもつれ。友達である愛実には関係がない。そう思っても違和感のないことだ。
 実際は悪魔が関与していたとしても、恋人同士のいざこざがあった。ということで納められるものではないか。
「あたしだってそれだけなら、愛実と関係あるなんて思いませんでした。でもこの子のお兄さんが大きな事故に遭って、その前も飼い犬がおかしな死に方をしてるんです」
「おかしな?」
「餌を食べなくなって、始終怯えた声できゃんきゃん鳴くんです。そして最期には散歩中に自分で川に落ちてそのまま」
 愛実は話しながら瞳に涙を浮かべた。きっと大切に飼っていた可愛い愛犬、という記憶があったのだろう。それを悪魔が読みとって、そうして目を潤ませている。
 天川は可哀想だというように肩に手を置いて、顔をのぞき込んでいる。
 獣は目に見えないものに関して、人間よりずっと敏感だ。
 愛実の中にいるものに恐怖していたことだろう。
 そして最期は、誘われるがままに川に身を投げた。
 人間ですら容易に動かす声は、犬など歩くより簡単に支配しただろう。
「おかしいじゃないですか、そんな短期間に。だから悪霊でも憑いているんじゃないかって。だから一度霊能力者に見て貰おうって。気のせいならそれで良かったんです」
 目尻を指で拭っている愛実の代わりに、天川がそう説明する。
「お兄さんの具合は?」
「意識は戻りました。でも少し混乱してるみたいです。事故の直前の記憶とかなくて…。兄はいつも安全運転だったのに、対向車にぶつかって事故を起こしていたんです。そんなの信じられない……」
 愛実は語りながら、声を震わせた。拭ったはずの涙がまた滲んできている。
 見た限り、不幸が続いている可哀想な女性だろう。
 だが螢は白々しさしか感じられず、冷えたコーヒーに口を付ける。
「この子を助けて上げて下さい。時々意識を失ったりして、すごく危険なんです」
 天川はあまり反応の良くない螢と不動に焦れたように言った。
「気絶ですか?」
「たまにふっと黙り込んだり、動かなくなったり。かと思ったら突然泣き出したりするんです。そしてあたしに助けてってすがってきて」
 それは愛実本人の意識が浮上してきたのだろう。
 悪魔に支配されているとはいえ、時折は自分が何をしているのか見えるのかも知れない。
 そして悪魔が自分の身体で何をしているのか知るのだ。それは地獄だろう。
 大切な人が死んでいくのは、傷付いていくのは、自分の中にいるものなのだと知れば泣き叫びたくもなる。
 しかし天川はそれが悪霊に取り憑かれたせいで出てきた異変だと思っているらしい。本当の愛実の姿なのだとは知らずに。
「……やっぱりわたし…おかしいんですよね」
 愛実は不安の色を強く顔に出して、不動を見上げた。
「わたしのせいで…みんな不幸になっているんですよね……そんなの」
 耐えられない。と愛実は囁くように口にした。
 濡れた瞳はすがるようにして不動に向けられ、はねつけられれば生きてゆけないとさえ言いかねない様子だった。
 自分自身を他人に預け、祈るように救いを切望する。その様は螢の胸を引っ掻く。
 すがるものは楽だ。助けを待ては良いだけなのだから。
 けれどその命を差し出された方は、重さと責任に息が出来ないほどの圧迫を感じる。そのことを彼らは知らない。
 すがる者は知らない。
 自分のことだけで精一杯だから。
 一心に願う様から、螢は目をそらした。
 その眼差しが不動ではなく自分に向けられていたら、そして愛実から面白がっている悪魔の気配がなければ。今すぐこの場から立ち去っていることだろう。
 あの視線が嫌いだ。
 すがる人の姿が嫌いだ。
 重すぎるものを絡めてくる言葉が嫌いだ。
 逃げてきた場所を思い出す。
 憂鬱を感じて、螢は軽薄なまでに明るいカフェの照明を見上げた。



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