特異の血筋   3  





 「あれは」
 落ち込んでいる母親に、不動はそれだけを口にした。
 この男は「あれ」「それ」という言葉が割と多い。
 母はそれだけでもしっかり理解したらしい。
「直してもらってるわ」
 鞄の中から数珠を取り出し、テーブルの上にことりと置く。
 以前と何も変わらぬ姿で連なっている透き通った石。
 女の華奢な指では美しい装飾品に見えるのだが、不動の手首にはまっている時は何かの道具であるようにしか思えなかった。
 実際、不動はそれを道具としてしか認識していないだろう。
「これは一体何なのですか?」
 持ち主であった不動にもろくに説明してもらえなかった蛍は、女に尋ねることにした。
 霊体の力を閉じこめるという物でもないのに、不動の力を抑えて周囲に悟られないように隠してしまう。
 ただの人間であるように振る舞うために作られているかのようだった。
「これは私の力を抑えるための物です」
 そう言って女は服の袖を少しばかりめくり上げた。
 テーブルの上に置かれている物と同じ数珠がはめられている。
「貴方は見逃してくれましたが、あの後別の人間が私を封じにやってきました」
 やはり放置してはおけなかったのだろう。
 人は些細な不安も膨らませて恐れる。
「ですが殺すだけの力はなかったようで、私を山奥に封じていきました。そして何年もそこでじっとしていました」
 女は封じられたことに怒りも憎しみもないように語っている。
 山にいたものが山に封じられても問題はなかったのかも知れない。
「私をそこから出してくれたのは、この子の父でした」
 この時女は初めて嬉しそうな表情を瞳に浮かべた。
 よほど喜ばしいことだったのだろう。記憶を戻すだけでも微笑むほどに。
「私と添うために、私を封じた者を説き伏せて連れ出してくれました」
 添うためというのは、結婚するためということだろう。
 不動の父親だというのに、情熱的な人間らしい。
 意外だった。
「一緒になると言って聞かない夫に、私を封じた人も最後には納得してくれて。この数珠を渡してくれました。これで私を封じるべきであると」
 それは父親に対して、そうしていたほうが我が身が安全であるぞと言っていたのかも知れない。
 好きな人であっても、相手は人ではないという警告もあったのだろう。
「封じておられますね」
 細い手首のある数珠がなかければ、蛍は理性がぐらつくほどの欲をこの女に対しても感じるのだろうか。
 しかしかつて見逃したことがあるというのなら、おそらく不動よりかは強い香りではないはずだ。
「封じることなく人の中にいれば、様々な影響が出ます。人の中にも魂がありますから」
 女の力が周囲に波及をもたらすほどのものであったのなら、人の中にいても周囲に何かしらの影響を出してしまうのだろう。
 人もまた精神や魂という霊体を持つ生物である。
 純粋な霊体ほど強く揺らされることはないだろうが、女の側にずっといることで変化があるのかも知れない。
「この子は私ほど影響力は強くないのですが、それでも封じていたほうが何かと良いと思い、同じ物を作ってもらいました」
「貴方を封じた者から?」
「そうです」
 封じられていたというのに、まだ交流があるらしい。
「恨んだりしていないんですか?」
 嫌な思いをしたのではないのか。そう思う蛍に、女は静かな笑みを見せた。
「封じられることで夫に会えましたから」
 盛大な惚気を聞かされた。
 これほどあっさりと、しかし糖度の高い惚気が出てくるとは思わず、蛍は「はあ」と間の抜けた返事をしてしまった。
 夫に会えたからいい。その一言で大抵のことは片づけてしまいそうだ。
「この数珠がないと何かと困ったでしょうし。あの人たちも悪い人ではないんですよ」
 どうやら相手は複数らしい。
 悪い人ではない、という言葉が腑に落ちない。
 封じられたというのに、女にとって悪い人ではないというのも奇妙だ。
 自由を奪われることが苦痛ではなかったのか。
「もう私はあがめられる存在ではなく、害される側に回ってしまっていましたから。それなのに色々世話を焼いてくれました」
 人の意識の中に、自然に対する畏敬が薄れたように。
 不思議なものに対する敬意もなくなっていく一方だ。
 女はその中で害のある者、異常な者として排除される側に回ってしまっていたのかも知れない。
 いつかは力のある人間が女を殺してしまう。けれどその前に保護のような形で封じてしまわれた方が、女にとっては良かったのだろう。
 だからこそ女は封じた人たちを恨んではいないのか。
「こんな話、他では出来ませんので長々と喋り過ぎました」
 女は照れたように言った。
 こんな事情を話せる相手などごく限られている。普通の人間相手では到底無理だ。
 そのため蛍という聞き手を得て、女は話すことに夢中になったのかも知れない。
「夫は無口ですし。なかなかこんな話は」
「やっぱり無口なんですか」
 不動はあまり喋らない。
 一日中黙っていても、きっと平気だろう。
 しかも一人でいるならともかく、人が周囲にいる状態で一日沈黙を守るのもきっと気にしない。
「この子とそっくりです」
 やはり不動は父親に似ているようだ。
「独り言が増えるでしょう」
「すごく」
 蛍の問いに、女は深く頷いた。
 人がいるから話しかける。だが短い返事しか返ってこず、自分ばかり話すことが多い。聞いているのか聞いていないのか分からないような人と喋ることに慣れてしまうと、独り言まで増えるのだ。
 蛍だけかと思ったら、女も同じ状況らしい。
「……どうして、この子と一緒にいるんですか?」
 女は真剣な顔で、蛍と向き合った。
 それまで弱々しく見えた雰囲気が芯の通ったものに変わる。
「どこで、出会ったのですか?」
「外国です」
 蛍はそう答え、迫り上がってくる憂いを抑えつけた。
 束縛から逃れ彷徨っていた蛍を、不動は野良猫か何かを見るような目で見下ろしていた。
「俺は拾われたようなもので、どうして一緒にいるかなんて……」
 本当は蛍にも分からないことだ。
 不動はどうしてこんな厄介な生き物と暮らしているのだろうか。
 年も取らず、どこでどうやって生きてきたのかも分からないような生き物。自分に欲情混じりに食らいついては体力を奪っていく、まるで寄生虫のような者なのに。
 蛍は傍らの男を見る。
 答えは不動しか持っていない。
「仕事に関して蛍ほど有能なやつはいない」
 だがどれほど有能でも、自分一人で処理出来るのなら助手などいらないはずだ。
 不動が仕事をしている間、蛍が補佐に入ることなど滅多にない。そして入らずとも済ませられるようなことばかりだ。
 釈然としない思いを感じていると、不動が一つ息をついた。
「それに、蛍は年を取らない」
 年を取ることを止めてしまった不動にとって、時を止めずにいる人間はもはや遠い存在なのかも知れない。
 蛍が置いて逝かれることを嫌がるように。不動もすでに自分が残されることを意識しているのだろう。
 時においてゆかれ、人に置いて逝かれ、時代に残され、行き場がなくなる。
 本当の孤独とはそういうものだと蛍と思っていた。
 女は不動の答えに苦渋を滲ませた。
 おそらくこの女も年を取ることを止めて存在だ。
 その気持ちは痛いほど理解出来るのかも知れない。
「貴方はいつも…一人で決めてしまうのね」
 女は母親として、そう告げた。
 責めているというよりも力のない呟きのようだった。
「母さんにも、何も教えてくれない」
 愚痴や当てつけではなく、事実なのだろう。
 不動がいちいち母親に相談を持ちかけて、意見を求めるなんて考えられない。
「…そうでもない」
「そうよ」
 否定しようとした不動の言葉を母は軽くはたいた。
「今まで相談や悩み事なんて話してくれたことないじゃない」
 母と怒っているというより拗ねているようだった。
 ぱっと見たところ不動の方が年上に見えるので、年下の彼女が機嫌を損ねているようにしか見えなかった。
「いつも一人で決めてしまって」
「自分のことだから」
 不動からしてみれば、自分のことを自分一人で決めるのは当然のことなのだろう。
 けれど母親はそうは思わないようだ。
 子どもは手間がかかったほうが可愛いということを聞いたことがあるのだが、この母もそう思っているらしい。
 拗ねて不動を軽く睨むが、最後には溜息をついてしまう。
 何を言っても無駄。そう思っているのがありありと伝わってきた。
 不動は母親が諦めたのを感じたのか、手首を差し出した。
 いつも数珠をつけていた側だ。
 そして母親は差し出された手首に、数珠をはめる。
 数珠はテーブルの上に置かれていたので、自分で手にとってはめればいいのに、不動はわざわざそれを母親に頼んだのだ。
 自分より一回り以上の太さがある手首に数珠をはめると、母親は仕方なさそうに笑んだ。
「何かあったら頼ってきなさい」
「分かってる」
 表情を変えることがない息子に、母はまた溜息をついた。
 手間がかからないが、心配がつきることはない子どものようだ。
「分かっているだけよね」
 理解しながらも、頼ってくることはないのだろう。
 成人した息子が親を頼ることを厭っているだけならば、この図は不思議でも何でもないのだが。きっと子どもの頃からそうだったのだろう。
 容易く想像出来る幼少時代に、蛍まで苦笑してしまった。



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