戯弄 1 改札から階段を上って駅のホームに入る。 平日の昼間は人が少ない。 電車が入ってこなければ、向こう側で立っている人間の顔がしっかり見えることを確認して、口元を緩めた。 今日はきっと楽しい日になる。 今まで一番愉快な日だ。 そう思いながら、傍らで並んで歩いている男の腕に自らの手を絡めた。 ぎゅっと抱き寄せるようにしてすり寄ると、男は照れたように「なんだよ」と言った。 何でもないと笑って返し、高揚する気分を抱えていた。 大学をサボって今から男と出掛けるところだ。 きっと男は頭の中でこれからのことを考えている。 私とは違った光景を思い浮かべているはずだ。 それがまた面白かった。 「ここね」 電車の乗り降りになるだろう場所に立ち、そう話しかけた。 頭上には細長い屋根。その隙間から空が見えた。 清々しいとでも言えば良いのか。これから起こるであろう悲しみのことを思うと、こんな光景すら悪くない気がした。 「国北さんの乗る駅なんだって」 無邪気さを装ってそう告げると、男の顔が強張った。 この名前は出してはいけない。望ましくない名前なのだ。 けれど私にとってその名前は面白みを大きくするだけのスパイスだった。 「そう、だね」 彼氏であるこの男なら、それくらいのことは知っているだろう。 今の付き合っていることになっている彼女が乗る駅、電車など把握しているに違いない。 「会いたくないね」 声を沈ませて、囁くように言った。 会いたくてたまらない。あの女の姿がいつ現れるのか、待ち遠しい。そんな気持ちは欠片も出さずに。 「この時間なら、講義だよ」 「そっか」 彼女が取ってる講義もしっかり知っていた。 だがこの男は知らないのだ。その講義が休講になっていること。そして次の講義に出席するのに最も乗る可能性の高い電車がもうそろそろ来ることを。 「じゃあ大丈夫だね。見られると困るもんね」 困るのは男だけだ。 彼女がいるのに私の誘いに簡単にのって、こうして隠れて付き合っている。 あまりにも簡単になびいたので、つまらないとさえ思ったほどだ。 だが私の興味を引いたのはこの男ではない。この男と付き合っている女のほうだ。 彼女の嫉妬深さと意志のもろさ。そして衝動に身を任せるところが私の好みだった。きっと愉快な方向に動いてくれる。 「別れてくれないんでしょう?」 「あ、ああ」 彼女と別れて私と付き合って。そう頼んだ。頼りない、気の弱いこの男が別れ話を簡単に切り出せるなんて思ってはいない。 ただ双方に挟まれて苦悩している様は見ていて悪くなかった。 気晴らし程度にはなる。 「国北さんも、諦めて別れてくれればいいのに」 「そうだね」 「でも彼女思い詰めるタイプに見えるなぁ」 別れ話を持ち出されなくても彼氏の浮気を薄々と感づいて、彼女は悩んでいた。 そして周囲の友人に色々相談していた。一番親身になって、よく話を聞いていたのは私だった。 悪い方向へ一人で進んでいく彼女は、実に良い踊り子だった。掌で可愛く回り続けてくれるのだ。 「ちょっと怖いかも」 恐れを微かに混じらせて言うと、男は眉を寄せた。そんなことを言うな、とでも思っているのだろう。 きっと男もそんなことを感じたことがあるのだろう。 微かに吹く風に、緩く巻いた髪が乱れる。それを指で押さえて、目を伏せた。隣にいる男には憂いを帯びているように見えているだろう表情で、歌い出しそうな気持ちを抱えていた。 「そんなことないって」 「じゃあわたしの気のせいかな」 ぽつり呟きながら、気のせいであるはずがない、と心の中で確信していた。 思い詰め、感情の波が大きく、自ら破滅していく女だからこそ、彼女を選んだのだ。 遊ぶのならこれくらいの人間が良いのだと。この男はそのための手段の一つに過ぎない。 私は向こう側のホーム、特に階段を眺めていた。 そろそろ現れる頃ではないだろうか。 横顔からは察せられないだろうか、この嬉々とした視線は。 分かるはずがない。こんな鈍い男に、何も分かるはずがない。 この時間に、ここに二人で立っている理由なんて。きっと理解出来るはずがない。 いつやってくるだろう。そう待ちこがれていると、彼女の姿が階段から上がってきた。 短い髪が揺れている。姿勢は悪くないのに、最近ずっと俯いていた。 気にかかることがあるせいだろうか。 ああ。その気にかかることの真相を知ればどんな顔をしてくれるだろう。 想像しただけで心が高鳴った。 男は気が付いてない。どこまでも愚鈍な男だ。 「ねぇ」 組んでいる腕をいっそう絡めて、身体を密着させては肩に頭を寄せる。甘えているような態度に見えるだろう。実際に浮かべている笑みが嘲笑であることなんて誰も知らない。 「楽しいデートにしようね」 そう言うと男は気分を良くしたらしい。軽い口調だもちろんと言った。 だが私の視線はずっと彼女を見つめ、そしてこちらを見るように願っていた。 そして彼女は、その促しに勘づいたようにこちらを見た。 視線が合う。 間違いなく、こちらにいる二人を誰か認識している。 びくりと頭は揺れ、彼女は立ちつくした。だから微笑んであげた。 そして男に気付かれないように、小さく手を振って見せる。男は頭上を鳴きながら通った鳥なんかに目をやっていた。 呆然としている彼女の顔に、徐々に絶望の色が浮かんでくる。 浮気が決定的なものになった。しかもその相手は信用して色々と相談していた友達だ。勝ち誇ったような笑顔に打ちのめされていることだろう。 私はその絶望を見るのを楽しみに、退屈な男に付き合っていたのだ。この瞬間のために。 予想通りに心の地獄に堕ちていく彼女の姿が楽しくて仕方がない。もっと傷つけるには、苦しめるには、どうすれば良いだろう。 口付けでもしようか。そうすれば狂いだしてくれるだろうか。 狂気じみた絶望ほど面白いものはないのだから。 思案していると、電車が入ってくる音がした。 それに男は振り返る。そして自分の前、向かい側のホームに立っている彼女の姿に気が付いたようだった。 彼女の口が動いた。何かを言ったらしい。 けれど電車の稼働している大きな機械音に全ては消されている。 硬直した男の驚愕は、触れた身体がよく伝わってくる。 動揺だけが大きな男はこの状況をどうにかしようと思っているらしい。どうにもならないところまで来ているのだと、何故気付かないのか。 「あ…」 男は一言漏らした。どんな言い訳をするのか私としては聞いてみたいところだったが、その前に電車がホームに入ってきた。 彼女の目の前を通過とようとする、スピードのある電車。 ね、踏み出して。 私は唇だけでそう告げた。 心を揺らすことを知っている私の眼差しは、真っ直ぐ彼女を貫いたことだろう。 警戒音が鳴り響いているというのに、彼女は一歩白線に向かって足を踏み出した。 そしてそのまま、倒れ込むかのように彼女は身を投げ出した。 電車が通過するより、一瞬早く。 男が反応するより早く、向こう側から人の悲鳴が上がった。 飛び込んだ!轢かれた!という言葉が飛び交っている。 あのタイミングなら、確実に身体は電車に追突している。 衝撃に肉体が耐えられるはずもない。 哀れなのは近くにいた人々、ということだろう。 踏み出して。そう軽く口にしただけなのに、あっさりと命を投げ出した。感情の強い女だったということだろう。 それにしても飛び込む寸前の表情は虚ろなくせに、感情の大きさがよく伝わってきて良かった。 笑い出したい気持ちを抑えながら、怯えたふりをした。 「今の……国北さんだよね…」 驚いている声を作る。男は問いかけても立ちつくして、急停車した電車を見つめている。 そこに何が見えるというのか。死体を探したいとでも。 「死んだ…?」 生きているはずがないだろうとささら笑いながら、口ではそんなことを言う。 怯えながら、男をいたぶっているのだ。 私が見せる恐怖は男が抱いている恐怖以外の何物でもない。 「…わたしたちがいるの……見たから?」 ねぇ…と私は男の服の端を摘んだ。 そして軽く引く。すると男はびくりと肩を震わせた。 「貴方を盗られたと思って……それがショックであんなことしたの?」 事実はそれとは異なる。彼女がショックだったのは男を盗られたことだけじゃない。 信じていた人に裏切られたからだ。私が彼女を弄んだからだ。 だが男はそんなことを知らない。 「どうしよう……それってわたしたちが殺したみたいなものじゃない」 「違う!」 私の言葉に男は強く反論した。 否定しながら、心の中では自分が殺したようなものだと感じているはずだ。 そうでなければ、何を怯える。 震えを抑えるために拳を握って、視線を彷徨わせ、何故周囲を窺う。 誰かに責められるかも知れないと、思っているのだ。 「でもあの顔…!」 私は恐怖を抱いて動揺しているふりを見せた。 あの顔はなかなかに良い表情だった。そう思っているのに、まるでそれが恐ろしいものであったかのような声で告げる。 現に男にとっては恐ろしいものだったのだろう。青ざめている。 「…出よう」 男は騒ぎを無視するように階段に向かって歩き始めた。このままでは私たちが乗るはずだった電車が来るかどうかも分からない。 逃げるように早足になっている人の後ろに付き、笑い出したい衝動を堪えていた。 「俺のせいじゃない……俺のせいじゃ」 男はそう何度か呟いた。彼女が自殺した理由は自分にあると知りながら。 「……わたしたちのせいじゃないのかな」 「そうに決まっている。俺たちのせいなんかじゃ」 「なら、なんでこんなことになっちゃったのかな」 そう尋ねると、男は口を閉ざした。 目的地で通すはずだった切符は、買った駅でそのまま通すことになった。 来た道を戻る足は速度を落とさず、どこに逃走したがっているのか。 「私たちが追いつめちゃったのかな。国北さん、最近暗かったらしいし」 人づてのように言っているが、昨日も彼女の悩みを聞いていた。深刻になっている彼女を励まし、笑いを零すまでに浮上させたのは私だ。 今日、こうして突き落とすために、一度浮き上がってもらったのだ。 「だからって死ぬこと」 たかが浮気くらいで。と男は苛々しているように早口で言った。 視線は彷徨い、落ち着きがない。 「どうしよう…わたし人殺しちゃった」 「殺してない!」 通り過ぎる人がぎょっとするほどの声量で男が怒鳴る。 見られることを恐れているはずなのに、自分のことは何一つ自制出来なくなっているらしい。 これほどあからさまに怯えられると、面白くなってくる。 「みんなに責められるかな。わたしたちのせいだって」 「そんなはず」 「だってわたしたちが付き合っているとこ、知っている子だっているし。国北さんが自殺した理由だって、わたしたちのせいだって思われるかも」 私は周囲に男と付き合っているなんてばらしていない。知られてしまえば、彼女の相談役をやっていることを非難される。 なのでこの関係は秘めてきた。 だが男には言ってあるのだ。 親しい友達には自慢していると。 それを馬鹿正直に信じているのだろう。男は不安を色濃くする。 「嫌だな…そんなの」 「そんなこと言っても…」 「みんなに見捨てられたら生きてけない」 辛すぎるよ。 そう零すと、男も同意するかのように唇を噛んだ。 「明日が怖い……」 そう言って男の手を握った。 彼女が身を投げたばかりだというのに、男はすがる私を振り払おうとしない。 全く愉快だ。 嘆き悲しんで、滅び逝くしか脳のない愚かな命。 今度はどうやって遊ぼう。 そう思いながら下を向いた私の顔が笑っていることに、男はいつまでも気が付かなかった。 next |