鍵村が腰を上げた。
 座っている状況じゃない。そう言うかのように。
 ノンフレームの奥にある双眸が、見ている者に圧力をかける。それほど神経を集中し始めたということだろう。
「蜜那より少し上だな」
 鍵村は泉からラフを受け取り、難しい表情で視線でそれを眺めた。
「十七くらいです」
「…紅によく似ている」
 ラフの時点で、その人形は紅に似ているらしい。
 恭一も泉の隣からそのラフを覗き込んだ。
 解体図のように人形の全身と、各関節の拡大図、そして顔が描かれている。
 幼さが少しばかりあるとはいえ、その顔は失われた至宝の人形に似ていた。
 緩やかな柳眉、思慮深さを思わせる伏せられた瞳。異なる点はきっと結ばれた唇や、輪郭が僅かに丸いことくらいだった。
 紅が少女であったなら、と思わせるような容貌だ。
「無意識です」
 わざとではないと泉は口にしたが、苦笑しているところを見ると似ている自覚はあるらしい。
「雪に薄紅。髪は黒か。長いんだろう?」
 それではまるで紅そのものじゃないか。
 そんな思いが顔に出たのだろう、泉は恭一を横目で見てさらに苦笑を深くした。
「紅が欲しいわけじゃないんだけど」
「だが似るだろうな。紅よりかは鋭い感じがするが」
 頭部をちらりと見て、鍵村は感想を口にする。
「一五六の細身。性格は?」
 人形の性格まで知りたがるのか、と恭一は意外に感じた。
 人の性格など知ったことではない、とでも言い出しそうな雰囲気なのだが。
「冷静ですよ。年も性別も時々曖昧になる」
 泉は抱えている頭部に視線を落とした。
 今もその声が聞こえているように。
「向いているようだな」
「おそらく」
 何に向いているというのか。
 恭一にはぴんとこなかった。
 だが二人の間ではそれで通じているらしく、一人だけ取り残されている感が強い。
 自分より鍵村の方が泉と深く理解し合っているようで、苛立ちが蘇ってくる。
 独占欲なのか、子供じみた嫉妬なのか。
 どちらにせよ舌打ちをしたいほど心が乱される。
「吹っ切れていないというのに、作るのか」
「非道ですから」
 蜜那のことを問う鍵村に、泉の穏やかな声が返される。
 諦めたような、脱力の漂う声音に鍵村の眉が寄せられた。
「誰がそんなことを聞いた」
 責める鍵村に、泉は目を閉じた。
 痛んでいる風もなく、ただ耳を傾けているだけように見えた。
「己を咎めること言葉が聞きたいわけじゃないんだがな」
 鍵村は鋭い眼差しで泉を見る。まぶたを下ろした人に視線が受け入れられることはないと知りながら、それでも視線で問い掛けようとしているほど強い瞳だ。
 しばらく鍵村は黙って泉が目を開けるのを待っていた。
 重苦しいまで沈黙が流れる。
 恭一は溜息をついてこの場をなんとかしようかと思ったが、それより先に鍵村が口を開いた。
「蜜那より茶を濃くするんだろう?」
 唐突だった。恭一にはやはり何のことだか分からないほど簡潔だ。
 だがそれに泉はようやく目を開けた。
 静かな色をたたえている。
「そうです。それで奥に金と朱色をちらつかせて欲しいんです」
「どういう意味だ」
「印象的なのはもちろん。光彩には金、瞳孔には朱色を隠して下さい」
 光彩、瞳孔と聞いてようやくそれが眼球のことだと分かる。
 説明など一切なくても、二人には理解が出来るのだろう。
 とうとう本気で舌打ちをしてしまう。
 だが二人に恭一の様子になど目もくれない。
「隠し気味か」
「ちらつくのがいいんです」
「だろうな」
 瞳について注文をする泉に、鍵村も納得したように頷く。
 同じ考えであるようだ。
「それにしても…」
 鍵村は持っていたラフを泉に突きつける。
 そしてまだ化粧もされていない、のっぺらとしている頭部を見つめた。
「おまえは怖い男だな」
「何がですか?」
「限界がないのか、おまえは」
 声は淡々としている。だが鍵村は苦そうに唇を歪めた。
「いつだって限界ですよ。でも人形の魂というものが、僕を動かす」
 ラフを受け取り、泉は足下に視線を落としてしまった。
 力がなく、不安げですらある。
「僕には何もないんです」
 本気でそう言っているらしい泉にも、鍵村は呆れたように溜息をついた。
「嫌味にしかならない台詞だ。瞳は言われた通りに作る。近々試作を届けるから、それを見てから連絡をくれ」
「待ってます」
 泉は溜息に微笑を浮かべる。
「完成した頃、会いに来る」
「お呼びしますよ」
 ようやく顔を上げた泉に、鍵村はまた溜息をついた。
 弱々しさが滲む様に呆れているのか、気を落としているのか、もしくは心配しているのか。
 一体どれかは分からない。もしくはどれもあてはまらないのかも知れない。
 だが泉を思っていることは確かだろう。そしてそれを泉も分かっている。
 こんなものを目の前で見せられて、平常心を保てと言うつもりじゃないでしょうね。
 完全な八つ当たりが恭一の中で暴れ始めていた。



 鍵村がいなくなり、泉が地下に人形を置きに行っている間、恭一はコーヒーカップを洗っていた。
 あの男の痕跡が残っているのが、気にくわない。
 威圧的で、それなのに泉にすんなりと認められ、受け入れられている。
 言葉以外のもので繋がっているような関係に、恭一は苛立ちを抑えきれなかった。
 乱雑な動作でコーヒーカップを布巾で拭く。そして棚に戻した。
 音を立てて硝子の扉を閉めると、今度はリビングのドアが開かれた。
 ひょっこりと泉が戻ってきたのだ。
「親しいんですね」
 突然そう投げかける。
 尖った声に気が付いたのだろう、泉が瞬きをして不思議そうに恭一を見た。
 鈍感な人だ。
「そうかな。良くはしてもらってるよ」
 説明する言葉もなしに会話が通じるということは、特殊などいうことを泉は分からないのだろうか。
 この人に限っては、そんな事態も有り得るのではないかと思えるのが恐ろしい。
「きつい言い方をする人ですね」
「ぶっきらぼうなんだよ」
 フォローを入れられ、恭一は苛立ちで目を据わらせた。
「あれでよく医者なんか出来ますね。患者が恐がりそうだ」
「医者の時はもっと優しいよ。僕には遠慮がないだけで」
 泉はソファに座りながら何でもないように言った。
 ぷっつり。と恭一の中で何かが焼き切れる。
「気の置けない仲というわけですか」
「そうだね」
 のほほんと答える泉を見下ろし、恭一は内心、この人は馬鹿だ。と呟いた。
 その一言が、目の前にいる男をどれほど苛立たせるか分かっていない。
 憤りの先がどこに向けられるのか。
「あの人の作る眼がその左目に入るんですね」
「素晴らしい出来だよ。蜜那の時を見ていれば分かると思うけど、あれほど繊細で美しい眼っていうのはないだろうね。弟さんもすごく上手なんだけど、生身の眼窩にはめるなら鍵村先輩が作ったほうがいいだろうって」
 誇らしげですらある泉に、恭一の唇が口角を上げる。さぞかし含みのある笑い方をしているだろう。
「性能もいいし?」
 この人を、今からどうしてやろう。
 そう考えながら恭一は甘さすらある声でそう尋ねた。小動物を罠に掛ける獣になった気分だ。
 嗜虐性をどこまで煽ってくれれば、この人は自分の気持ちに気付くだろうか。
「そう。ずっと使えるしねぇ」
 恭一の中で渦を巻く、どろりとした感情に気が付かない人はさらりと笑う。
 その笑みは、見ているとこちらも笑みを返したくなる。ほんわりとしたものなのだが、今に関しては残酷に見えた。
 切れた神経がさらに切断された気分だ。
「むかつく話ですね」
 もう大人しくしているのは止めた。
 らちが明かない。
 黙っていれば泉はずっと気が付かないだろう。
 恭一が腹の中で焦がれていることも、暴れ出したいほどの妬心を持っていることも。
 声のトーンが下がり、睨むような目つきになった恭一に、泉は首を傾げる。
 子どもじみた仕草が似合っているからこそ、たちが悪い。
 無自覚がこれほど腹立たしいことだとは、泉に会うまで知らなかった。
「あんな横柄な男が作った眼球が貴方の中にはめ込まれるんですね」
「…まぁ…そうだね」
 どうしてこんな急に態度を変えたんだろう。
 泉の顔にはそう描いてある。
 我慢してたんだよ。と教えてやりたいところだが、それはこの後たっぷりやればいい。
「貴方の一部になるわけだ」
「それは…怒ること?」
 怒りを露わにして、立ちふさがるように前に立っている恭一に泉は怪訝そうだった。
 そのことに舌打ちをする。
 分かってない。
「怒りますよ。なんで俺は貴方の中に刻まれなくて、あの男が貴方のものになるのかって」
 ちゃんと言葉を交わすようになって一年も経っていないから、鍵村のように無言で泉の考えを察することは出来ない。また泉も恭一の考えを察することは難しいだろう。
 だが短いとは言え、紅の模造の破壊や、蜜那の喪失、重大なことを一緒に見てきた。そして言葉だけでなく、身体も重ね、ずっと近付けたと思ったのだ。
 近く、かけがえのない存在になろうとしている。そう思っていた。
 それがこんな形で呆気なく崩れた。
 唯一無二、誰より近く、誰より深く泉を知っているという、などとは思ってはいない。
 だがそれにしても、高校時代の先輩後輩、眼球を作る職人とやらにここまでやりこめられるとは想像も付かなかった。
 思い上がりだ。そう吐き捨てられたような心境だ。
「えーっと…それは無茶な怒りだと思うけど」
「理不尽でしょう?」
 にっこりと笑って恭一は尋ねた。
 泉にしてみれば理不尽だ。不条理この上ないだろう。
「ものすごくね」
「でも本心ですよ。独占欲強いんです」
 理性も自制も一瞬で壊してしまうほど、強い独占欲を持っているなんて。
 恭一は苦笑しながら泉の顎を掴んだ。
 間近で合わせた瞳は、戸惑いが色濃く滲んでいる。
 どうしてこんなことに。とでも言いたげだ。
「ずるいでしょう。あんな男に貴方の一部をやるなんて。俺にしてみればそれが理不尽だ」
「それは仕方がないって」
「他の男に髪の毛一本だってやりたくないんだよ、俺は」
 理性で話をしようとする泉に、恭一は苛立ちのまま言葉を荒らげた。
 敬語も吹っ飛ばし、泉の肩を掴んでソファに倒す。
 その上にのし掛かりながら、見開かれた瞳を見下ろす。
「無理だよ、それ…無茶苦茶だろ」
 のし掛かられて、泉は視線を彷徨わせる。逃げ場を求めているようだが、そんなものを残してやるほど余裕も優しさもない。
「無茶でも俺はそうしたい。あんたを誰にも触れさせたくない」
 シャツのボタンを素早く外す。腹にたまった憤りはすぐに欲情へとすり替えられた。
 白い肌に、骨がくっきり出た鎖骨。
 そこに食いつきたいという衝動のまま、唇を寄せる。
「ストップ!ここソファだって!」
「落ちてもラグマットがあるでしょう」
「痛いって!ベッド行けばいいだろ!?」
 泉は制止をかけたが、嫌がっているというより場所に難を付けているだけのようだった。
「いいんですね」
 行為の続行に確認を取ると、泉が身体を強張らせた。
 低い声と、妙な気迫に押されているようだ。
「…何、なんでそんな確認…」
 嫌な予感がするのだろう。
 劣情を隠しもせず、背後に怒りを背負っている恭一に、少しばかり怯えているようだ。
「覚悟があるんだなと思って」
 は、覚悟?
 そうきょとんとした泉に、恭一はくつりと喉で笑ってキスを落とした。



 


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