恭一はその場に荷物を置いた。
 一泊分の荷物だ。着替えなども入っている。
 他の生活用品の多くは、すでに泉の家に常備されている。
 歯ブラシやらスリッパやら専用のマグカップ。
 恭一が来るたびに、一つずつ増えていくのだ。
 地味に浸食されている。
「硬くないですか?」
 緋旺の膝枕から頭を上げない泉を忌々しそうに見下ろしてくる。
 そんなに気に入らないのだろうか。
「硬いね。それに冷たい」
 緋旺は自分の意志を持ち、動き、喋る。その容姿も人間そっくりで、身体の関節に丸い球体がなければ、線がなければ、人形だと思えないほどだ。
 けれどどれだけ見た目が人間に近くとも、その身体は人形以外の何物でもない。
 体温、柔らかさは持っていない。
 なので泉の頭はひんやりとしている。
 膝枕には少し合わないかも知れない。
「でも、膝で寝るんですね」
 冷たくて硬いのに、そこがいいのか。
 恭一の目はそう泉を責めていた。
 そのことに泉は苦笑してしまう。その気持ちが少し嬉しいと言えば、怒られるだろうか。
「嫉妬は美しくない」
 それまでずっと黙っていた緋旺がぼそりと呟いた。
「そうだよー」
 作り手もそんな呟きに同意した。
「俺は硬い男の膝なんて嫌だろうと思って遠慮してたんですが」
 それなのにどういうことだ。
 そうありありと恭一の視線が言ってくる。
 それ以前に男が男の膝枕というのはどうなのだろうと、つい考えてしまう。
 緋旺となら見た目は問題ないが、恭一とはやや問題があるような気がするのだが。恭一はその辺りを気にしないのだろうか。
「いらない気遣いだったようですね」
「そう怒らないでよ」
 まさか膝枕ごときでこれだけ恨み言を言われるとは思っていなかった。
 恭一に関しては妬心が強い子だとは思っていたのだが、緋旺に対してまでそれを抱かれるとどうしていいか分からない。
 緋旺と泉は同じ存在に近いのだ。最も近く、気が置けないのも当然なのだが。恭一はそれすら嫌なようだった。
「そう言いつつまだ起きないんですか?」
「君はどれだけ羨ましいんだよ」
 呆れつつ泉はようやく頭を起こした。
 見ると緋旺も同じ様な表情をしていた。
「羨ましいですよ。俺が入れない空気を見せつけられたみたいで」
「入れない空気なんてないよ」
 泉に恭一を拒否している部分なんてない。ならば緋旺も同じだ。
 入ろうと思ったら、いつだって恭一は入ってこられる。
「あります」
 泉の思いとは異なり、恭一は疎外感を強く抱いているようだ。
 むすっとされ、泉は肩をすくめる。
「拗ねないでよ」
「…拗ねたくもなります」
「代わってあげようか」
 二人のやりとりに、緋旺がそう告げた。
 腰を上げようとしたが、恭一がそれを止める。
「いらない。代わりじゃ嫌だ」
 それは恭一がねだるから膝枕をするのではなく、初めから泉に膝枕をねだられたかったということだろう。
 このタイミングで膝枕をしたとしても、不満が残るらしい。
 これには緋旺もやれやれと言いたげだった。
「いつから恭一はそんなに我が儘になったの」
 普段は淡々としている緋旺の声に、やや苦笑が混じっている。
 責める響きは全くなく、からからっているようなものだということは恭一にもよく分かっていることだろう。
 だから更に機嫌を損ねることはなかった。
「元からだよ」
 さらりとだだっ子は答える。いつもは大人びて、泉よりしっかりしているせいか、それが無性に幼く見えた。
「僕が甘やかしたせいかな」
「甘やかすの好きだしね」
 泉は緋旺に話しかける。すると案の定返ってくるのは肯定だ。
「でも恋人になった醍醐味でしょ。甘やかすのって」
 のろけて見せると緋旺はしらっとした目で見つめてくる。そのひややかさに泉は笑った。
 緋旺とはどれだけ感覚が繋がっていたとしても、感性のずれた部分があるらしい。
 意志が強い人形なので、性格も独特のものがあるようだ。
 それが最も如実に出てくるのが色恋関係だった。
 緋旺はそれらに関して興味があまりないらしい。自分に直接降りかかってくるものではないせいかも知れない。
「犬の躾にも聞こえますが」
「そう?君は確かに大型犬っぽいけどね」
 泉に構われるととても嬉しそうにするところや、仕事中は大人しく待っているところ。模造が出現すると泉を守りたがって、常に側にくっついていようとする。
「大型犬って頭良くて、優しくて、大人しいらしいよ」
「らしいですね。でも俺は犬じゃありませんから」
 褒めているのに、拗ねている人はそんなひねたことを言う。
 それが一層泉の笑みを誘った。
「似てるよ。一途で、恋人には最適なところとかね」
「嫉妬深いですけど」
 横を向く恭一の頭に泉は手を伸ばした。
 脱色を繰り返した自分の髪とは違い、恭一の髪はさらりとしている。
 黒というより茶色に近い色味なのだが、一度も染めたことはないという。
「可愛いよね」
 頭を撫でながらそう告げると恭一は溜息をついた。
「馬鹿にされてるんでしょうか」
「まさか」
 可愛いと本当に思っているだけだ。
 ただ可愛がり方に多少問題が出てきていることは自覚している。
「……もういいです。人形が見たいんですが」
 拗ねるのに飽きたのか、機嫌が戻ったのか、恭一とそう言い出した。
「いいよ」
 人形はすでに完成に近い。
 制作途中の人形を人に見せるのは嫌だが。出来上がりを見せるのは好きだ。人の驚く顔、喜ぶ顔はこちらにとっても嬉しさに変わる。
 まして恭一はいつも手放しで喜んで、感動してくれる。
 その表情が楽しみなのだ。
 今回の人形を見て、恭一はどんな事を言うだろう。それを思うと今から心が忙しなくなった。


 地下の作業場には人を滅多に入れない。唯一の例外である恭一も、そう頻繁に入れるわけではなかった。
 そのせいか作業場に入ると、恭一はいつも緊張した面もちを見せる。
 この場所が神聖であること。他人の侵入を頑なに拒んでいるところであることを認識してくれていることが嬉しかった。
 ここは、日常ではない。
 意識を切り替えてもらいたい場所なのだ。
 作業机には、ちょこんと人形が座っている。
 子どもの玩具として丁度良いくらいの大きさ。サイズは三十pほどだ。
 ふんわりとした茶色の髪。白い肌。瞳の色はルビーグレープフルーツの果肉のような色をしていた。生き生きとした、生気が溢れる眼差しだ。
 年頃は七、八歳といいところだろう。頭に語りかけてきていた声も随分幼かった。
 元気いっぱいで、嬉々としてこの世に生まれてきたことは間違いない。
 動けるのならはしゃいで走り回っていることだろう。
 着ている服はふわふわとして生地が多く重なっているものだが、それが乱れることも気にしないで遊びそうだ。
 恭一はそれを見付けるとゆっくりと近付いた。
 けれど手に取るようなことはしない。
 素手で無遠慮に触れられるような物ではないことをよく知っているのだ。
 ましてこれは依頼されて作ったものだ。
 泉の物であると同時に、依頼者のものだ。依頼者の許可なく触れることは失礼にも程がある。
 そして人形自身にも矜持がある。喋ることは出来なくとも、人形たちのプライドはかなりの高さだ。礼を欠けばどれほど激怒することか。
「何と言うか……」
 恭一は人形に釘付けになったようだった。
 新しい人形を見たときの反応はいつもそうだ。細部まで記憶しようとするかのように、凝視する。
「陳腐な台詞になりますが、素晴らしいですね」
 上擦った声が、感動を伝えてくれる。
 それが何より嬉しい。人の心を動かす人形を作れることほど、泉の意識を踊らせてくれるものはない。
「ありがとう」
 謙遜はしない。無駄な恐縮は、恭一の感動を無下にしかねない。
「瞳はオレンジですか」
「そう。ちょっと生意気そうだろ」
 我が儘を言って人を困らせることで楽しんでいるような、ちょっと困った元気がありそうな顔をしている。
「そうですね。でもそれが可愛い」
 子どもの特権を、きっとこの人形も持っている。
 我が儘でも、大人を振り回しても、満面の笑みで嬉しそうにされたら怒るに怒れない。そんな独特の武器を持っていそうだ。
 愛嬌で全てをプラスに変える、強い子だ。
 それは依頼者が望みだった。
 力強くて、可愛い子が欲しい。嫌なことも楽しいことに変えてくれるような、そんな陽気な存在を必要としてるんです。
 そう告げた女性に、泉は頷いた。
 必ず、その希望に答えたいと思った。
 結果は問題なく、人形は太陽みたいな存在として作り出された。
「将来美人になるでしょうね」
 恭一は人形を眺めながら、そんな感想を述べた。
 それに泉は瞬きをする。
 驚いた。人形の将来を考えるだなんて。
 確かに泉も、この子が大人になったらこんな感じになるだろうなという想像はする。それを人形に話して、そうかも知れないという笑い話はする。
 けれど人形は決して育ちはしない。
 生まれたままの姿で、ずっと時を得ていく。
 それは当然のことだ。物質が変化を求めないのと同じ道理。
 そして他人は人形の将来など考えはしないのだろうと思った。人形と喋らないのなら、作らないのなら、そんなもの考えようとも思わないだろうと。
 けれど恭一は違った。
「うん。きっと」
 泉は笑みを浮かべて、頷いた。
 恭一の前で座っている人形も、頷いたような気がした。
「天の才ですね」
「それしかないからね」
 恭一はよく、泉を天才だという。
 それは否定しない。
 朝日奈にずっといる特別な人形が泉を選ぶことによって、泉は人形を作る能力を貰った。それは才能だ。
 ただ天からではなく人形から貰ったという違いだけだ。
 それをのぞけば泉には何も残らない。
 生活能力も、見た目も、人並みかそれ以下になる。
「すごいです本当に。どうしたらこんな風に作れるんですか」
 尋ねるようなことを言っているが、恭一はきっと本当に作り方が知りたいわけではないだろう。以前にもこんなやりとりがあったけれど、泉は「人形に聞いている」と言っているし、作ること自体なら恭一にも出来るはずだ。
 篠倉は人形の補修だけでなく、制作にも携わっていた。
 制作技術ならちゃんと備わっているはずだ。
「知りたい?コツみたいなものなら教えられるかも」
 造形を作る際の、ちょっとした指の動かし方くらいなら伝授出来るだろう。
 恭一がどんな人形を作るのかも気になっていたところだ。
「俺は制作の方は才能ありませんから」
 恭一は泉を振り返っては苦笑した。元々制作はそんなに得手ではないのだと自分でも言っていた。
「あると思うけど」
 補修であれだけの技術を出しているのだ。センスもちゃんとある。
 なので良いものを作りそうな職人なのだが。
 しかし恭一は受け入れることはなく、新しい人形を見ては嬉しそうに目を細めていた。



 


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