女が再び人形を持って、泉の元を訪れた。 壊れたと電話で聞いていたのだが、恭一は呼ばなかった。 そして人形を目にして、その判断は正しかったのだと分かる。 全身に細かく入ったひび。今度は右目をえぐるようにして穴が開けられていた。 砕けたグラスアイが眼窩とはもはや言えない虚ろな穴に粉として残っている。 女は泉の前で泣いている。 既視感を覚えるのだが、一ヶ月ほど前もこの女が泣いているのを見ているのだから、無理もないだろう。 「これは無理ですね」 泉は冷淡な声でそう言い放った。 女がはっとしたように泣き顔を上げるけれど、そんな表情にも心は揺れない。人の涙などより、人形の悲鳴の方が泉にとっては痛いのだ。 「補修することは不可能です」 「そんな……!」 女が悲愴な目ですがりついている。だが泉はそれを突き放すように言葉を続けた。 「もう限界です」 これは相手が女でなくとも同じことを言った。 今にも息が途絶えるのではないかと思うような儚いすすり泣きを耳にして、まだ頑張れと言うほど泉は非情ではない。 辛いと訴える声を叩き付けるような真似など出来はしないのだ。 たとえそれが目の前の女を絶望に突き落とす結果になったとしても。 「なにとぞ、どうか!」 今一度と懇願する女に心が冷えていくのが分かった。 「人形は愛情を持ち、持ち主を慕います。従順な優しい子ばかりです。その分愛情にはとても敏感で、忍耐も強い」 それがどれほど人にとって心地良い相手であるのか、女は考えたことがあるだろうか。きっとないはずだ。 (だって貴方は人形のことなんて、きっと一瞬も考えたことがない) この人形がどんな気持ちでいるかなんて、きっと頭の中には僅かにだってなかったはずだ。 「人などよりずっと慈悲が深い。その子がこうなるまで貴方は何をしたんですか?」 以前壊れた人形を持ってきた際には、誤魔化しを許した質問だった。 だがもう、泉は偽りには騙されない。 女はそんな泉の意志を感じ取ったのか、怯んだようだった。 視線を落として自分の手元を見ている。その手で何をしたのか覚えていないはずがないだろう。 「貴方はこの子を大切にすると仰った。だから私は人形を作った」 初めて女と会った時、人形に対する情熱が伝わってきた。貴方ならば人形を渡しても大事にしてくれると思った。それだけの気持ちがあの時にはあったのだ。 けれど、いざ女の元に人形が行った後。泉が目にしたのは痛ましいものだけだ。 「それなのに貴方がここに人形を持ってきた時、人形は悲鳴を上げて泣いてばかりだ。正直前回ここに持ってこられた際には貴方に人形を返したくはなかった」 この子は持ち主に傷付けられたと泣いていた。 あんなに酷く辛いと訴えてくるのは、他の誰でもない自分が慕っている相手だからこそだ。 それでもまだ人形は持ち主を捨てられなかった。 (この子はあの時、まだこの人を好きだったんだ) こんな酷い姿にされてもまだ、人形は人を見捨てないのだ。 情の深さに泉は人形を直した。どうかちゃんと大切にして貰えるように、この子の気持ちが伝わるように祈っていた。 悲しいことにそれが儚いことだとは薄々感じていたのだ。人形自身もそう感じているようだったので、初めから結果が見えているようなものだった。 (それでもって、願ってしまったんだ) 非情な結果になってしまったことに、泉は自責の念にかられる。 「貴方が人形をこんな風にしたことが私には分かっていた。人形は幼い子の悪戯ではここまで酷くならない。でもこの子は悲鳴を上げていた。それは持ち主に関わることだけです。それでも補修をして貴方に返した」 分かるだろうか。 この子の切なる思いが。 (僕の気持ちは分からなくてもいい。でもこの子の優しい心を微かでも汲み取って欲しい) 「貴方に願いを託したんです」 女に後悔を促しているのではない。それは自嘲だった。 馬鹿なことをしたと、自分に語りかけているようなものだった。 「でもそれは裏切られました。二度はありません」 正面に座る女はぴくりと肩を震わせた。 これでは叱っているみたいだ。 泉はこの女がどんな精神をしているのか、どう生きていくのかなど、どうでも良いのだ。だから説教などということはしない。 進むべき方向が何であれ、もはや泉はこの女に再会することなどないからだ。 もう二度と人形を求めることは出来ないのだということだけ、理解して貰えればそれでいい。 「お願いします」 女は身を引いてから土下座をした。 額ずく様を泉は冷淡な眼差しで見下ろす。 「お断りします」 卓に置かれた人形はこんな泉の冷たさに反応しない。もう感情は枯れており、何に対しても心を動かせないのだ。 前回連れてこられた時は、こんな時に切なげな雰囲気を生み出していたというのに。そんな気力をも、この女は奪ったのだ。 「可愛い子たちが傷付くと分かっていながら、誰が渡すでしょうか」 冗談ではないと泉は突っぱねる。それに女は顔を上げて迷いを見せた。 「ですがその人形は私が買った物では」 金を出して作らせたのだから所有権は自分である。 そんなことを口走る女に、泉の目が完全に据わった。 確かに女から依頼されて作った人形だ。金も貰っている。 けれど朝日奈の人形は金だけで得られる物ではないのだと、事前に説明している。朝日奈もまた金だけを目的に作っているわけではない。 何より、短時間であるとはいえ自分の手元で共に過ごしたはずの人形に向かって「購入した物体」という扱いをされるのが、非情に癇に障る。 「小桃」 泉は多少声を大きくして、この家に住んでいる人形を呼んだ。自ら動く彼女を人形だと知っている者はごく限られており、目の前の女は自分が破壊した人形と小桃が同じ存在だなんて知りもしない。 そっと淑やかな椿の着物を纏った小桃は襖を開けて頭を垂れる。 泉が客と会っている際には必ず近くに控えているのだ。万が一何かがあった時には身を挺して守ってくれる。 「代金は補修金も合わせて全てお返しします。小桃、用意して」 「はい」 「待って下さい!」 泉がどうしても人形を引き取るつもりだと分かったらしい女が食い付いてくる。 それに小桃も動きを止める。危害を加えられる可能性を思ってのことだ。 「物は売るために作るのではないんですか!?」 売るためにそれは有るのではないのか。女はそう詰問してくる。 高圧的な物言いをしているけれど、後ろがないという切羽詰まった気持ちが表れていた。 「私はただの物を作っているわけではありません。それは御存知のはずです」 だからこそ、決して安いとは言えない金額を払って人形を求めたのだろう。 魂が宿ると聞いたから、貪欲なまでに欲したのだ。 「……お願いです」 肩から力を抜いて、女は泣き出した。 金を出したのだからと強気に出たところで何にもならないのだと、理解したのだろう。 だから情に訴えようとしている。 けれどそんなことで揺るぐ段階は越えてしまっているのだ。 「何故、人形にこだわるのですか」 どうしてそこまで執着するのか。 泉の前で女はひたすらに人形を欲しがり、人形のことを考えているようだった。 母親が持っていた人形がいなくなってしまったから。 そう話していたが、決して懐かしさだけではないものがそこにあるのだろう。 (この人は歪んでいる) 「自らの手で人形を壊されているのでしょう?」 女がひっ、と悲鳴を飲み込むようにして息を呑んだのが分かった。 隠しきれるとでも思っていたのだろうか。 泉はもう何度も女に問いかけていたのに、貴方のせいだろうと言っていたのに。決定的なことを投げられるまで、誤魔化せるとでも思っていたのだろうか。 この人はもしかすると泉が人形に魂を入れられるなんてことも信じていないのかも知れない。 人形の声が聞こえるなんて想像もしてないのかも知れない。 「それなのにどうしてですか」 尋ねてはいるけれど泉の疑問ではなかった。 これは傍らにいる壊れてしまった人形が知りたいことだ。それを代わりに泉が話しているだけだ。 (それが分からなければ、あまりにもこの子が不憫だ) 慈しみの心を持ったまま、訳も分からず壊されていたなんて。心の傷が深すぎる。 自分の中に有りもしない出来損ないの部分を探しているのかも知れない。自分が悪いのだと勘違いしているのかも知れない。 それではあまりにも可哀想だ。 だからせめてその悲しみだけでも解き放ってやりたかった。 そのために泉は女の行動の訳を聞く必要があった。 女はそんな質問を拒絶するかのように、両手で顔を覆った。 次 |