がつりと模造の身体がアスファルトに叩き付けられた。 高速道路に入る手前の閑散とした空き地にも思える空間に、その音が響いた。 街灯が照らしている光景は現実離れしている。 模造品が動き、緋旺がそれを叩きつぶしているのを見ていると、恭一はこれが夢ではないかと思う時がある。 (二つとも人形だなんて、こうして見ているだけじゃ分からない) 滑らかな行動はどう見ても人間と大差ない。 月を背景にして立っている緋旺に至っては、そのしなやかな身体は少女のもの以外に思えない。 そこから尋常ならぬ力が発揮され、現在立っているあの下に敷き詰められたアスファルトすら砕くなど、我が目で確認しても信じ切れない部分がある。 淡い夜風は緋旺の艶やかな髪を濡らしては、その眼差しを撫でていく。 地に倒れた模造はがたがたと震えたかと思うと、ぎこちない様で立ち上がろうとした。 その腕は真逆に折れており、足も片方もげている。 人間であったのなら動けるはずのない状態なのだが、やはり生き物ではないそれはまだ足掻こうとしていた。 しかし決着は付いたも同然だった。 五体満足でも緋旺に勝てなかったのだ。それに支障が生じて、勝ち目などない。 (今は自爆も考慮しているからな。二度と同じ手は通用しない) 緋旺より前に作られた金色の舞姫の最期を、恭一は忘れていない。 無論作り手である泉など言うまでもないだろう。だから緋旺は模造が崩壊する際には近寄ろうとしない。 (泉さんにとっては、あれは深手だったからな) ちらりと泉をを見るとここに来るまで緋旺を入れていた大きなアタッシュケースを開いていた。 その内側のポケットに何やら細長い物が幾つか入れられている。 泉はそれを抜き出す。 見るとペーパーナイフのように薄い刃物だった。 しかし薄暗い街灯の下でそれは鋭く光を反射したように見えた。おそらく、研ぎ澄まされたナイフなのだろう。 紙などよりずっと堅い物を切るために、磨かれているはずだ。 泉はそれを数本抜いて緋旺に投げる。 声などかけはしない。 二人はその瞳で繋がっているからだ。まして模造と対峙している際にはかなり意識を集中して緋旺との感覚を共有しているらしい。 だから泉がやろうとしていることを緋旺はその身体の内から感じ取っているのだ。 細い指はナイフを受け取ると、上半身を起こしたばかりの人形に向かって無造作に放つ。 ぐさりぐさりと深々と突き刺さるナイフ。模造の身体にひびか入っていくのが想像出来た。 黒く身体に密着した服の下で、おそらく崩壊が広がっている。 胴体だけでなく首にまで深く刺さったナイフは、もう少し力を加えて傾ければ胴体と頭を切り離してしまうことだろう。 まだ壊れずにいた腕がゆっくりと持ち上がって何かを掴もうとした。けれど緋旺はそれすら癇に障ると言いたげに、残り一本となっていたナイフをその掌に突き刺した。 まるでナイフは的を射抜く矢のようだ。 「終わりましたね」 ここまで崩壊するとさすがに模造も動かなくなる。 動けたとしても、本当に指先だけだろう。 泉は恭一には答えず、踏みしめるように歩き出した。 ブーツのかかとが硬質な音を立てる。 カツリカツリと鳴る音に添うようにして恭一もまた続いた。 緋旺は泉より早く模造に近付き、頭の横に立っては突き刺さっているナイフの柄を足で蹴った。 首が砕け、頭部が切り離された。 じっと模造を見下ろすがあの時のように胸が開かれることはなかった。食虫植物のような、肋骨を広げて目標を捕食した貪欲さは、もう人形には装備されていないのか。 泉は頭の傍らに膝を付く。 ファーが付いている黒いロングコートの裾が地に広がった。 「そんなに僕が憎い?」 冷ややかな声だ。 だが笑みが滲んでいるような口調だった。きっと殺意すら籠もった瞳で見下ろしながら、唇だけで笑みを作っているのだろう。 泉の斜め後ろに立っているため、恭一にはその表情が窺えない。だが底冷えするような怒りだけは伝わってくる。 泉は普段穏和な人だ。のほほんとしており、怒りとはあまり縁のない人のように思える。 けれど人形のことになると泉は人が変わったように真剣になり、激情を見せる。その最も強いのが模造に対してだった。 しかし模造と言えども人の手で作られた人形。 人間の身勝手な欲のために戦わされて、壊されて、人形が可哀想だと言っていた。今までも模造を憎みながらも哀れんでいるようだった。 だからなのか、面と向かって模造を罵ったことはなかった。 だが今日は違うらしい。 (どうしたんだろう) 戦いの繰り返しに疲れたのか。有り得そうなことだ。 もう何体も壊し続けている。精神的にもかなりの負担になっているはずだ。 精神が傾き始めているのだろうかと思っていると、泉は不意に模造の頭部を両手で持ち上げた。 「泉さん…!」 もし何かあったらどうするつもりかと慌てて止めに入った恭一の声も聞かず、泉は模造の目を睨み付けた。 「いや、貴方は妬ましいんでしょうね。貴方の感情が人形に少しずつ染みている。数を重ねるごとに生々しさを見せるのはそのためでしょう?」 泉に言われ、恭一は目を見開いた。 そうだ。初めて模造を見たときは泉が作り出した人形とは比べ物にならないほど作り物らしかった。人の手で作ったのだから当然なのだが、その人工物が動いている不気味さが非常に忌まわしく映った。 だが今はどこか緋旺に近付いているような雰囲気がある。意識のようなものが淡く漂っているのだ。 (いつからだ!?) はっきりと気が付くことが出来ないほど徐々に変化してきたのだろう。だがそれを実感していなかったことに愕然とした。 それは緊張感と注意深さが欠落していることの証拠だったからだ。 慣れが、来ている。 「けれどいつまで経っても僕には近付けない。無駄ですよ。これからだって無駄だ」 泉はまるでそこから誰から伝わっているように語りかけている。 特定の誰かに対する言葉なのだ。 (そうだ、あの目は盗撮しているって) あれはどこかに繋がっているのだろう。そして泉はまるでその先が分かっているかのように喋っている。 「人形を幾ら壊しても平然と作り続ける貴方には決して分からない」 泉が氷のような声でぶつける。 怒りと表することすらすでに通り越してしまった。ただ冷たい憎悪が宿っている。 「人には分からない」 ぞくりと恭一の肌が粟立つ。 他者と一線を画しては、排除しようしている様に感じられるのだ。 しかもそれを寂しいだの何だの言うことすら許さないほどの意志がある。いや、意志と言うよりそれは呪縛のようだ。 あらかじめ決められている、抗えないものであるかのようだ。 しかもそれを人間全てに突き付けているのだ。 当然、恭一も例外ではない。 (……でもそれを泉さんはおかしいとは、寂しいとは思わないんだろうか) 自分の心は締め付けられ、今にも泉の細い身体を抱き締めたくなるのに。泉はそれを望まないのだろうか。 払いのけるだろうか。 (模造と向かい合っている時の貴方はいつも、遠い) 恭一がいる世界ではない、別の場所に立っているような気がするのだ。 だが泉はそんなことを気にする素振りもなく、持っていた頭部から手を離した。重力に従って頭部はアスファルトに落下し、緋旺はそれを待っていたようにナイフを振り下ろした。 「泉さんは、あの模造の目を使って誰が盗撮しているのか、見当が付いてるんですか?」 模造を壊した帰り道。車の中で泉にそう問い掛けた。 だが帰ってきたのは否定だけだ。 分からない。 緩く首を振っては、緋旺が入っているアタッシュケースを撫でていた。 その割に特定の誰かに向けて話しているようだった。 しかしずっと分からないとされていた相手だ。もし分かっていたとすれば泉は迷うことなく動き出していることだろう。 早く紅の敵を討ちたいと思っているはずなのだから。 「あの人形直せるよね?」 模造が現れたと電話で連絡が入る直前、恭一は以前補修を頼みに来た女性が持っていた人形を見ていたのだ。 前回より酷い状態になっている胴体は、きっとまた作り直しだろう。 眼球もまた新しい物がはめられることになる。 けれど肝心の顔はまだ補修が効くレベルだった。 しかしその見解を喋る前に模造の情報が耳に入ってきたのだ。 「はい。顔は大丈夫です。胴体は無理そうですが」 「うん。それは分かってる。作り直すよ」 泉はやや表情を和らげてそう返事をしてくれる。 それから帰宅して風呂に入り、二人は寝室にいた。 時刻は深夜に近くになっている。互いに湯気をたてるコーヒーを飲みながら、落ち着いていた。 「また返すんですか?」 人形を渡すことを渋っていた泉は、補修した後の人形をどうするのかと思った。 問い掛けた後に浮かんだ苦笑を見て、恭一はその答えを知る。 「返さないよ」 はっきりと、迷いなく言い放つ。 それはあの女性に人形を返そうかどうしようか考えていた時よりずっと表情が晴れていた。 「もうあの人には無理だ」 泉は一度あの女性に希望を託したのだ。人形を大切にして欲しいと願っていた。それが裏切られたのだ。 再び願うことはないだろう。 可愛い人形を傷付けられるのは、一度で十分過ぎる。 「どうして、なんですかね」 泉の決意は分かるのだが、あの女性が人形を壊す理由が分からない。 (だって俺からしたらすごく大切にしてるみたいに思えたのに) あんなに泣いていたのにどうして壊してしまうのだろう。 「母親の代わりだったらしいよ。もう亡くなってしまった母親の」 あの人形が生まれる経緯は一通り聞いている。なので母親のこともちらりとは知っていた。 「越えられずにいる母親がそこに見えるんだろう」 (それは母親を憎んでいたってことなんだろうか) 刺してしまうほどの憎悪があったというのか。 そこに母親を見出しながら、鋭いはさみで人形を貫く女性の姿を想像して、恐ろしいと思うと同時に悲しい光景だと感じる。 親をそこまで憎むのは、どんな理由があっても切ない。 「恋しさと憎しみでああなったんだろうね」 (そうだ……きっと憎しみだけじゃなかったんだ) ひっかかりを覚えていたものが、それであるのだとようやく理解出来た。 女性が抱えていた感情が深すぎるのだ。人形を壊しながら何故あれほどまでに必死になって直してくれと泣くのか。何故そこまで心砕くのか。 恋しい、だが憎らしい、恨めしい。様々な気持ちが混ざっていたのだろう。 人形に向けられる許容量を越えたものをぶつけていたのだ。 「親子は、複雑ですね」 他人が介入出来ない、狭い場所で長い間付き合っている分、積もる物があるのだろう。 「恭一君も恨んだりした?」 「いえ、うちは理解ある人で、どっちかと言うと仲いいですよ」 父は人形師になりたくともなれなかった人で、恭一が人形に関わっていることを喜んでくれており、色々手助けしてくれる。 母も恭一のやることに反対することもなく、成績を落とすならともかくやることをしっかりやっているのなら止める理由もないと、好きにさせてくれている。 兄弟で衝突はあるけれど、憎らしいと思ったことはない。子どもの頃は本気で怒ったり、恨んだりもしたけれど、大人になれば幼かったなと思える程度だ。 平和なものだった。 「でも一緒に暮らしていると、色々とあります」 思春期の時に、反抗期を迎えて親と衝突したこともある。家族に酷い暴言を吐いたこともある。今は時間に流されて忘れてしまえるようなものだが。 (でも俺にとっては流せることでも、他の家族にとっては傷になってるかも知れない) それは分からないのだ。家族であっても。 「そうだね。たぶんそういうものだと思う」 泉は恭一の小さな葛藤をも見透かしたように、優しく笑んで頷いた。 「泉さんのところはどうでした?」 「うちも仲良かったよ。それに、僕たちは人形たちと合わせて一つの形、みたいなものだったし」 朝日奈は人形があってこその存在。人形のために生きて、人形のために死んでいくような生き物。 そう朝日奈の人間は嬉しそうに語る。 傍らに、共にいて欲しいと思う人間がいたとしても彼らの気持ちは変わらない。 (そういう人種だから) 「何か言いたげな顔してる」 泉はテーブルにマグカップをと置くと恭一の頬に触れた。 きっと情けない顔をしていたことだろう。 「自分は人間じゃないって言ってるみたいですね」 こんなにも人なのに、あったかくて、優しい人なのに。泉はそんなことには関心がないみたいだ。 それが無性に寂しかった。 次 |