自分が好きな人に、自分より近しい者がいる。 緋旺は特別な存在だからと知りながらも、傾いてしまう機嫌を感じてしまう。 泉に心が狭いと言われるが、独占欲というものは人であるのなら持ってしまうものではないのか。少なくとも恭一は自身のこの気持ちを異常であるとは思っていなかった。 だからつい、口から反論が出ていたのだ。 「壊されたら、泣くものだと思うけど」 人形が泣いているから。そう泉は言うけれど、自分の身体が壊されれば誰しも悲しいと思うものではないのか。 人形に痛覚はきっとないのだろうが、それでも完全であった己が欠けてしまうのは喪失感があるだろう。 「身体を戻したら、元に戻るんじゃないのか?」 (持ち主の元に帰していいかなんて悩まなくても) 身体が元に戻ったなら泣いていた子も笑うようになるのでは。そうすれば持ち主にも笑顔が戻るだろう。 泉はうがち過ぎではないのか。 そう言うと緋旺はそれに淡く笑んだ。 同意というより、窘めるような眼差しだ。 急に自分がとんでもなく愚かなことを口にしたのではないかという危惧が過ぎった。 「私たちは決して単純なものではないのよ」 緋旺の声は穏やかだ。だからこそ一層、恭一が浅慮であることを突き付けるように聞こえてきた。 「私たちは物であって物でない。朝日奈の人形は、ただの物質ではない」 分かるでしょう?という含みを持って告げられた声に、恭一は頷いた。まるで教えを乞うている生徒のようだ。 「魂?」 「そう。そしてその魂を引き寄せるのは泉。私たちは泉を通してこの世に生まれてくる」 (だから俺は、君たちが羨ましくて仕方がないんだ) 自分などでは到底手の届かない領域で彼らは泉と接触しているから。恭一の入り込む隙間がどこにもない。 「俺には分からないことが、泉さんには分かるってことか?」 「そうね」 生まれてくる苛立ちを押し殺しながら、恭一はややぶっきらぼうに口にした。その気持ちを感じ取ったように緋旺が表情を和らげる。 可哀想ねと囁かれているようだが、実際口にされるときっと舌打ちでもしたことだろう。 勝ち誇られているかのように見えるからだ。 「……悔しい」 抑えきれなかった感情を吐露する。泉の恋人になれたけれど、出会った時に比べれば随分近くに来ることが出来たけれど。 それでもまだ遙か遠くにいるような気がするのだ。 「恭一、それは」 ふっと緋旺の声が沈んだような気がして恭一は少女人形を見る。 瞳孔の奥に秘められている金色の緋。それが潤んだように感じられた。 だが艶やかというより、どこか寂寥感を思わせる。 (緋旺?) 常に凛然としており、背筋に堅い意志を一本通して立っているような緋旺がそんな色を見せたことに、恭一は驚いた。 だが薄紅の唇が何かを紡ぐより前に、リビングのドアが開かれる。 入ってくるのはただ一人、この家の主だ。 「お疲れさまです」 ぐったりとした様子でリビングに入ってきた泉は深く俯いていた。足取りも重く、相当な疲労が窺える。 恭一が声をかけるとゆったりと顔を上げて、瞬きをした。 (顔色も良くない。そんなに寝てないんだろうな) 人形制作の際に睡眠を削ってしまうことはよくあることらしいが。それでもこんなに疲弊しているのはそう見られるものではなかった。 人形と接している時間はとても楽しいので苦にならないと本人が言う通り、疲れていたとしても嬉々としているのが日常だ。 それが異なるということは、あの人形に対する迷いがまだあるのだろう。 「おかえり」 緋旺とは違い、泉は恭一を見るとそう言ってくれる。 それが嬉しくて、先ほどまでの機嫌の悪さなどすっかり忘れたように恭一は笑顔を見せた。 「ただいま帰りました。眠そうですね」 「そうだね」 泉はふっと力無く笑ったかと思うと緋旺の隣りに座った。 身体が重そうだ。 そんな細身で、恭一が楽に抱えてしまいそうな体重だというのに。 原色を数多く使って太陽を描いているシャツを着ているが本人の輝きはやや弱い。 「胴体制作、終わってないんですか?」 「うーん、あとちょっと」 かな、と言って泉は目を閉じた。 色濃いクマが苦悩に見える。 「泉さん、悩んでいるなら話してくれませんか。吐き出すだけでも楽になれるかも」 役に立ちたいという気持ちで提案するけれど、泉の肩は下がったままだ。 「ありがと。でもいいよ」 「俺じゃ力になれませんか」 人形に関しても、人生に関しても、恭一は泉よりも浅い。それは生まれた年齢の差でもあり、才能の差でもある。 だがそれでも泉のために何か出来ることはないかと考えてしまうのだ。 必要とされたい貪欲さなのかも知れない。 「そうじゃなくて、自分でも分からないんだ」 恭一が自分の無力さを嘆く前に、泉が苦しげに首を振った。 「何の判断もまだ付いてないんだ。そうとしか言えない」 我慢しているというより無理に出した言葉がたったそれだけであるようだった。 (……苦しいんだ) きっと泉の中には表せない感情が渦を巻いているのだろう。 その隣りにいる緋旺を見ても、淡々とした双眸の中に同情が浮かんでいるようだった。 「……風呂に入る、うん」 泉はこうしていてもらちが明かないと思ったのか、そう宣言して立ち上がった。 風呂に入ることで少しでも気持ちがすっきりするならば、良いのだが。 「あんな泉さん久しぶりに見た」 リビングから出ていった背中が見えなくなって、恭一はそう言った。 (蜜那を失って以来じゃないか?) あの時は抜け殻のようになった。あの時ほど酷くはないけれど、それでも辛いと感じていることに違いはない。 「そうね。でもそう長引きはしない」 緋旺は恭一に同意しながら、今度は別の新聞を手に取った。今度は経済新聞だ。恭一も今朝読んだ。 「そうなんだ?」 「昔は結構引きずったけど。これからはそんなことにもならないでしょう」 緋旺はこれからの泉が見えているようだった。 泉自身より深く泉を理解しているようだ。また溜息をつきたくなる。 「なんで?」 その理由がどこにあるのかと問いかけると、緋旺はちらりとドアを見て笑った。 何かの意図を感じさせる視線を追うと、泉が帰ってきた。 その手には着替えがある。 「恭一君も一緒に入らない?」 「入ります。無論です。入らないはずがありません」 即答だった。 一秒たりとも間をおかない返答に泉が軽く引いているのが見えるが気にしない。 (入らないわけない!一緒に風呂なんて!) なんて美味しい出来事か!と恭一は軽く感動しながら荷物を詰めた鞄を開ける。 そんな二人を見て緋旺は「ほらね」と呟いたようだった。 「恭一がいるから」 経済新聞をぱらりと開きながら、告げる言葉に恭一は口元が緩む。 泉が落ち込んでいる時に引き上げられる役目が出来ているのなら、嬉しい。 「どうしたの?」 「いえ、何でもないです」 貴方の力になりたいと願った気持ちが叶いそうで、嬉しいのだと素直には言えない。 それはさすがに照れくさい。 「さて、ゆっくり風呂場でリフレッシュしましょうか」 「満面の笑み過ぎて、ちょっと引くんだけど」 泉がすごく不安そうにしたが、恭一はそれ以上後込みさせることを許さず手を引いて風呂場へと連れていった。 人形はそれから半月後に持ち主へと返された。 丁度恭一が泉の家に滞在している時にそのやりとりが行われたので隣りで見ていたのだが。 泉は最後まで悩んでいるようだった。 持ち主は綺麗になった人形を見て、ぽろぽろと大粒の涙を流しては喜んだ。 何度も何度も頭を下げて、ありがとう御座いますを繰り返す様は見ているこちらの心を動かすには十分過ぎるものだった。 恭一などは補修をして良かったと心底思った。そして泉も厳しかった表情を緩めて微かなりとも笑みを浮かべたのだ。 やはり人形を思ってくれている人を直視すると頑なではいられないようだった。 心なしか持ち主に抱き締められた人形も、生気を取り戻したように感じられた。 もう大丈夫だろう。これで良かったのだ。 恭一はそう納得した。きっと泉もそう思ったことだろう。 (杞憂で終わりそうだ) 泉の苦しめた悩みはきっと溶けてしまう。あれほど悩んだのに、と思わないこともないけれど。誰も悲しむ者がいないならばそれが一番なのだ。 だが持ち主が帰った後、泉はぎゅっと恭一の手を握って祈るように目を閉じた。 それだけが恭一の心臓に深く突き刺さった。 次 |