嗚咽を零しながら女は呼吸を整え始めた。
「私にとってその人形は、母の人形と同じように思えました」
「そのようですね」
 母の人形と同じように作ってくれと言われたのだから、造作を酷似させるのは当然のことだった。
 それが原因であることも、勘付いてはいたのだ。
「母は良家の出で、大変気位が高く厳しい人でした」
 ぽつりぽつりと語り始めた女の声は小さいながらも乾いていくのが分かった。
 それは亡き人への感情そのものに思える。
「一人娘である私の教育にとても熱心で、いえ……教育と呼べるのかどうかも分からない…」
 顔を覆ったままの女が、その掌の下でどんな表情を浮かべているのかは計れない。だがなんとなくもう泣いていないのではないかと思われた。
 女の声は悲しみを消して、ただひたすらに空虚だったのだ。
「所作一つ一つ注意され、やれ笑顔が出来ていない、立ち振る舞いが美しくない、言葉遣いはもっと丁寧に、背筋をしゃんと伸ばして、どうして言われたことが出来ないの。なんで分からないの」
 女は止まることなくするすると言葉を紡いでいる。
 それはかつて母親に言われたことなのだろう。
 それまでの口調と違って、きんっと堅く強い言い方はきっと母親のものを真似ているからだ。
 どことなくヒステリックな雰囲気があるのは、女がそれに抑圧されてきたせいか。元の母親がそうであったのか。
 どちらにせよ、母親との関係が恐ろしいほどに張り詰めていたことだけは察せられる。
「こんな子に育てた覚えはないわ。お母さんに恥をかかせないで。どうしてそんなに駄目なのかしら」
(否定的なことばっかりだな)
 泉は認められて育てられた子どもだった。
 父は厳しい人だったが、それでも泉を全否定することなく、人形師の才能も、泉自身の性格などまで受け止めてくれていた。
 祖父や人形たちはもう言うまでもない。
 だからこんな風に、駄目だと言われ続ける環境というのがどういうものなのか上手く想像出来ない。酷く辛いものだという曖昧なことしか分からないのだ。
「そう言われ続けました。幼い頃にはあまり人懐っこいとは言えず内向的だった私を、母は気に入らなかったのです。奥に引っ込もうとすればするほど、母は怒りました」
 きっと母親との性格はまるで反対だったのだろう。
 だから二人は相容れなかった。
「けれど叱られれば叱られるほど私は萎縮して、益々内にこもるしかなかった……」
 恐ろしいという印象を抱かせるような教育では、全く逆の効果しかないのだと母親は気が付かなかったのか。そこまで考えるほど、子どもとは向き合っていなかったのか。
 まるっきり他人である泉にはそこまでは分からない。
「父も亡くなっていて、頼る人などおらず。私は耐えるしかありませんでした」
 子どもは家庭の中で辛い仕打ちを受けると、他に逃げ場がない。
 幼い内はどうしても親との繋がりが切れないのだ。
 一人きりで生きていくことが出来ない無力さが女を押し殺していったのだろう。
「そんな母の傍らにはいつも人形がありました。母はその人形がとても好きで」
 女はようやく顔から手を離した。
 涙を流し続けていた瞳からは感情が消えていた。
 それこそ、卓の上に置かれている人形のように虚ろな眼差しをぼうっと畳に向けている。
 女の意識は現実ではなく自分の記憶の中にあるのだ。
「私はよく人形と比べられました。人と人形を比べるなんておかしないことですが、母はそんなことなど気にしていないように、人形を可愛がっていました」
 いくら泉でも、人形は生き物ではないという認識はある。ましてそれが朝日奈のものでなければ、生物という認識は正しくないと言える。
 しかし女の母親はおそらく人形を生き物のように扱い、そしてそれを人間と比較したのだ。
(それは、良くないな……)
 人形は作られたものだ。人間の手によって、人間の欲を元にされている。だから人形たちは完璧でいられるのだ。
 きっと母親は人形の完璧さを気に入っていたのだろう。なので娘の不完全さが気に入らなかったのか。
「貴方みたいな出来の悪い子ならお人形の方がずっといいわ。この子の方が良い子だしとても可愛い。この子が娘だったらいいのに」
 気力が根こそぎ奪わせれたように女は淡々と語る。
 人形を子どもの代わりにするというのはよく聞くことだが。目の前の娘より人形を選ぶというのは、残酷なことだ。
(歪んでるなぁ)
 その歪みは娘をも飲み込んだ。
「私への当てつけではないのです。母は、いつも本気でそう言っているようでした。その証拠に、最後まで気に掛けていたのは人形のことでしたから」
 淡く女は微笑んだ。
 射抜き殺そうとせんばかりの瞳を見せたまま浮かべる笑みは、狂気にも近い。
(きっとこの人にとって、それが一番心に突き刺さったことなんだろう)
 最後の最後まで自分ではなく人形を選んだ。それが女の中で大きくのし掛かっているのだ。
「人形は母に抱かれながらずっと私を見ているようでした。母と同じように、私を駄目な子だと言っているようでした」
 きっと女の目には、母親に付随するものとして人形も母親と同等のものに染まっていた。だからただそこにいるだけだとしても、そう感じたのだろう。
「ずっと私を見下していた」
 人形以下だと言われた娘は、その人形に対しても劣等感を覚えることになったのだ。
 本来ならば人が抱くことはないだろう歪な形だ。
「いなくなった今も、その瞳が目に焼き付いているんです」
 人間は取り戻すことが出来ない。生命は一つしかないからだ。
 けれど人形であるのならば、作り物であるのならぱ再び手に入れることが出来るかも知れない。
「だから人形を求めたんですね?」
 女は笑みを消して、心細そうに肩を落とした。
 自分が間違っていると感じているのかも知れない。だから泉の問いに視線を彷徨わせる。
「認めて欲しかったんです」
 壊したかったわけではないのだと女はその言葉に込めているようだった。
「お母さんに、ですね」
 女が本当に欲しかったのは人形ではない。人形の目ではない。
 最後まで自分を見てくれなかった母親だ。そして自分を見て欲しかったのだろう。
「そうかも知れません。ですが私は人形と母は通じているものでした」
 もはや女の中で人形の視線は母親のものと変わらない。
「その人形を作って貰っても、人形が私を嗤っているとしか見えなかった。あの人形と同じように!」
 女が激昂したように声を荒らげた。
「この子は貴方を慕っていました」
「そんなの分からない!」
 人形はそうして生まれてくるのだと言ったはずだ。けれど女はそれを否定する。
 こうなっては泉は喋る気を失う。
「私にはあの時と同じ目にしか見えない!魂が宿ると言うけれど、あの子と同じだとしか見えない!」
 それは違う。貴方がそういう目でしか見ないからだ。
 初めから色の付いた目でしか見ていないからだ。だからこの子が見えない。
 そう泉は思う。だが自分の殻から出てこない女には何を言ったところで無駄だ。
「あの人形と同じ、でも違う人形が欲しかったのに」
 そうは思えないと女は嘆く。
 だがその嘆きは泉にとってはとても滑稽なものだった。
「貴方が言う人形とこの子とは全く違っていましたよ。それが貴方には分からなかっただけです。分かろうともしなかった」
 それだけのことだと泉は伝える。
 母親との確執は哀れだと思う。だが単純に可哀想だという感想を付けるだけだ。
(この人の歩んできた道のために、この子を犠牲に出来るはずがない)
 どのような理由であったとしても、人形を殺されることを許せるはずがない。
「その結果が凄惨な形になった。だから貴方に人形は渡せない」
 決定権は客にあるのではない。朝日奈にあるものだ。
 どれだけ金を積まれたところで、脅されたところで、朝日奈は人形の望まないことは出来ない。
「お願いします!二度とこんなことには!」
 人形を取られるという事態に女が再びすがる。けれど泉は双眸を不機嫌そうに細めただけだった。
「繰り返すだけですよ。貴方は自分の記憶に捕らわれている。忘れられない以上、何も見えはしない」
 母親に縛られたままではどんな人形を傍らに置いたところで、最後は変わらない。
 壊してしまうはずだ。
 女は気が付いていないかも知れないが、人形の瞳自体に嫌悪を持っている節がある。
「傷付けるだけです」
「そんなことはしません!ですから!」
「小桃、お金の用意を」
 そう指示すると小桃は頭を下げた。
 一端部屋から下がり、金庫へと向かうようだった。その前に携帯電話でどこかに電話をしている声が聞こえる。
 おそらく緋旺を呼んでいるのだ。
 自分が席を外している間に泉に危険が及ばないように、守る存在が欲しいのだろう。
「待って下さい!朝日奈さん、もう一度。決してこんなことにはならないと誓います」
 土下座しながら女は訴える。
 ここまですがるのは、人形の目がなければ自分を律せないのか。自我の認知が出来ないということだろうか。
 人は他人を通して自分の姿を認識するものだが、この女は自分の母親と人形で自分を見ることが出来たのかも知れない。
(自分を見失うかも知れないから。だから必死になるのか)
 だが自分を失おうがどうなろうが、泉には関係がない。
「もう一度なんてありません。一度、なんてもう貴方にお渡しした後ではありませんか」
 それを泉は悔やんでいるのだ。それなのにまだ繰り返すはずがない。
「私は他人にそこまで希望は持てませんし。基本的に人間を信用しておりませんから」
 にっこりと微笑むと、それがどれほど冷酷に映るのか泉は理解していた。
 崖っぷちの人間に向ける笑みほど、冷たいものはない。
「人間は嘘を付く。自分のためなら他者を平気で踏みにじる。だからこそ、希望を寄せるには相応しくない」
 皮肉だった。
 人形を壊された怒りは、まだまだ積み重なるばかりで遠ざからない。
「……貴方も人間ではありませんか」
 一向に揺るがない泉を恨むように女が呟いた。
 畳の上にあった手はいつの間にか拳になっている。
 叶わない願いを、失ってしまった母への感情を握り締めているかのようだ。
「朝日奈は人から少しばかり離れておりますから」
 人は人はと言うが、おまえも人間ではないかという女の嫌味に泉は簡単に答えた。
 朝日奈は人間であって、人間ではない。
 その魂は人形と共有している。現に泉は身体の一部を人形と繋いでいる。
「だから貴方の気持ちも分からない」
 人形を踏みしめてまで、自分を立ち直らせようと足掻くその気持ちなど分かるはずもない。
 今はただ小桃が持ってきた金を女に叩き付けて、早く壊された人形を直してあげたかった。もしかすると魂がまだ残っているかも知れない。
 女の嘆きなどより、人形と対しているほうがずっと価値がある。
(僕は人間としては壊れているんだろう)
 きっとこの女より深く、どうしようもない部分で崩壊している。だがそれでも泉は問題ないと思っていた。
 これでも十分幸いを得られる。



 


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