訪れた女性は寂しげだった。
 心細そうで、今にも誰かの手にすがりたいという様子だった。
 あまりにも顕著に見えるその感情に、泉はどこか納得していた。
 彼女が人形を欲しがっている理由が訊かずとも理解出来たのだ。
 応接間に通されると、彼女は写真を数枚取り出した。
 それは彼女より一回りほど年上の女性が人形を抱きながら微笑んでる物や、人形がアンティーク調のしっかりとした椅子にちょこんと座っている物などだった。
 共通しているのは当然のごとく、人形だった。
「この人形を作って頂きたいのです」
 写真に写っている人形は、母親の物らしい。
 生前母がとても大切にしていた人形であり、母が病気で亡くなるとその棺にこの人形を入れてくれと遺言まで託されたそうだ。
 娘である彼女は、言われたとおりに人形を棺に入れた。
 しかし彼女は涙ぐみながら「でも」と儚げに語り続ける。
 あの人形に見つめられて育ってきた私には、あの人形がいなければ落ち着かない。まして母がいなくなってしまった今、あの人形が心の支えであるように感じられる。
 もう一度あの人形に会いたい。
 泉は人形の写真を見つめながら、彼女の話を黙って聞いていた。
 幼い頃、自分が大切にした人形と再会したいと願う人は多い。泉の元にもその気持ちでやってくる人は珍しくなかった。
 そして泉の目に、写真に写っている人形はとても大事にされているように見えた。
 手入れされた髪や肌、煌びやかな洋服。
 母親の姿を比較していくと、何年もこの人形と共に歩んできたというのに、汚れなど一つも見付からない。
 作り物の瞳ですらも、輝きを宿しているように錯覚出来るほどだ。
 朝日奈の人形であったのなら、きっと生気を帯び始める頃だろうか。
 これほど重要に扱われた人形がいなくなったのであれば、その喪失感も大きいことだろう。
 泉は彼女の願いを受け容れた。
 そして制作された人形は写真の物と差のない出来に仕上げた。それは迎えに来た彼女も認めるところで、泣きながら何度も頭を下げて人形と共に彼女は帰っていった。
 泉はその光景を見ると、自分が満たされていくのを感じる。
 人形が愛されている様というのは喜ばしいことだ。
 自分の手が作り出した人形というのは泉の精神の欠片が入っている。それを慈しまれるのだから、嬉しくないはずがない。
 良かったと笑顔でその人形と別れ、それで終わるはずだった。
 だが数ヶ月も経たない内に、人形が帰ってきた。
 泉が知っている艶々とした姿ではなく、胴体を貫かれ、肌に亀裂が走った無惨な状態で。
 女から連絡を受けて、人形が壊れてしまったと電話口で言われた時はここまで酷いものだとは思わなかった。
 あの様子からしてきっと丁寧に扱っていることだろうと予測していたのだ。
 それを完全に裏切られた形になる。
(嫌な方向で予想外なことになった……)
 女は人形を持って来た時にはすでに泣き崩れ、目元を腫らしてひたすらに謝っていた。
 今も畳の上に土下座をせんばかりの勢いで顔を覆ったまま泣いている。
 泉は溜息を押し殺しながら、人形の胴体を見る。
 穴が空いているのだ。
 つるりとした陶器の肌に虚ろがあり、そこから亀裂が幾つも走っている。
 本来ならひび割れているはずのない首もとや、顔にまでひびが入っていた。
「胴体だけでなく、顔や腕にまでひびが入っているのは。これが朝日奈の人形だからです。魂があるので、痛みを覚えるのです」
 魂が宿ると言われている人形は、作り出された時から心を持っている。たとえ動かずとも、喋らずとも、そこに精神は微かでもあるのだ。
 酷い仕打ちをされれば辛いと感じる。
「人形たちはその痛みを身体に出す。だから壊れるはずのない部分まで破損しているわけです」
 泉はそう説明をすると、ちらりと横にいる恭一を見た。
 泣き崩れる女を見て、心配そうな表情をしている様に目を伏せる。
(君らしいね。らしいとは思うけど)
 どうしても恭一のように女に同情出来ない。
「これは、酷いですね」
 女を追いつめるような台詞だが言わずに居られなかったのだ。
 案の定女はびくりと肩を震わせた。そして嗚咽を零す。
「甥が来て、おりまして。まだ小さいもので……それで、目を離した隙に」
 その甥が壊したと言うのだろう。
 しかし幼い子が来るというのにビスクドールを手の届く場所に置くだろうか。
 そして目を離すなんてことが有り得るのだろうか。
 そう想像するが泉は人形のことは分かるけれど人の子どもの言動などは分からない。なのでそこに疑問は投げかけない代わりに、もっと強く思う疑問があった。
「甥が壊したという理由で、人形がここまで壊れるだろうか」
 独り言のように呟く。
 ビスクドールの紫の瞳が泣いていた。
 いや、もはや泣いているなんて表現では生ぬるいだろう。
 絶望のように暗がりを滲ませていた。
 その身体の内に憂鬱ばかりを溜め込んで、唇を開けば嘆きが聞こえてくるのではないかと思うほど、疲弊している。
 五歳ほどの年頃に見える人形が闇を見つめている様子は痛ましいばかりだ。
 泉が作り出した時にはあれほど嬉々として、持ち主の元に行った際には寂しさを溶かしてあげるのだと囁いていたあの子はどこにいった。
 元の人形のことなんて思い出さないほど満たしてあげたいと期待に胸を弾ませていたあの子どもはどこに消えてしまった。
 何故これほどまでに黙り込み、悲鳴を堪えているのか。
「人形には良識がある。人よりずっと優しい存在です。幼い子の無体ならば仕方がないと諦めるほどの情は持っています」
 実際今までもそうだった。
 悪意のない事故で壊された人形を見たことがある。
 人形たちは困ったことになったと言うような雰囲気は持っていたけれど、決して持ち主を恨んだり、絶望するなんてことはなかった。
 持ち主の方はひたすらに人形を心配し、後悔していたので、むしろそのことの方が人形の心を苛むほどだった。
(それだっていうのにこれはどういうことだ)
「身体を治そうと、持ち主である貴方がここまで必死になっているのなら尚更です。この子はきっと困ったとは思っても、悲しいなんて思わない」
 泉の話に女はしゃくり上げる。まるで責めているみたいだ。
 いや、実際泉は責めていたのだ。
(こんなことは有り得ないんだから)
 彼女が本当に人形を大切にしているというのならばこんな壊れ方はしない。
 隣りで恭一が怪訝そうにしている、きっとどうして冷たく接しているのか分からないのだろう。
 人形が気持ちが察せられる者でなければ、きっと女の言うことに何の疑問も覚えないのだから。当然ではある。
「なのにどうしてこの子は嘆いているのでしょうか」
 問いかけても女は首を振る。泉の質問を拒絶しているのか、全てを拒絶しているのか。見ている限りではどちらでもあるような気がした。
 淡々とした気持ちでそれを眺めながら、女は何に泣いているのだろうという疑問がふわりと浮かんだ。
(あの涙は何なんだろう)
 何が悲しいのだろうか。
 泉にはよく分からなかった。
 人の涙を泉はそのまま取らない。
 自分の為に、人間はどんな嘘でも付くことが出来る。偽りを生み出す。泉自身がそれを身をもって行ってきたのだ。
 けれど人形たちはそれをしない。だから泉が信用するのは人間ではなく、人形たちだ。
 だからこそ、この光景がどこか滑稽だった。
「……この傷は、何で出来たものですか?鋭いものを突き刺したような跡に見えますが」
「はさみ、です」
 震える声でそう言われ、はさみ、と心の中で反芻した。
 確かにはさみは鋭利なものであり、子どもが持ったとしてもおかしくないものだ。
 けれど人形はまた嘆いてしまった。
 そうではないのだと言うように、何も言わずに苦しんでいる。
 健気なその精神の微かな変化に泉は唇を噛んだ。
(もう無理なんじゃないか?)
 この子はもう、立ち直れないところまで来ているのではないのか。
 人間の元になど帰してしまえば、自壊してしまうのではないのか。
 それほどに傷付いてしまっている。けれど、それでもこの子はまだ女のことを見捨てられずにいるのだ。
 女に対する恨みなど人形は抱いていない。
 泉がその頬を撫でると、まだ大丈夫だと伝えてくる。
(まだ頑張るの?帰りたいと思うの?)
 声にならない声で尋ねる。紫の瞳はそれに答えようとするように見つめ返してくれた。
(君たちが情の深い存在だとは分かっている。分かっているけれど、それでも)
 女の元に戻るのか。嘆いているというのに、持ち主を忘れないのか。
 その気持ちを知れば知るほど、女に対して苦言をぶつけたくなる。だが深く悔やんでいる様の女を更に叩いたところで、きっと辛いのは人形の方だ。
 深々と溜息をつき、泉は目を閉じた。
「ここまで来ると、胴体は作り直しになります。他の部位は補修出来るね?」
 目を開け、恭一に話を振る。すると年下の男は職人の顔で力強く頷いた。
「可能です」
 自信に満ちあふれた答えに泉も背を押される気持ちだった。
 これで良いのかと迷う思いが多少薄れる。
「ありがとう、ございます」
 女は嗚咽を零したまま額ずき、そう礼を言ってくる。
 その声に冷淡さを返すのも非情であるような気がして、さすがに後ろめたい。
 だが安堵する気持ちには到底なれず、苦みを噛み締めた。
「……人形は心を持ちます。今だって辛いと感じていることでしょう」
「はい……」
「大切にしてあげて下さい」
 お願いだから、と土下座をしている女に懇願したくなった。
 傷付けないで大切にしてあげて欲しい。
 この子は決して貴方の害になることはないのだから、どうか慈しんであげて欲しい。
 心底願うのはそれだけなのだ。
 だがどれだけ望んでも女に届く気がしないのだ。
「はい。分かっています」
 分かっていると言うのならどうして。
 そう叱責が込み上げる。
「すみませんでした。本当に、ごめんなさい。ごめんなさい……」
 微かな声で女は謝り続ける。
 不誠実だと責めることを許さない態度に泉はとうとう顔を背けた。
(……誰に言ってるんだ)
 女は一体その言葉を誰に向けているのだろう。
 この人形に謝ってる風に思える。
 だがそんな風に頭を下げて懺悔するような人間が、人形をこんな風にするだろうか。
(僕には分からない……)
 ずっしりと憂いばかりのし掛かっているようだった。



 


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