特異の血筋   4  





 数珠のはまった不動の手首を見て、女は目を閉じた。
 再び瞼を上げた人は、凛とした顔つきで蛍を見た。
「どうかこの子だけは食べずにいて下さい。私を見逃してくれたように」
 かつて、どんな気持ちでこの女を逃がしたのかは分からない。
 覚えていないのだから、あの時何を考えたのかなど分からない。
 けれど蛍は頷いた。
「決して不動に危害を加えるようなことはありません」
 食べないとは言えなかった。
 今後一切不動を食べてはならないと決められれば、蛍はもう不動の近くにはいられない。
 けれど不動本人が拒絶しているわけではない。
 人から願われた程度で離れることも、この欲を殺すことも出来そうにない。
 女には悪いとは思うが、危害は加えないということで納得して欲しいところだ。
「貴方が悲しむようなことは致しません」
 そう蛍は口にした。
 言った直後に、男同士でのセックスは母親が悲しむことではないだろうか、と気がついて少々気まずさを覚えた。
 黙っていれば分からないことなので、ずっと隠していこう。
「…はい」
 女は悲しげに蛍の言葉を聞いていた。
 信じられないのかも知れない。
 蛍が捕食者であることは変えることが出来ない。食わないとどれだけ言っても、安心することは出来ないのだろう。
「殺されるようなへまはしない」
 不安を消さない母親に、不動がはっきりと言う。
 その視線は手首にはめられた数珠に向けられていた。
 それまで蛍を引きつけて仕方がなかった気配が薄らいでいた。
 ようやく気配が潜められたのだ。
 今日から襲いかからずにすむと思うだけで、ほっとした。
「命の取り合いで負けたことは、今まで一度もない」
 霊体相手に仕事をしていると、命の危険にさらされることもある。けれど不動はそれに負けたことはないと言いたいらしい。
 そこで蛍はふと気がついた。
「俺と不動ってどっちが強いと思う?」
 今まで考えたことがないことだった。
 そもそも蛍と不動では生き物としての根本的なあり方がまず違う。不動は人間のようなものだが、蛍は人間とはかけ離れた者だ。
 蛍が不動を殺そうと思えば、霊体相手のように甘言を囁いてその魂を差し出すように促せば良いのだが、この男がそれに応じるかどうかは分からない。
 これほど我が強く、霊体に対しても破壊力を持つ特殊な生き物を他に知らないからだ。
 もしかすると蛍の甘言は通用しないのかも知れない。
 女も二人を見比べて、判断を付けかねているようだった。
「単なる力の問題なら不動だろうけど、霊体に対しては俺の方が強いのかな。それ以前に、俺のやり方って不動に通用するか?」
「人間も食えるんだろう?」
「食えるけど、生き物なら大抵食えるけど……」
 命差し出してくれなんて、不動なら無視しそうだ。
 やってみればどうなるのかと実験する気はなく、おそらくこれからも謎のままだろう。
「盲点だなぁ」
 不動を食い殺そうとは思わなかったので、考えたことはなかった。
 蛍が不動を殺せないかも知れないという話に、女はどことなく嬉しそうに見えた。
 自分の息子から危険が遠ざかったかも知れないのだ。心配している母親にとっては喜ばしいことなのだろう。
 随分人間らしい。
 人ではないというのに、どこからどう見ても人間そのものだ。
 子どもを思う気持ちは人もそれ以外もあまり変わりがないらしい。
 むしろ半分は人間であるはずの不動の方が、どこか人間離れしていた。



 話も終わり駐車場に戻ると、一人の男が片隅でうずくまっていた。
 壁に向かってしゃがみ込んでは、吐いているかのように見える。
 けれど蛍はその男にきつく絡み付くものが原因だと気が付いていた。
 この男は良くないものに憑かれているのだ。
 しかも相当深く浸食されている。このままでは心身ともに崩壊するのも時間の問題だろう。
 解放するべきだろうか。仕事以外で人に接触するのは賢明ではないのだが、命が落とされると分かっていながら無視するのも心苦しい。
 蛍がそちらに足を向けると不動の方が歩みを早めた。考えることは同じらしい。
 しかし不動が男に近付くより先に、男の肩を叩いた者がいた。
 連なって止まっていた車の影からそっと出てきたその人は、後ろ姿からして不動に似ていた。
(同じだ……)
 似ているのは背中だけではない。気配が似ている。
 透き通った清水のような、清廉な空気が漂ってくる。不動と違い甘さはないが、それにしても共通している。
 その人が男の肩をぽんぽと叩き、何かを囁くと絡み付いていた霊体がすっと消えていった。
 離れるものかと執着を見せていたはずの霊体が、あまりにもあっさり剥がされた様は信じられないものがある。
 まるで、不動だ。
 しかしその考えは間違っていなかった。
 振り返ったその人は、不動にそっくりな顔立ちをしていた。
 年は三十過ぎ。フレームのない眼鏡をしているせいか、鋭い容姿が少し落ち着いて見える。
 二人は向かい合い、目を合わせた。
 まるで兄弟のようだ。
「母さんは?」
 声は向こうの方が少しばかり低い。そしてかすれがあった。
「中にいる」
 母さんとは、不動の母親だろう。
 その人は小さく頷く。
「そちらの方は」
「同居人」
 蛍を見て、その人は一瞬視線を尖らせた。
 人間ではないことが分かったのだろう。
 どうしてこんなところにいるのか、何故不動といるのか。問いつめられることを覚悟したのだが、その人はぺこりと会釈をすると何も言わずに店へと向かった。
 問いかけられないことに、蛍は拍子抜けした。
 同居人という説明だけで納得してしまったらしい。
 母親はあれほど問いかけてきていたのに。
「あの人は?」
 視線を引き付けるだけの空気を持ち、不動に酷似している人の背を眺めながら尋ねる。
「父だ」
 何でもないかのように不動は言った。
 だが蛍は耳を疑い、不動を見上げた。
 母親は人ではない。だから息子より年下に見える容姿であっても疑問は抱かなかった。けれどあの人は人間である筈だ。
「年を、止めたのか?」
「母が年を取らないからな」
 片方だけが年を取り、片方が置いて逝かれるということが嫌だったのだろう。
 何度も置いて逝かれた経験のある蛍には、その気持ちが痛いほどよく分かる。
「母が自分を切り分けて、父に与えた」
 切り分けてという表現に、具体的なことが思い浮かんでこない。
 おそらく性質を分けたのだろう。
 蛍のように生気のようなものを与え合ったのか、別の方法があるのか。
「それは母親が望んだのか?」
「父だ」
 へぇ、と蛍は店に入っていった人が意外に情熱的なのだと知る。
 見た目も無口なところも似ている親子だが、不動にもそんなところがあるだろうか。
「顔とか、似てる」
 実に律儀な遺伝子だ。
 血が繋がっていることを如実に教えてくれている。あれでもう少し年を取っていれば不動の父親であると誰に言っても認めてくれるだろう。
 母親の遺伝子がもう少し反映されていれば、無口の度合いが減っていたのではないかと思われる。
「父親からして、変わってる」
 人ではない母親の性質を分けてもらっているとは言え、あの父親は母親とは明らかに異なる気配を持っている。
 生まれながらにして、特殊な人間だったのだろう。
 特殊な者が特殊な生き物と交わって、不動のような特別な人が生まれてきた。
「俺のこと、何も聞かなかったな」
 どんな生き物かすら、父親は尋ねてこなかった。
「成人した子どもに干渉する必要はない」
 素っ気ない答えに、蛍は小さく笑った。
 確かにそんなことを思っていそうな様子だった。
 まさに不動の父だ。
「母親にはそういうことを言わないんだな」
 干渉する必要もないだろう、と突き放してしまえば詮索されることもなく楽だろうに。
 不動は問いかけられるままに、黙って聞いていた。
 そして意見を求められれば、一応言葉を返していたのだ。
「答える義理はある」
 義理。
 それは今まで育ててもらった恩義というものだろうか。
 無表情で強面なおかげで感情があるのかどうかすら怪しい男だが、人情は知っているようだ。
 家族思いな部分もあるのかも知れない。
 知らなかった不動の一面に、蛍は新鮮さを覚える。
「そういえば、母親を迎えに来るほど仲がいいんだな」
 店内にいた時は、母がメールを打っていたのだ。
 迎えに来て。という短い文面が送られて、さして時間は経っていない。
「新婚に近いものがある」
 不動の口から「新婚」などという似つかわしくない単語が出てきただけでも、蛍にしてみれば驚きだったのだが。
 まさか両親がそんな類の人種だったなど、想像を絶する。
「万年新婚家庭?」
 そんな単語が昼の番組から聞こえてきていたのでつい使ってみたのだが、不動相手にそんなことを口にすると違和感がつきまとう。
 その上不動が肯定するように、黙って車へと戻っていく。
 違うのなら「違う」という訂正が入るはずなので、万年新婚家庭というのは本当なのだろう。
「なんであんな子どもになるんだ…?」
 いくら父親が無口でも、新婚家庭で育った子どもならもっと表情豊かでも良いのではないだろうか。
 少なくとも母親は感情が豊かなのだから。
 世の中には分からないことが数多くあるものだが、不動に関しては謎が多いままだった。







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