そっと撫でる泉の手には、装飾が何も付いていない。
 その耳や首もとにはきらきらとした金属製品がぶらさがっているというのに、手首や指には一切金属が飾られないのだ。
 人形を撫でるのに邪魔だからと、泉はさも当然のように微笑みながら告げていた。
 しかし今は憂いを帯びた瞳でじっと人形を見つめていた。
 先ほど女性の客が持ってきた人形は約二ヶ月前に完成したものだ。それが現在、悲愴な様で戻ってきた。
 彼女は酷く泣きながら幼い甥がやったのだと語った。
 泉はその答えに、とても渋い、納得がいかないというような顔をしていたのを横で見ていた。
 泣き崩れる依頼者に追い打ちをかけるような言葉まで口にしており、手厳しいなという印象を受けたものだ。
 けれど珍しいものではない。
 泉は人形を大切にする者には優しいけれど、そうでないものに対しては冷たくもなる。
 朝日奈という名を持つ高名な人形師であるだけに、人形を作って欲しいと頼む者は後を絶たず、中にはたちの悪い者もいるらしい。
 それらの相手をするためには、冷ややかな強さも必要なのだろう。
(でも、すごく落ち込んでるみたいだな)
 依頼者が帰った後、作業室に籠もるわけでもなくリビングのテーブルに壊れてしまった人形を置いて、悩んでいるように見えた。
 胴体を作り直すと言っていたが、その作業が難しいということはないだろう。自分が作り出したものを再び生み出すのは、泉にとっては困難なことではないはずだ。
 すでに辿った道をもう一度くるりと振り返るだけ。以前そんなことを言っていたのを聞いている。
(何を悩んでいるんだろう)
 やや苦しげでもあるその表情が気になった。
「子どもって、突然思いもかけないことをしますからね」
 無惨に貫かれた身体が哀れであるのならば、少しでも慰められないだろうかと声を掛ける。
 だが泉は目を伏せた。
「……子どもの力でここまで出来るだろうか」
「え?」
 不意の呟きに恭一は思わず聞き返してしまっていた。
「これほどの破損を生み出す力って相当だと思うんだけど。幼い子に本当にそんなことが出来るのかな?」
 恭一は人形へと目をやる。
 ビスクドールが作られる過程を巻き戻し、その素材を思い出す。
 確かに頑丈であるとはあまり言えないようなものだが、幼い子、まだ幼稚園にも行っていないという子がはさみを力一杯振り下ろしてあれほどの傷になるかどうかは判断しかねた。
「それは……」
 実際それが幼い子に出来るかどうかより、泉が目の前の人形に対してどんな予測をしているのかということが気になった。
 ぞわりと嫌な感覚が迫る。
「僕は周囲に大人しかいなかったから、詳しいことなんて分からないんだけど。かなり大きな暴力をぶつけられたみたいなんだよね」
 泉はそう言って、人形の髪を撫でた。
 金糸は泉の指によってはさりと梳かされる。だがどれほど泉の手が優しくとも乾ききった糸に成り果てた髪では艶やかさなどない。
 人形が痛むということは、そういうことなのだ。
 何もかもががらくたへと近付いてしまう。
「この子が、その暴力に怯えている」
 人形を作り出す才能は、人形の魂を引き寄せることから始まっているらしい。
 泉は人形の声を聞いている。きっとその手に触れながら、泣き声に耳を傾けているのかも知れない。
(だとすれば、残酷なことだな)
 大切に作り上げた子が、泣きながら帰ってきたのだ。作り手にとってみれば心が痛くないはずがない。
「泉さん…もしかして」
 この人は、その暴力を向けた人があの女性であると思っているのだろうか。
 だとすればあの冷ややかな態度も頷ける。
 けれど、あれほど苦しげに泣き崩れて、人形を直してくれと懇願した人が果たして人形を壊すだろうか。
 腑に落ちない。
「微かな望みにすがりたくなるのが情だろうけど。本当にそれが正しいのかな」
 ぽつりと、空気に紛れてしまいそうなほど小さな声には切実な思いが込められているようだった。
 その望みというのは、女性がこれを行ったわけではないという可能性だろうか。
(でも微かっていうのなら、泉さんはほとんど確信してるってことじゃないのか)
「あの人が、それをしたって思ってるんですか?すごく悲しそうでしたけど」
「そうだね。すごく悲しげだった」
 恭一に同意しながらも泉の表情は晴れない。それどころか更に憂鬱さを増したようにすら見えた。
「大切にしていたんじゃ、ないでしょうか?」
 でなければあんな風にはならないだろう。
 恭一は自分が感じたままのことを喋る。
 他人の目を誤魔化すため、という演技には見えなかったのだ。
「そう願いたいね」
 泉はようやく顔を上げて恭一を見る。そこには思っていた以上に沈んでいる瞳があった。
「泉さんは違うと?」
「分からない。分からないよ」
 緩く首を振って、泉は苦さを見せる。
 人形を制作するという、恭一にとってはかなり難易の高いことをすらすらとやって見せる泉は私生活でも割とのんびりとしており。こんな苦しげな様を見せることは、紅の模造品に関して以外ではかなり珍しい。
 それほどこの人形に関しては迷いがあるのだろう。
「ただ、この子は泣いている」
 人形が悲しんでいる。
 泉にとっては十分過ぎる理由なのだろう。
 他の人間には分からない。だが泉には痛烈なまでに伝わってくることだ。
「それでも持ち主に返すべきなんだろうか」
 嗚咽を零しながら頼み込んできた女。迷い悩む泉。そして壊れた人形。
 どれもが痛みを抱えて、立ち止まっている。
「この子は持ち主の元に行くために作られたんだ。それは僕が一番よく分かってるけど」
 それでも。と泉は口にして、唇を噛んだ。
 嫌なんだという言葉を飲み込んだのかも知れない。
 もしくは嫌だという決断も、良いという結論も出したくないのか。
「泉さんは、どうすれば一番いいことなのか悩んでるんですね」
「……うん」
 泉はこくりと頷いて、深く息を吐いた。
「信じられない、んだよね。結局は」
 自嘲するように泉は視線を恭一から外した。
「人形とは違うから」
 恭一の心臓がその一言でぎゅっと縮まった。
 人形の声を自分のものであるように感じられる人だから。その分同じ言葉を遣っているのに、精神が感じられない人間は信じづらいのだろう。
 自分の冷静な部分がそんな風に分析する。
 だが他人は信用出来ないと聞こえて、怯える自分もいた。
(俺も信じられないですか?)
 泉は人形が大切だから。一番に思っているから。だから人形以下に思われるのは仕方がないと諦めている部分もある。けれど信じられないとまで思われていたとすれば。
 とても、辛い。
 しかし落ち込む泉にそんな質問を投げて、責めているように感じられるとこの関係に亀裂が入りそうで恐ろしい。
 恭一もまた迷いながら、壊れた人形を複雑な気持ちで眺めた。



 数日宿泊出来るだけの用意を持って、恭一は合い鍵を取り出す。
 泉の家の玄関を開ける際には、心臓がいつも高鳴った。
 ここは特別な場所であり、入れるのはごく限られた人間だけだ。
 まして鍵を持っているのは泉と世話係の小桃と、恭一だけだ。身内になったような気分で、どんな嫌なことがあったとしてもこの瞬間には和らいでしまう。
 家の中に入って勝手知ったるとばかりにリビングへと歩く。
 失礼しますと、一応一言断って中に入るとソファには一人の少女が座っていた。
 ハイネックのセーターに細身のパンツスタイル。凛としたその姿は誰も人形だなんて思わないだろう。
 肌の露出を避ければ避けるほど、この少女は生身に近付いていく。
 だがその容貌の美しさは現実離れしており、その点に置いてはやはり生物とは遠い存在なのかも知れない。
「いらっしゃい」
 緋旺は恭一が入ってきたのを見て、持っていた新聞を畳みながらそう挨拶をしてくれた。
 だが言われたことを素直に受け止めず、恭一は別の返事をした。
「ただいま」
 客扱いをされるのは好きではないのだ。
 同居したいという願いを散々泉に掛け合ったのだがまだ許して貰えず、連休の間だけという限定お泊まりにもそろそろなし崩しにしたいと思っている恭一にとってここは第二の家だ。
 その気持ちを察しているのだろう。緋旺は苦笑したかと思うと「おかえり」と言い直してくれた。
「明日から休みね」
 喋り始めたばかりの頃は堅く、性別など感じさせない口調で喋っていたものだが、時間が経つに連れて女性らしい口調を会得してきたらしい。
 しかしそれでも淡々とした雰囲気は残っている。
「そう。バイトしなくていい身分で良かった」
 恭一は荷物をリビングに置いてはそう言って笑った。
 大学生だというと休みになったらバイトをして金を稼いでいる者が多い。恭一の友達もバイトをしている者がほとんどだ。
「恭一はバイトじゃなくて職業じゃないの?」
「そうとも言える」
 恭一はバイトをしていないけれど、決して働いていないわけではない。
 人形の補修などは平日休日関係なく舞い込んでくるものだ。それこそ高校生の頃からそうだった。
 その分どんなペースで仕事をすれば良いのか、要領などもちゃんと掴んでいるのでは泉と過ごす時間を死守していた。
(自分の器用さをこういう時に誇りに思う)
 もっと別の場面で思って欲しいんだけどなぁ、と泉が知れば苦笑いしただろう。 「恭一はいいかも知れないけど、泉は籠もってる」
「…あの胴体?」
「そう」
 壊された人形の補修を、恭一は終えていた。だが泉は人形の胴体を作り直すのに随分迷っているようだった。
 着手が始まったのも、恭一が仕事を終えてからだ。
「すごく、悩んでたんだよ」
 緋旺にはこんなこといちいち言わなくても分かっているだろう。泉と緋旺は繋がっているのだ。
 精神の一部が直接触れているようなものらしい。なので泉の精神状態も緋旺は把握しているだろう。
 それでもわざわざ口にしたのは、それが恭一の心配の元であることを分かって貰うためだった。
「そうね」
「でも俺にはよく分からない」
 泉が疑問を持たなければ、恭一はきっと人形を素直に補修して、今度は甥御さんに壊されないように気を付けて下さいねと言うだけだった。
 あの女性の言い分に何の違和感も抱かないままだっただろう。
 けれど泉は違った。あの人の言っていることは事実ではないのだろうと見透かしているようだった。
「依頼主に俺も会ったけど、人形が壊れていることをすごく悲しんでて。直して欲しいって土下座までしてたんだ」
 人の土下座などそう見ることのないものだ。あの時は驚いた。
 しかしそれほどまでに人形のことを大切にしたいのだと感心したほどだったのだ。
「でも泉さんは、あの人が壊したって思っているみたいだった。人形が泣いてるって言って」
 あの人形がそう語ったのかと聞いたけれど、泉は違うと言った。
 生まれたばかりの人形は確かな言葉を遣っては喋れないらしい。だが気持ちは分かるのだと言う。
 それが恭一には分からない。
 聞いたことがないから、分かりようもないのだ。
「泉が言うなら、そうなのよ」
 緋旺は恭一のわだかまりなど感じることなく、すんなりとそう言う。
 それは緋旺が人形であるからであり、泉と繋がっているからだ。
 そう思うと自分一人が孤立しているようで、悔しさと寂しさが込み上げてきた。



 


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