部屋に入った途端、部屋の空気がざわりと動いた。 両脇を抱えられた少年が目を見開き、不動を見て掠れた声で悲鳴を上げた。 喉から絞り出すような、吐息だけが溢れていく悲鳴はろくに声にはならなかったが、恐怖だけは伝わってくる。 そして少年が悲鳴を上げてすぐ、少年が纏っていた空気がぐらりと揺れては何かが抜け出すのを感じた。 少年は支えてくれていた両脇の人を振り払おうと暴れ始めた。逃走を図る霊体の行動がそのまま出てしまっているのだ。 霊体が少年から逃げるのを感じ、蛍がすぐさま駆け寄った。 脱兎のような霊体の頭を掴み、完全に少年から逃れる前に捕まえることが出来た。 もう一拍遅れていれば、霊体を取り逃がすところだっただろう。 「落ち着きなさい。何も恐れることはない。私がおまえを守ってやる」 宥めるように、少年に囁く。正確には少年の中にいる何かに向かって。 小柄な少年は囁いてくる蛍の身体にすがり、不動を凝視していた。 きっと目をそらすことが出来ないのだろう。 あまりにも恐ろしくて。 「大丈夫。あれはおまえを害することはない」 逃げなければ。 そう蛍は心の中で付け加える。 一方不動は恐怖の目で見られても、平然と腕を組んでその場を眺めていた。 関係者として他にも二人ほどいたがどちらも不動を見て居心地が悪いそうにしている。 顔立ちが険しいせいで、ただでさえ怖そうに見えるのに少年がこれほど怖がっているのだ。きっとものすごく怖い人なのだと思っていることだろう。 だが不動が人間に危害をくわえている様を、蛍は見たことがない。 感情を揺らしているところ自体あまり見たことがないので、怒りという感情も乏しいのだろう。 「恐ろしくはない」 そう柔らかな声で告げながら、蛍は宥めることは無理だろうと思っていた。 不動の気配は、霊体にとっては酷なほど強い。 恐怖に縛れられて、いてもたってもいられなくなるのだろう。 蛍がその気配に惹かれてしまうのと同じくらい。 (早く抑えてもらわないと) 以前なら不動の手首にはまっていた、数珠のようなものが不動の力を抑えてくれた。 その気配を隠して、霊体には感知出来ないように秘めてくれていたのだが。 今は数珠の連なりが切れてしまい、はめていないのだ。 そのため気配を隠すことが出来ず、霊体が怯えて逃げようとする。 始末しなければ舞い戻ってくるので、霊体に逃げられると任務は失敗したことに近い。そのため不動にはその気配を隠してもらわなければ、仕事がやり辛くて仕方がなかった。 (霊体が逃げるより先に手を打つなんて、そんな忙しない) 内心面倒だと思いながら、蛍は感情を悟らせない柔和な声音で霊体を陥落させていた。 すっきりとした甘さに満たされた部屋で、蛍は小さく息をつく。 穢れなき清水の中に蠱惑的なまでに甘い蜜がとろりと溶けているような香りだ。 呼吸をしているだけでも身体の奥がざわりと落ち着かない。 理由は簡単だ。 不動がその気配を隠すことなく隣に座っているため、漂ってくる匂いに引きつけられているのだ。 霊体を食い物にしている蛍にしてみれば人間である不動は本来手を伸ばすべき存在ではないのだが、その特殊な気配はどうしても心惹かれるのだ。 人としても特殊、人以外の生き物だと考えても特殊。その独特の空気は他にない味で蛍を魅了してくる。 欲しい、と求めてしまうことは我慢がきかず、こうしている間にものしかかってやろうかと思ってしまう。 そんな蛍の憂いを知らず、充は平然とソファに座っていた。 この中で唯一混じりっけも何もない平凡な人間だ。 「で、逃がしそうになったんだ」 オレンジ色をした頭に、赤のパーカーという見た目は非常に視線を引く。 顔立ち自体は目立つようなものではないのだが、格好が派手なのだ。 足を組んではコーヒーを飲んでいる。 自宅と変わらないようにくつろいでいるが、いつものことだった。 仕事を運んでくるだけでなく、大した用もないのに充はやってくる。他に友達はいないのか聞いたところ、不動といるのが一番楽だと言っていた。 それは蛍がよく分かっている。 無口で何を考えているのか分からない、その日の機嫌すらさっぱり感じ取れないのだが、何故か不動と一緒にいることは苦にならない。 そういう男なのだと割り切ってしまえばいいのだ。 「不動が何も隠さないから」 蛍はこの前受けた仕事の結果を充に話していた。 仕事は充が持ってくる。そのため報告もきちんと伝える必要があった。 今まで失敗をしたことがなかったため、逃しそうになったという蛍に充は驚いたようだった。 「それで?」 「捕まえたよ」 間一髪だった。 逃げる前に捕まえてしまえば後はいつも通りだ。 霊体が陥落するまで甘言を流し込めば良い。 抵抗して落ちてこない場合は強制的に消去することになる。どちらにせよ霊体を手元に置いておけばいつでも可能なことだ。 逃がさなければ、仕事自体は成功したも同然なのだ。 「相手が硬直したからまだ良かった」 不動を見て、霊体は恐ろしさに凍り付いたのだ。 それから我に返って逃げようとした。 その間があったため、蛍は間に合うことが出来たのだ。 不動を見た瞬間に逃げられていれば、間に合ったかどうかは謎だった。むしろ逃していた確立の方が高いだろう。 「そんなに目立つの?不動って」 充は不思議そうに言った。 今もここに漂っている気配の濃さと甘さを感じられないからこその台詞に、蛍は苦笑してしまう。 出来ることなら充にも体感して欲しいほどだ。 蛍にとっては甘さだが、霊体にとってこれは恐ろしさに代わるだろう。 こんな大きく広い恐怖に晒されて、じっとしていろという方が無茶だ。 「異様なくらいに目立つ」 どこにいても、随分離れていたとしても、不動を見つけることは容易いだろう。 蛍なら延々と続く人混みの中でも不動を探し出せる自信がある。 「なら、早くどうにかしたら?」 充は簡単に言ってくれる。 まるで今すぐにでも解決出来るかのような言い方だ。 出来るものならとうにやっている。 この状況をどうにかしたいのは蛍の方なのだから。 溜息をついて、呼吸するたびに感じる不動の匂いにぐっと奥歯を噛んだ。 自制しなければならない。 蛍はわき上がってくる欲を無視して、ひたすら不動を気にしないようにつとめようとしていた。だがそれでも自然と不動の姿を目や耳が追っているのだ。 食いたい。 無意識の内にその欲が零れているのだろう。 霊体が相手であるのならその欲は、そのまま食欲として捕食に入る。 魂を食い尽くして消してしまうのだ。 けれど不動の魂を食って殺してしまうわけにはいかない。 蛍は人を食うことを自らに禁じていた。理由はごく単純なものだ。 人に紛れて生活しているから。 まして同じ部屋で暮らし、これからも傍らにいようと思っている人間を殺す必要はどこにもない。 けれど欲は消えることがなく、不動に対しての渇望を抑えるのも限界がある。 そういう場合は、その欲を性欲に変換してしまうのだ。 情事に意識を向けてお互いの身体を繋げることで性欲を満たし、ある程度満足している状態を作り出す。その合間に食欲も落ち着かせていた。 食欲を性欲にすり替えられる自分に苦笑は浮かんでくるが、食欲のまま食い殺すよりずっと良い。 けれど今の現状では常に欲を刺激されている状態で、それを性欲に切り替えると所構わず盛ろうとする発情期の猫のようになってしまっていた。 それまでは毎日不動を欲しがるなんてことはなかった。 欲しいと思う間隔は不定期で、三日しか間が空かなかったこともあるが、半月食わなくても平気だったこともある。 だが今は毎日不動と肌を重ねている。 毎夜のごとくベッドに忍び込んで上に乗る。それだけでなく、ふとした瞬間に食いつきたくなるのだ。 食事が終わって洗い物をしている背中や、風呂から上がってきた姿、家の中ならまだいい。盛っても相手をしてもらえる。 誰の目も耳も気にする必要がないからだ。 しかし外出先でも盛るのだ。 理性が吹っ飛ぶほどの強さが欲が沸くわけではないのだが、それでもヤりたいという欲求ははっきりと生まれてくる。 そうなればもはや自分をケダモノとしか思えなかった。 不動は平然と、欲情なんてものと無縁の様子でいるからよけいにいたたまれない。 いい加減嫌気がさしている現状に、蛍はちらりと不動を見た。 本当にどうにかしてくれ、と懇願を込めて。 「話はつけてある」 視線の意味をくみ取って、不動はそう言った。 手首についていた数珠のようなのは、特殊な役割を持っていただけにそうそう手に入るものではないらしい。 そのため直すにも多少時間と手間が必要のようだ。 「で、いつ出来上がるんだよ」 充は他人事として、さして気にするわけでもなく尋ねていた。 「知らん」 短い、あまりにも端的な言葉に蛍は再び溜息をついた。 いつ戻ってくるのか分からない。 大まかな日取りも知ることが出来ない。 そもそも誰に直してもらうのかすらよく知らない。 そう不動は言っていた。 分かっているのは母親がどこかに持っていって直してくれるらしいということだけだ。 いつこの状態が終わるのだろう。 盛りのついた猫のごとき生活はすでに一ヶ月になろうとしていた。 next |