特異の血筋   2  





  車という密室はたちが悪い。
 窓を開けていても空気が上手に流れてくれない。
 不動から漂ってくる空気の甘さに、吸いたくもない煙草を吸っていた。
 いつも不動が吸っている銘柄だが、蛍は煙草を嗜む癖がないので味などほとんど分からなかった。
 ただ苦い。
 煙を吐き出すが、その煙にも甘さがかき消えない。
 だからといって運転している不動に襲いかかるわけにもいかない。
 煽られるだけ煽られて、苛立ちすら感じていた。
 二時間近く車で走り続け、とある店の駐車場で止まった。
 外の光景や、土地を確認するより先に、エンジンを切った男の口を塞いだ。
 駐車場は片方は壁、もう片方にも車が止まっている。目の前もしっかり駐車スペースで車が入っているので人目はない。
 開かれた唇から舌を差し込んできつく絡め取る。
 応えてくれる舌が身体の中まで入ってくればいいなんて、卑猥なことを考えては自己嫌悪に襲われた。
 濡れた音を立てるほどに絡め合っては、何度も口付ける。
 上に乗ってしまいたいと身体は訴えているのだが、そこまで欲望に素直にはなれない。
 吐息が乱れる前に、口付けを止めた。
 これ以上すれば、引き返せない。
「車を移動して、満足させる時間はない」
「分かってる」
 不動は淫らな口付けをしても、冷静さを失わない。
 いつも淡々としている眼差しが微かに欲情を見せてはいるが、大人しいものだ。
 その代わり蛍は熱を帯び始めた身体を持て余し、名残惜しいとばかりに唇を吸ってから離れた。
 そして車から素早く降りる。
 外気に触れて、不動の匂いから逃げたのだ。
 空気はすっきりとしており、緑と土の匂いがした。
 周囲には木々が多く、町中からは少し外れているようだ。
 近くには田園がありとても静かな光景だ。
 普段は人の多い場所に住んでいるだけに、人の気配より緑の気配が多い土地にいると新鮮に感じてしまう。
 昔はこれが普通だったというのに。
「不動の地元?」
 ここに何をしに来たかと言うと、不動の母親に会いに来たのだ。
 数珠は母親に渡し、それが戻ってきたという連絡を受けたのでここまで出向いた。
 そのため、ここが不動が生まれ育った土地なのかと思ったのだが。
「もう少し離れたところにある」
 不動は車から降りて、蛍から煙草を回収した。
 店に入る前に一服するらしい。
「妙なものを連れていくとは言ってあるから、あまり近寄らせたくないらしい」
 なるほど、と蛍は納得する。
 テリトリーを気にするタイプの生き物なのだろう。
 人はテリトリーの感覚が薄く、曖昧になって随分狭まったものだが。人以外の者たちは自分の領域を大切にする者も多い。
 自分の内側に踏み込まれたくないという気持ちの表れだろう。
 不動が一本吸い終わるまで、蛍は距離を保って周囲を見渡した。
 見覚えがあるような、ないような気がする。
 けれど何年生きたのか、どこで暮らしていたのかという記憶は時間が経てば薄れていく。
 長年日本にいたはずなのだから、どこで記憶の片鱗が引っかかっても不思議ではない。
 しかしはっきり思い出すことはない。
 不動が吸い殻を携帯灰皿に押し込むと、二人は並んで店に入った。
 店内は落ち着いた雰囲気で、アイボリーが基調になった明るい色彩の内装が穏やかな空気をさらに柔らかくしていた。
 微かに流れている音楽に歌詞はなく、ゆったりと漂っていた。
 穏和という表現がよく似合う店の中で、蛍は一人の女性に目を留めた。
 こちらを見て目を見開いている、髪の長い二十代後半ほどの人は綺麗な顔立ちをしていた。
 視線を奪うほどではないが、傍らで微笑まれれば心動かさずにはいられないだろうという静かな秀麗さだ。
 けれど蛍の目を引いたのは顔立ちではない。
 その人が持っている気配だ。
 不動が持っているものに似ている。
 けれどそれは人間のものではない。明らかに人以外のものだ。ふんわりとした甘さは不動よりも柔らかく、また甘みがはっきり出ていた。
 きっと自然の僕、神様の僕として崇められ、神に似た者として存在としているのだろう。
 蛍は過去に会った者たちの気配を思い出して、そう判断した。
 女はふらりと立ち上がっては驚愕の表情を歪めた。
 泣き出してしまいそうだ。
 無表情で睨み付けてくれば少しは不動に似たところがあるのかも知れないが。感情を露わにしている限り、二人を家族だと思うのは無理だろう。
 まして親子だとは思えない。
 比べてみると、女の方が少しばかり年下に見えるからだ。
 けれど纏っている気配が、二人の血が繋がっていることを明確に教えてくれていた。そして兄妹でないことは、女の気配に何の混じりけもないところから分かる。
 蛍は女に頭を軽く下げた。
 けれど女は近寄ってくる二人に、絶望のような色を見せる。
「貴方だなんて…」
 乾いた呟きは、蛍に首を傾げさせる。
 それは蛍に向けられたものだろう。けれどこの顔に覚えはない。
「以前、どこかで?」
 そう尋ねると女は瞬きをして、ああ……と何かに思い至ったように息を吐いた。
「私もあの頃からすると変わってしまったのかも知れません」
 あの頃とはいつの時代をさすのか分からず、蛍は反応に困った。
「失礼ですが…あの頃とは?私はある程度の歳月を得ると記憶が消えていくもので……」
 会っているかも知れないが覚えていない。
 相手を忘れてしまうのはあまり良いことではないと理解してはいるのだが、記憶を留めておくことは蛍にとって困難なことだった。
 積み重ねていく全ての年月を覚えるということは、新しい記憶を入れる余地を失うということなのだ。
「覚えていらっしゃらないと?」
 女は意外そうな顔をする。
 頷くと淡く微笑んだ。苦笑が滲んでいたのは見間違いではないだろう。
「座ってから話せばどうだ」
 不動が珍しく人の会話に入ってきた。
 それは純粋に腰を下ろしたいという要求ではない。座ってゆっくり話せということだ。
 興味がなければそのまま早く終わらせるために口を挟まない。
 促されるまま、向かい合って席に座る。
 やってきた店員にコーヒーを頼んだ後、女は驚愕の代わりにもの悲しさのようなものを浮かべていた。
「いつ、貴方とお会いしましたか」
 失礼な質問だとは思いながらも、蛍は尋ねる。
「日本国がまだ戦をしていた頃です。私はこの近くの山奥にひっそりと隠れるようにして生きていました」
 戦前ということは蛍がまだ日本にいた頃だ。
 だがそれほど昔のことになると、そろそろ記憶が残っていない。
 女を覚えていないというのも、時代的には仕方がないことだった。
「当時は山神のような扱いをされていたのですが、この周辺で神隠しが頻繁に起こったそうで。私の仕業だとされたのです」
 山に異様なものが住んでいる。
 人が何人もいなくなったのは、そいつがさらったせいだ。
 そんな実に単純な思考が、当時はまかり通っていたのだ。
 自分たちの知っている内の情報で、自分たちの理解できないことを処理しようとするとそうなる。
「そして、貴方がやってきた」
 女は視線を落としたままだった。
 蛍との出会いを話しているのだが、蛍に記憶がないだけに他人事としてしか聞こえてこなかった。
「そういうこともしてました」
 異国に行く前は、そうして人ならざる者たちに関する仕事をしていた。
 氏神や呪い、妖怪などの類にも関わったものだ。
 それは今も大差がない。
 結局いつの時代もやっていることは同じということだろう。
「私が人をさらったのではないと知ると、貴方は私を見逃してくれました。そして村の人たちを宥めてくれた」
 へぇ、と蛍は相づちをうった。
 過去の自分はそんなことをしたらしい。
「感謝しています、とても」
 女が頭を下げる。
 艶やかな髪がさらりと流れる。
 けれど蛍はその感謝に苦笑してしまった。
 きっと腹が減っていなかっただけだろう。
 空腹であったのなら、濡れ衣であろうと何であろうと食ってしまっていた。己の欲より重視しなければならないものが他にないように。
 気まぐれで生かされたとも知らず、女は深々と感謝の念を見せている。居心地はあまり良くなかった。
「けれど、息子と一緒にいらっしゃるなんて…」
 女は悲愴な表情で呟いた。
 そしてようやく女が恐れている理由を察することが出来た。
 蛍は、息子である不動を食おうと思ってまとわりついていると考えたのだろう。
 獲物を狙う捕食者として見られているのだ。
「貴方にはありがたいと思っています。命を救って頂いた恩があります。けれどこの子は半分人間なのです。出来れば平穏な人生を歩んで欲しい」
 だから見逃してくれ。
 そう女は懇願しようとしていた。
 目尻に溜まった涙が必死さを窺わせる。
 けれど蛍は同意も否定も出来なかった。そもそも半分は人間であろうが、不動はすでにまともに年を取っていないのだ。
 平穏な人生などもはや望むべきではない。
 そして本人もそんなものが与えられるなんて思っていないだろう。
「それは無理です」
 蛍は母親の顔を見せる女にそう冷静に告げた。
 すると女がばっと顔を上げてすがるような目を突き付けてくる。
 まるで責めているかのような錯覚にさせられる視線だ。
「親心でそう仰るのは分からないでもありません。ですが不動は平穏には生きていけない」
 そんなことは親である女にもよく分かっているはずだ。
 蛍にそう言われ、女はまた視線を落とした。
 不動の母親だというのに、先ほどからずっとか弱い印象を受けていた。本当に似ていない親子だ。
「やっぱり…無理でしょうか」
「無理だろうな」
 女の切なる願いをあっさりと叩き落としたのは息子である不動だった。
 平穏などに興味はないと言いたげでもあった。
 母親が気にするほど、この男は人生の安定性を求めてはいないのだ。
 もし安心出来る生活が欲しいというのなら、こんな因果な仕事にも就いていないだろう。そして蛍なんて厄介な生き物も拾わない。
「だからって……」
 何もこんな生き物と、そう言うような女の眼差しに蛍は苦みを覚える。
 仕方のない反応だ。
 歓迎する方がどうかしている。
 そう、こんな生き物を喜んで迎え入れるほうがどうかしているのだ。
 この女はとても自然な気持ちを持っている。そう蛍は自分に囁いてはやってきたコーヒーに口を付けた。
「仕事のパートナーとは聞いていますが、貴方は不動を食べることが出来るのでしょう?」
 実際に食べている。
 本人の負担にならないように加減はしているが、摂取していることに違いはない。
「仕事で食事をすましてはいます」
 けれど満たされたと強く感じるのは、不動を食った時のほうが多い。
 この男は特別だ。
「でも」
「俺にはこれが合っている」
 女がまだ何か言い募ろうとした時、不動がそう言った。
 これというのは蛍のことだ。
 まるで所有物のような扱いをされ、むっとするものはあるが拾われた身分なので不満は口にしない。
 女は息子の言葉に困惑を見せるが、それ以上追求しようとはしなかった。
 同じ言葉が返ってくるだけだと知っているのだろう。
 親子であるのなら、不動が他人の意見を聞いて自分の考えを曲げることがないことは分かっているはずだ。
 憂鬱そうに女は息を吐き、睫を伏せた。
「頑固よねぇ」
 諦めの混じった声は、今までもこうしたことがあったことを思わせた。
 そしてその度女は溜息をついて微動だにしない不動に折れたのだろう。



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