小桃と共に玄関に入ってきた老人に、泉は微笑んだ。
「お久しぶりです」
 頭を下げると皺が目立つ顔を更に皺だらけにして老人が笑顔を見せる。
「久しぶり。立派になったなぁ」
 のんびりとした声はやや掠れており、彼が積み重ねた年月がそこに込められているようだった。
 真っ白になった頭髪に、曲がってしまった腰。だが穏和な瞳はそのまま泉を見守ってくれている。
 根本さん、根本さん、と幼い声で呼んでいた頃が懐かしい。
 祖父の元で何年も修行をしていた弟子の一人が目の前にいる根本だ。
 可愛らしい日本人形を作るのが得意で、泉はかつて雛人形の作り方を教わったことがある。
 釈迦に説法ですなぁと笑っていたけれど、根本の作業を眺めていて学ぶことは多々あった。
 何より根本は人形が大好きで、慈しんでいてくれたことをよく覚えている。
「毎年そう仰ってますね」
 根本は泉に会うと必ずと言って良いほど、立派になったと言ってくれるのだ。
 一人になってしまい、朝日奈の名前を背負わなければならなくなった時には、その言葉に励まされたものだ。
「いやいや、年々輝きが増してますよ。小桃も喜ばしいでしょう」
 根本は傍らの小桃に話しかけている。
 長年祖父の教えを乞うていた根本は小桃が人形であることを知っている。他にも魂を持って自ら動く人形たちにも会っていた。
 なので懐かしい友達に語りかけるように、小桃に接するのだ。
「はい」
 小桃は根本に柔和な笑みで答えていた。
「その割には小言をいっぱい貰ってますよ」
 目の前で満足そうに小桃は頷いているけれど、なかなかに手厳しいことも言ってくれる。主に日常生活の態度に関してだが、その姿はまさに母親という感じだ。
(僕の母親代わりになってくれてるってことなんだろうけど)
 遠慮のなさは昔から泉にぶすりと刺さる。
「それとこれとは話が別ですよ」
 にっこりと笑顔で小桃は釘を打つ。綺麗な顔であるだけに迫力まで備わっていた。
「手厳しいなぁ」
「それも情ですよ」
 からりと根本は笑っている。
 その姿勢はまるで祖父のようで、泉の笑みは深くなる。 「さあ、どうぞ」
 玄関に上がり、二階へと案内する。根本の歩みは泉が思っていたよりゆっくりになっており、その足取りもやや危ういものがある。
 泉がはらはらと眺めながら手を出した方が良いだろうかと思いながら階段まで来ると、ごく自然に小桃が根本に手を添えた。
「さあどうぞ」
 白く細い手は根本の腕にそっと触れた。
(ああそうだ。じーちゃんの時もみんなこうしてた)
 年を取った祖父に、人形たちはよく寄り添いたがった。そして動作が乱れることがあればそっと手を出していたものだ。
 その主になるのが階段だった。
 泉はかつてそうして小桃が祖父を支えていたのを何度も見ている。
「ありがとう」
 根本はそう礼を言いながら小桃と共に階段をゆっくり上る。
 一段一段踏みしめるような足取りはかなり遅い。だがその速度と共に動きながら、こうして時間を過ごす人もいるのだということを再確認していた。
 きっと根本は毎日をこうしてゆっくりと生きているのだ。
 それが勿体ないと思う人もいるだろう。特に若さがあればそう感じる傾向が強いのかも知れない。
 だが泉はそうしてゆったりと過ごすことで見えるものもあるのだろうと、二人のやりとりを見て感じていた。
(じーちゃんと感覚が違うと思っていたけど。僕は幼かったから)
 生前の祖父とは色々と感覚が異なると思っていた。人形に対する気持ちにも、異なる目線でいたのだ。それはこういう瞬間を積み重ねていたかどうかも、関わっていたのかも知れない。
 二階の和室に付くと、泉は仏壇へと根本を導いた。
 祖父の位牌がそこにある。
 根本は毎年、祖父の命日近くになると訪れるのだ。
 頭を下げて線香をあげ、祖父との記憶を思い出している。
「……何度繰り返しても、儂にはまだ納得したくない気持ちがありますよ。師匠」
 小さな語りかけは亡くした人へのものだ。
 泉は小桃と共に根本の傍らに座りながら、位牌を見上げる根本の目はあの時のままだなと思っていた。
(この人の中に、祖父はまだ生きているんだろう)
 死んだと分かりながらも、まだどこかにいるのではないかという有り得ない想像をしてしまう。そんな切ない思いを、根本も持っているのだろう。
「儂なんぞより、ずっとずっと長生きして欲しかったもんです」
 根本は泉に身体ごと向き合い、そう寂しげに言った。
 残される人はみんな寂しい。
 泉は祖父にも、父にも、そして半身としていた蜜那にも置いて逝かれた。その寂しさは実感している。
「本人に未練はないようでした。人形に囲まれて逝ったのですから」
 祖父は病院ではなく、自宅を最期の場所に選んだ。
 朝日奈の人形たちと共に、命を終えることを望んだのだ。
 そしてその通りになった。
 作品が比較的多かった祖父は、自分の作り出した人形たちに見守られてそっと息を引き取ったのだ。非常に安らかな表情だった。
(人形師としては、すごく幸せな最期だった)
 出来ることなら自分もそうして、逝くことが出来るのならと思ってしまうほどだ。
「きっとあれはあれで良かったんだと思います」
 慰めるだけでなく、泉は本心でそう言う。けれど根本は渋い表情で俯いた。
「ですがあの人の元でしか生まれて来なかった人形もまだいたかも知れないのに」
 惜しい、そう語る人は見もしない人形に会いたいようだった。
 その姿に祖父を偲ぶ気持ちが強くなる。
「根本さんは、本当に祖父の作る人形が好きだったんですね」
 祖父と共に人形を見ていた時の、あのきらきらとした根本の双眸はまだ変わっていないのだ。
 きっと今もあの希望に満ちた気持ちは、根本の中で息づいているのだ。
「朝日奈の人形は全て特別ですが。その中でも師匠の人形は、私にとっての宝です」
 崇拝にも近い思いで、祖父を慕っていたのだ。
 そして祖父もそんな根本を気に入っているようだった。
 師匠と弟子という関係だけでなく、友人のように接していたものだ。
「きっとじーちゃんは喜んでます」
 祖父ではなくじーちゃんと言ったのは、小さな頃祖父と根本が酒を呑みながら楽しげに話していた光景を思い出したせいかも知れない。
「お弟子さんの中には、祖父に憧れながらも恨んでいるような節の人もいましたから」
 ぽろりと、まるで記憶から転がり落ちたようにそう喋っていた。
 それには根本だけでなく、小桃までも驚いたようで身じろぎをした気配が肌で分かった。
「儂らの中に、ですか?」
 心外であるという顔をされ泉は苦笑を浮かべた。自分たちはそんな感情を持っていないと主張するのは分かる。
 弟子たちには弟子たちの団結力というものがある。仲間意識の前では、ねたみやそねみなども霞むものだろう。まして弟子同士に向けられていたものではないのだ。
 尊敬と勘違いされても無理はない。
「そんな者は一人もおらんかったと思うんだが」
「そうでしょうか」
「泉?」
 根本の言うことに同意しない泉に、小桃まで怪訝そうな声を上げる。
「師匠のお人柄なんでしょう。恨みねたみのある弟子なんぞおらんかったはずだが」
 困惑する根本に、泉は淡い自分の記憶を蘇らせる。
 不鮮明なので、根本に強く反発されると揺るぎがないとも言えない。
「では僕を見ていたのは誰なんでしょうか。祖父も父も、小さかった僕も恨んでいるような目だけ覚えているんですが」
 泉が小さかった頃、まだ物心付くか付かないか分からない頃には、泉はあまり家の外と接する機会がなかった。
 外で遊ぶにも周囲には同い年くらいの子はそういなかったし、家で人形たちと一緒にいる方が楽しかった。
 なので自分にあんな視線をぶつけたのは弟子たちの誰かだと思ったのだ。
「お弟子さんじゃなかったのかな。なら、誰なんだろう」
 客だっただろうか。しかし客が泉のいる奥の部屋まで来られたとは考えづらいのだが。
 一人悩み始めた泉の前で、根本が唸った。
 その声はとても低く、見ると根本の目がどしりと据わった。
 背後からは激情が立ち上っているようだ。
 いきなり激怒にも近い憤りを見せつけられ、泉は呆気にとられる。
(そんなにまずいこと言ったか?)
 根本が激変するようなことだっただろうか。侮辱に取られたとすれば申し訳ないのだが、弟子に対してそんな疑いを持つことはやはりいけないことだったか。
 それにしてもこんなに怒った根本を見るのは初めてだ。
 思わず助けを求めるように小桃をちらりと横目で見たのだが、何故かこちらも厳しい表情だった。
(えぇ!?何!?そんなにデカイ失言だった!?)
 二人の逆鱗だったのかと戸惑いながら、記憶を深く探ろうとした。間違いだったのなら謝らなくては思いながら、何故か手は首をさする。
 根本が来るからとあまり派手な格好は出来ず、首からぶら下がっているのはシンプルなプレートだけだ。
 そんな仕草にも、根本の眼光が光った。
「……あの」
 二人してそんなに怒る理由はどこに、と問いかけようとする。しかし小桃の溜息の方か早かった。
「忘れられるものでも、ないかも知れませんね」
 それに根本が正座した膝の上で拳を握った。
「誰を思い出されたのかは知らないが。儂らの間で坊ちゃんに辛く当たる者なんざおらんよ」
 坊ちゃんと言われると懐かしさが込み上げる。
 高校生になるまで、根本には坊ちゃんと言われたものだ。
 子ども扱いされることは嫌ではなかった。可愛がってくれていることは感じていたからだ。けれど思春期にはやはりその響きがくすぐったくて、止めてくれとお願いしたのだ。
「思い出したっていうか…。よく分からないんだけどそんな光景を覚えているんだ。お弟子さんたちはみんな僕に良くしてくれたよ。でも、それでも刃物みたいな目を覚えてるんだ」
 心のどこかにずっと引っかかっていたものだ。それが急にぽっと泉の表層に浮かんできた。
 過去を振り返れば振り返るほど、それは強くなっていく。
 根本は舌打ちをしては忌々しげに頭を抱えた。
「人は不思議なものですね。忘れていたと思っていたことでも、身体のどこかは覚えている」
 小桃はそう切なげに告げては、小さく肩を縮めた。
 周囲の空気が重苦しくなる中当人であるはずの泉は居心地の悪さに視線を彷徨わせた。



 


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