壊れた瞳から流れる大粒の雫は、恭一の唇に吸われた。
 右目の雫は指でそっと拭われる。
 ひくと喉が鳴る。嗚咽が溢れそうなのだ。
 だが声を上げて泣く気になれず、耐えていると濡れた唇がそっと重ねられた。
 あたたかさを感じると、また涙腺が緩んでぽたりと涙が落ちる。
 今度は吸い取る唇がないので、泉の頬を伝った。
 ぬるい涙。
 生きている。無機質にならず、人間として機能している。
 人形を制作している時には酷く曖昧で、命があるのか、人間なのか、分からなくなるというのに。
 今は鼓動がこんなにも近くで聞こえる。
 恭一のぬくもりを感じて、身体が応えている。
「ん…」
 恭一の下唇を舐めると舌が入ってきた。
 いっそうはっきりと感じる熱に、すがりたくなった。
 この人は失いたくない。
 側にいたい。いて欲しい。
 壊れていくものなどもう何も見たくない。
 恭一の背中に腕を回すと、腰を引き寄せられた。
 しなやかな肉体をしているのが、感触で分かる。
 筋肉の付き方が自分とは随分違うようだった。
 絡められた舌、溶け合う熱。唇の端からくちゅと濡れる音がする。
 その音にじわりと身体の奥から熱さが広がってくる。
 頭の芯は涙を流していることで熱を帯びているのに、身体は欲情で熱くなるのだ。人間は異なる意味の熱を同時に抱くようだ。
 泣きながらでも欲情することは、器用なのか、それとも即物的というべきか。
 くすりと笑うと恭一が怪訝そうな顔でキスを止めた。
「泉さん?」
 こつんと額をぶつけて、泉は囁いた。
「ベッド行こう」
 駄目?そう上目遣いで尋ねると、恭一は目を見開いた後渋い顔をして見せた。
「恐ろしい人ですね」
「何が」
「今すぐ服を剥がして押し倒してやりたい」
「だからベッドに行こうって言ってるのに」
 小さく笑うとまたぽろりと涙が落ちた。
 止まらない雫に泣き笑いになってしまう。
 そんな泉に恭一は苦笑して、掌で頬を包んでくれた。
 人形にはないぬくもり、女の人より厚い皮膚、名前を呼ぶ柔らかな声。
 そのどれにも心が泣いた。
 欲しいよ。
 大切なんだよ。どこかに行かないでよ。あの子のように消えないでよ。
 そう懇願していた。



 ベッドの上で向き合って、服を脱がし合おうとした。
 だが恭一はさっさと泉の上半身を裸にしてしまい、後ろへと押し倒した。
 慣れたベッドに押しつけられ、泉は年下の男を見上げた。
 制服のカッターをはだけさせる段階までしか出来ず、鎖骨や胸がシャツの間から晒されている。
 こくりと喉が上下したのが分かった。
 緊張しているのか、それほど欲情しているのか。
 男にこれほど煽られるのかと不思議に思わないでもなかったが、泉とて人のことが言える状態じゃなかった。
 肌に触れたい衝動を今じっと堪えているのだ。
 ここ何ヶ月も身体を重ねていない。体温に飢えているのだ。
 友達の域を超えない女性と時折身体を繋げては、体温を渇望する自分を宥めていた。だが恭一に会って、その瞳が憧れ以外のものを宿し始めてから、彼女を抱くのを止めてしまった。
 意識して止めたわけではない。
 気が付いたら、求めていなかったのだ。
 人形に同じ感覚を抱いている人間がいることで、少しは気が紛れたのだろう。そんな風に思っていたのだが。
 違っていたのかも知れない。
 告白まがいのことを口にされた時、不快感も、驚きもなかった。
 あったのは、その気持ちをどう煽ってやろうかということだった。
 育てて、熱を高めて、そしてもっと深みにはまればいい。
 そう眺めていた。
 関係を密なものにしたい。強く繋がりたい。
 その意識は、すでに同じ職人の連帯感や、親しみからは遠のいていただろう。
 きっともっと利己的な、生々しい感情だ。
 それは何なのか。
 知っていた。分かっていた。
 だから性悪な真似をしてまで、恭一を翻弄していた。
 だが口にはしなかった。自覚しようとも思わなかった。
 逃げ場が欲しかったからだ。
 恭一が泉を欲しがらなくなっても、乱れずにいたかったからだ。
 狡猾で、非道だ。
 自分だけ涼しいところで、安全な場所にいる。
 それを感じ取っていたのか、恭一はふっと強い欲情を目に宿す時がある。
 苛立っているような色をしたそれは、泉を焼こうとする。
 もう距離は保てない。そう思っていた矢先だった。
 蜜那を失ったのは。
 半身を失った喪失感と絶望は、泉を根本から崩した。
 虚勢も張れず、自分も繕えなくなり。
 気が付けば恭一にすがっていた。
 どこまでも卑怯な生き物だ。
「弱みにつけ込みますから」
 恭一は真剣な眼差しで、そう告げた。
 泉が言ったことを覚えているのだろう。落としたいのなら、弱みのつけ込むのが一番だと。
 思い出すと、苦笑を浮かべてしまう。
 どうしてこの子は、弱っている人を抱くことに後ろめたさのようなものを感じているのだろう。
 他の人がどうかは知らない。だが泉は今、恭一につけ込んで欲しいのだ。
 蜜那が崩壊したその日も、同じことを思った。
 欠けた部分を埋めるために求めている。そう思われているのだろうか。
 だが誰だって、自分が崩壊してしまう時に真っ先に求めるのは一番信頼している人、支えにしている人ではないだろうか。それは大切な人、好きな人と重なるのではないのか。
 崩れ落ちる時に、抱き締めて欲しいと思うのではないだろうか。
 どうしようもないくらい近くで、抱き締めて欲しいと。
 別に自棄を起こして、求めているわけではないのだ。
「僕が誰でもいいと思っているって…考えてる?」
 そこにいる人なら、誰でもいいから抱き締めて欲しいと思っている。そんな風に考えられるのは、心外だった。
 軽いのは見た目だけのつもりなのだが。
「思ってませんよ。思ってないけど、男とヤるっていうのは、弱っているからだと思ってます」
「…否定するだけの理由は持ってないなぁ。だって、今までヤったことないから」
 女ばかり抱いてきた泉は、落ち着いた声でそう答えた。
 だが心臓はうるさくなってきている。そんなことはいいから、抱き合いたいと身体が言っている。
「俺もありませんよ。だから、これは事故みたいなもんかも知れない。傷の舐め合いみたいなのかも知れない」
「じゃあ止めておく?」
「まさか」
 恭一が笑い、唇を落としてきた。
 そのことに内心ほっとしてしまう。
 こんなところで止められれば、きっと次の瞬間には泉が恭一の上に乗っていただろう。
 ああ、それでもいいか。などとちらっと思っていると噛み付くようなキスをされる。
 荒々しい動きだが、ちゃんと快楽を引き出してゆく。それだけのテクニックがあるということだろう。
 以前にもこんなキスをしたが、高校生がどこでこんなことを覚えてくるのか本当に不思議だった。付き合っていた相手にもよるだろうが、自分の高校生時代を思い出すと、少なくとも恭一よりは健全であった自信がある。
「ふ…ぁ」
 角度を変えては繰り返される口付け。離れてもまだ、舌が絡んでいるような感覚が強く残ってしまう。
「君、今まで何人とキスしたの」
 疑問を口にすると、恭一は「さぁ?」とからかうように笑う。
 答えたくないだけか、覚えていないのか。怖いのが、後者の可能性があるということだろうか。
 最近の若者は怖い。と年寄りのようなことを思ってしまう。
 首筋に舌が這うとぞくりとしたものが腰にまとわりつく。煽られている。やり返したいとろこなのだが、男相手でどうすればいいのか、要領を得ない。
「これ、ちょっと邪魔かも」
 唸りそうになっていると、恭一がチョーカーを指に引っかけた。羽のチョーカーとチェーンの二つが首にぶら下がっているのだが、セックスの際に邪魔だと言われたのは初めてだった。
「首囓りたいから、あると気が散るんですよ」
「囓られるのはちょっと…」
「冗談ですけど、舐めるのに気になるんで。外します」
「首好きなの?」
「…獲物食う時って、首からですよね」
「君は肉食獣か」
 呆れた突っ込みをしている間に恭一はチョーカーもチェーンも外して、ベッドの端に置いてしまう。
 顔を横にしてその指を見ていると、不意に耳を口に含まれた。
 ぬるりとした感触に、濡れた音が大きく鼓膜に響く。
「今度は耳を舐めたいからピアスが邪魔って言うんじゃないだろうなぁ」
「今日のは平気。小さい石ばっかじゃないですか。口の中で当たって面白い」
 オニキスのピアスは確かに小さい。口に含んでもさして異物にならないだろう。だが面白いとは、ちょっとやらしい台詞だ。
「なんか君…エロいよね」
「泉さんに言われたくないですよ」
 どんな顔してるか分かってます?と耳元で低く囁かれる。男だというのにずきりと欲情が高まってしまった。
 どうしてだろう。食われてしまう感覚が気持ちいいんじゃないかと思うなんて。
 少し異常だ。
「想像以上に、エロい」
「どんな想像してたんだ」
「聞きたいですか?言葉責めが好きなら、聞かせて上げますけど」
 眩暈がしそうなことを言いながら、恭一の指がジーンズをフロントを開けて中に入ってこようとする。
 そこまで好きにされるのは癪だ。だが抗う気はなく、泉の手は恭一の制服のズボンにかかった。
 何年か前には自分も履いていたものだ。躊躇うこともなくその中へと指を忍ばせる。
 そこにある熱を帯びたものをそっと掌に包む。
 はっきり、欲情していた。それは恭一の手の中にあるものも同じだ。
 男同士ということに二人とも一切抵抗がない。そのことが、もう止められないところに押し上げていく。
 ゆっくりと指を動かすと、恭一の指が泉のものを上下する。
 すぐにぬるりとしたものが滴り始める。
 自分のものが恭一の手を汚しているかと思うと言いようのな羞恥が襲うのだが、指から伝う熱に、さらに煽られた。
   追い詰められ、追い詰め、荒い息が部屋の中に響いた。
「ん…」
 鼻に掛かった声が無意識の内に零れる。その時恭一が口元を歪めて笑ったのが分かり、無性に悔しくなって唇を欲しがった。
 重ねると、舌を差し入れて掻き乱す。
 抜き合っている状態に興奮しているのに、キスでさらに頭が馬鹿になった。
 もっと乱暴に、酷いくらいでいいから悦くなりたかった。
 丁寧な手つきに焦れて、腰が揺れる。それに気が付いたのか、恭一の手が先端を割るようにして軽く爪を立てる。
 痛みと快楽が混ざり合って、唇の中で声が殺される。
 だが身体が震えたので、分かっただろう。イイと啼いたのが。
 細く、糸のようになっていた理性はぷつりと切れた。
 仕返しのようにきつく撫で上げると、目の前の瞳が辛そうに細められた。
 相手より早くイくわけにはいかない。そんな意地の張り合いは、初めから放棄していた。
 早く解放されたい、気持ちよくなりたい。そればかり頭の中にあって、乱れることしか出来ない。
 唇が離される合間に、もっとだの強くだのと言ったような気がした。
 だが悦楽を貪り、白く濁る意識でははっきりとしたことは分からない。
 しかし恭一の劣情が育っていくのは手が感じ取っていた。
「ん…っん!」
 自分の喘ぎなんて聞きたくない。唇ばかり重ねて、波のような刺激にさらわれる。
 限界に手を伸ばして、でも寸でのところで引き戻され、もどかしさに狂いそうだった。
 あからさまなくらい腰が動き、強請るように舌を軽く噛む。
 吐き出すことを促すように根本から刷り上げると恭一が息を飲む声が聞こえる。
 お互いの限界が、自分のことのように分かる。
 真っ白になる思考の中で、嬲る手を的確なものにする。
「っ…ぅ、ん…!」
 根こそぎ剥ぎ取られて、声も身体も奪われるような悦楽の奔流に襲われ。
 熱が吐き出された。
 ひくと痙攣する泉の身体を支えながら、自分のものに絡まる泉の指をそのままで恭一は自らを高めていった。
 それからすぐに、熱が混ざり合っては溶けた。



 


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