炎が上がる。
 蜜那を焼いては煙を上げていく。
 消えていく煙の先には、金色の月がいた。
 彼女の髪の色によく似た光はただ静かに泉を見下ろしていた。
 夜風はなく、ただ寒さが骨まで染み込んでくる。
 火の暖かさは身体の奥まで届いては来ない。
 薪が割れる小さな音がして、泉は再び緋色の揺らめきに目をやった。
 魂などもう残っていないだろう。それでも蜜那の身体が焼かれていると思うだけで心臓が締め付けられる。
 本当に戻って来ない?
 そう誰かに尋ねたくなる。
 聞いたところで、更に沈んでいくのは目に見えているというのに。
 堅く口を閉ざしては炎を見つめ続ける泉の隣で、一人の女が立っていた。
 白い着物を着た、美しい女だ。
 艶やかな髪は腰まであり、肌は陶器のようにきめ細かく、その上柔らかそうだ。
 双眸は澄み、唇は淡く紅を引いているようだった。
 清廉な容貌に落ち着いた雰囲気。さらに物憂げな表情が女の美麗をより深めた。
 その人は、姫と呼ばれる人形だった。
 だが関節には線が見えず、一見人と変わりがない。生まれてから一体どれだけの時間を過ごしてきたのか、本人も分からないほど長く存在している。
 数ヶ月ごとにしか起きてこない姫は、蜜那が崩壊した次の日に目を覚ました。
 何かを感じ取ったかのような目覚めだった。
 蜜那のことを伝えると、姫は憂いを帯びた眼差しで頷いた。
 そして夜、人形の破片を焼き始めた。
 供養だ。
 壊れた人形は、こうして姫に焼かれる。
 人が火葬されるのと同じように人形たちは焼かれて浄化される。
「最低な人形師だ」
 泉は勢いを衰えない炎に、そう呟いた。
 自分の利益のためだけに人形をこんな形で破壊した。人形を大切にして欲しいと、自分の人形を欲しがる人たちに頼んでいたくせに。
「悔やんでおられますか」
 姫は鈴のような声で、泉に問うた。
 耳の奥に染み込んでは緩やかに広がっていく、柔らかな響きだ。
 いつもなら耳を傾けて心地よさを感じるのだが。今はぐらりと苦しいまでに心を揺さぶってくる。
「蜜那は自分の意志でこれを望みました」
 その唇からは白い吐息が吐かれることはない。
 人形に体温はないからだ。
「…知ってるよ」
「自分の意志でこの道を選び、自分の意志を曲げることなく、終わりを迎えました」
 姫は泉にその眼差しを向けた。
 波紋のない湖のような瞳だ。
 その深さに泉は溺れそうだった。いつもならそれでもいいと感じるのに、今夜は怖い。
「それがどれほど恵まれていることが、お分かり頂けるでしょうか。人でも、動物でも、そのようにして自分のことを全て決められるわけではありません」
 己の魂を、己が望むままにすることは、人であってもなかなか出来ることではない。
 それは泉も理解出来る。
 生まれてくることはもちろん、死であっても自分で支配出来ない者が大半だ。
「蜜那は望んで魂を持ち、望んで泉の元で動き、そして壊れていきました。自分の意志にどこまでも忠実なままで御座いましたね」
 それがどれほど幸いであるか。ご理解頂けますか?
 柔らかな口調で、姫は泉に尋ねる。
 子どもに問い掛ける母親のようだ。
 その慈愛が蜜那を思い出させて、声が詰まる。
「……でも…その望みも、僕がそうさせたみたいだ…。僕が作りだしたから、彼女は僕を好きになってくれて、それで…願いをかなえようと」
「それもまた蜜那の意志で御座いましょう?私たちは人形です。ですが魂を持った時、私たちは己にのみ従います。作り手を好きになるのも私たちの意志、貴方の願いを叶えたいというのも、蜜那の意志で御座います。誰にも強制は出来ません」
 朝日奈の人形は作り手をよく慕ってくれる。
 それは愛情を持って作ってくれたからだ、と人形たちは口々に言った。
 愛情に敏感な人形たちは、人の思いというものに応えようとする意識が強い。
 なので、泉は蜜那が自ら紅の模造と戦っているのも、そう仕向けたような気がして仕方なかったのだ。
 強制ではない。だがそれに近い、刷り込みのようなものがあったのではないか。だから蜜那は拒否しなかったのではないか。
 その疑問が泉を責める。
「もし泉が、自分の願いを叶えるために蜜那が本当は嫌だったのに、紅によく似た人形を壊していたのではないかと思われるのなら」
 姫はひたと泉を見据える。
「それは人形に対する侮辱のようなもので御座います」
「侮辱…」
「私たちは操り人形では御座いません。貴方の意志があっても、嫌なことは嫌だと蜜那なら申し上げたでしょう。それを貴方は信じられませんか?」
「……信じられないわけじゃないよ」
「本音を口に出来る間柄であったと、貴方は今でも信じていらっしゃいますか」
「信じてるよ。間違いない事実だから」
 瞳で繋がっているのは確かだ。だがそれよりもっと心の部分で、同じものを共有していた。
 まるで半身のような錯覚さえある。
 だから今、泉は自分が欠けていると感じていた。足りない。満たされない。
 どうしてここに一人で立っているのだろう。そんな不安すらあるのだ。
「それでしたら、蜜那が貴方を責めないということもお分かり頂けるでしょう」
「そんなの始めから分かってる。ちゃんと分かってるよ」
 責めるのは自分一人だと。
 蜜那も、恭一も責めないのだと。
 だがそのことがさらに泉自身を狂おしいほど痛めつけていた。
 分かってる。そう唇だけで呟き、泉は昇っていく煙を辿った。
 身体は燃え、煙となって夜に溶ける。
 では魂はどこに行くのだろう。
 いつか逢えるだろうか。
 もう一度抱き締めて、名前を呼びたい。
 子犬のように爛漫と笑うあの子の名前を。
 もう一度だけでも。



 恭一は毎日訪れた。
 学校が終わると制服のままここに来ている。
 よほど泉が心配のようだった。
 気遣いながら、だが会話が上手く繋がらず、沈黙が漂うことが多かった。
 蜜那の話題を避ければいいのか、それとも口にして良いものなのか。戸惑っているのがこちらにも伝わってくる。そこまで気にしなくていいと言うのだが、恭一は悲哀を滲ませて微笑するだけだった。
 ごく簡単な晩ご飯を毎回作っては泉に食べさせる。
 顔色が悪いのを気にしているのか、それとも小桃に何か聞いたのか。
 和の家にいることの多い小桃だが、恭一がいない昼間はこちらの家に来て掃除などをしてくれている。
 それがここ数日は毎日だった。
 どちらも泉がちゃんと生きているのか心配なのだろう。
 お茶を入れることは抜群に上手い小桃だが、実は味覚がない。なので料理は得意ではないのだ。
 だから恭一に食事を作ってくれるように頼んだのかも知れない。
 たすき掛けで着物の裾を上げて掃除をしている小桃を眺めていると、妙に遠く感じた。
 人形なのだと強く意識してしまう。
   自分とはあまりにも違う者なのだと。
 そんなことは分かり切ったことなのだが、泉が物心付いたときから小桃には魂があって、やはり家事などをしていた。
 だというのに今更そんなことに違和感を憶える。
 蜜那と同じ琥珀の瞳は、人形たちをより近くに感じていたのだろう。それが壊れ、また少し距離が空いた。
 しかし、それは言い換えれば元に戻っただけのことだ。
 蜜那を作る前の泉になっただけだというのに。
 自分の中で何かが欠け、人形というものがみんな遠く感じてしまう。
 小桃も、姫も、他の人形も。
 人形師としてもう終わってしまったのかも知れない。
 人形と距離を感じてしまっては、上手く声も聞けなくなるだろう。
 無理もない。
 自嘲が込み上げる。
 仕事をする気が起きずただぼんやりと過ごして、喪失から三日が経つと空白が日常になりつつあった。
 だが瞳は蜜那を無意識のうちに探していた。
 リビングのドアが開かれることをいつの間にか期待している。
 だがそれは、いつまでも静かなままだ。
 ゆっくりと失望が泉の中を巡っては気力を奪っていく。
 このまま朽ちるのではないか。感情は朧気でどうも意識がはっきりしない。
 そんなことすら受け入れてしまいそうだった。
「生きてますか?」
 四日目もやはり恭一はインターホンを押してやってきた。
 静かな雨の中だった。
 毎回苦笑をしながら泉を見つめる。
 そんなに酷い顔をしているのだろうか。
 鏡も見ていないので、分からない。
 壊れた左目を見たくなくて、鏡からは目をそらしているのだ。
「昼飯は?」
「インスタントで」
 面倒になって本当は抜いていたのだが、心配させるのが嫌で嘘を付く。
 すると恭一は「手抜きですね」と笑った。
 元気のない、空笑いだ。
 蜜那の不在は、泉だけでなく恭一にも深い痛手を負わせているのだろう。
 それだというのに、気を使わせてばかりで申し訳なさが込み上げる。
「コーヒーでいいですか?」
「え?いいよ、コーヒーなんて」
「俺紅茶飲みますけど」
「あ、うん」
 恭一はキッチンに入っていってはお湯を沸かす。
 ここ三日間食事を作り続けているのだ、勝手はもう分かるだろう。
 放っておくといつまでもぼうとしている泉は、恭一が動き始めてようやく自分の不甲斐なさを実感する。
 思考まで鈍くなっているのだから、救いようがない。
 コーヒーと紅茶を持ち、恭一はリビングのソファに戻ってきた。
 硝子のテーブルに二つのマグカップを置き、泉に向かい合うようにして腰を下ろす。
 いつもの定位置。
 だが足下に、子犬のような少女はいない。
 大きな琥珀の瞳で、嬉しそうに見上げてくる視線を思い出し泉は深く重苦しい息を吐いた。
「犬とかなら、良かったのかな」
「何がですか?」
「人形。犬だったらもっと冷静に向かい合えたかと思って」
 言葉も通じずお互いもどかしい気持ちはあるだろうが、その分もっと距離が取れた気がする。
 蜜那のように何もかも共有して、依存し合うような関係にはならなかっただろう。
 失う恐怖も、薄かったのではないだろうか。
「動物って身体で感情を表現するし、ひたむきだからどっちにしろ辛いのに代わりはないですよ」
「そっか…」
 そういえば、ペットロスなどで深く悲しみ命を絶つ人もいると聞いている。
 動物でも失えばその痛みに変わりはないだろう。
 考えなくてもすぐに分かるはずのことだ。
 随分馬鹿になっている、と泉は力無く自嘲した。
「知ってますか?犬って主人の喜ぶが一番嬉しいそうですよ。主人に喜んでもらうためならなんだってするそうです」
 恭一の話に、真っ直ぐな眼差しを思い出した。
 泉だけを見つめ、泉だけの声を聞こうとする瞳。
「似てるね…」
 ひたむきで、泉のことを真っ先に思っていた少女。
 誉めれば大喜びし、しかればしゅんと小さくなった。
 尻尾がなくても、どんな気持ちなのかはすぐに分かった。
「主人の笑顔が何より好きなんでしょうね」
 紅茶を飲みながら、恭一は語る。
 切なげな色がそこにあり泉は「きっとね」と頷いた。
 二人とも、思い浮かべているのはあの笑顔だろう。
「なのに、笑いかけてあげないんですか?」
「え…?」
「そんな顔させたくて、蜜那は貴方の側にいたわけじゃないでしょう」
 マグカップを置き、恭一は真剣な目で泉を見据えた。
 責めるわけではない。ただ問い掛けている冷静な視線だ。
「…そうだね」
 分かっている。それは分かっていると心の中で呟いた。
 だが笑い方がもう分からないのだ。
 蜜那がいないのに、どうやって笑えばいいのか、どうやって心を落ち着かせればいいのか。この空白をどうすればいいのか。
 元に戻ったはずなのに、心は砕かれてどんな形をしていたかなんて覚えていない。
「そうやって感情押し込めて、蜜那が見れば怒りますよ」
「もう、見れないけどね」
 確かにこんな腑抜けになってしまった姿を見れば、蜜那は呆れて怒り出すだろう。
 何してるの!?と。
 その光景がありありと想像出来て、やるせなさが強くなる。
「この瞳は」
 恭一は泉の苦笑を見咎めるように表情をさらに陰らせる。
 そしてソファから立ち上がり、泉の隣に座った。
「死んだんですか?」
 恭一の視線が左目に注がれる。
 今は色褪せた琥珀は、欠けた相手を求め続けては喪失に目を閉じたいと訴える。
「死んだよ…もう蜜那のものじゃない。届かないんだ」
 彼女がどこにいても、消えてしまっていても、もう届かない。
 繋がってはいないのだ。
「だからそうして凍えているんですか?」
「…語る言葉が、もう出てこないんだ」
 無言でただぼうとしている泉が恭一は心配なのだろう。
 安心させたくても、気休めの言葉も出てこなかった。
 痛ましいものを見る目で恭一は、泉の頭を抱き寄せた。
 そっと壊れ物を扱うような仕草に、離れることも出来ずただされるがままだった。
「恭一君…?」
「蜜那の気持ちが、よく分かりました」
 頭の上で恭一が囁く。
 穏やかな、深みのある声だ。
「貴方が苦しいところは見たくない。そのためならなんだって出来るっていう蜜那の気持ちがよく分かります。俺も今そう思うから」
 細くもない、しなやかでもない、節のある男の指が泉の髪をそっと撫でた。
 優しい、慈しむその手に、乾いたはずの心の奥から何かが溢れてきた。
 ぬくもりのようなものだ。
 それは泉の記憶を刺激しては、なくした感触を思い出させる。
「蜜那も、僕が凹むとよくこうしてくれた」
「抱き締めたくなる顔なんです」
「そうなんだ」
 どんな表情だよ。と軽い疑問が浮かんでは、口元をほんの少しだけ緩めた。
 胸の奥が震える。
 戻れない時間があまりにも恋しい。
 逢いたい。逢いたい。お願いだから、逢いたいよ。
 そんな思いが胸を突く。
「何でもしたくなる。何も怖くなくなる。貴方が笑ってくれるのなら」
 抱き締める手が泉の背中に回った。
 宥めるように撫でてくれるその慈悲に、泉は首を振る。
「何もしてくれなくていい。いいから」
 いなくならないで欲しい。
 もう失いたくない。
   抱き締めてくれるあたたかさをこれ以上失いたくない。
 泉を慕ってくれる人の服を、子どものようにぎゅっと握った。
 すると恭一の指が顎にかけられ、くいと上を向かされた。
 そこにあるのは甘い微笑。
「でもそうしたくなるから、仕方ないですよ」
 懐かしい台詞だ。
 蜜那もそう言って笑った。だって仕方ないじゃない。そう嬉しそうに言った。
「君たちは…」
「好きな人に幸せになって欲しいのは自然なことです」
「壊されても…?」
「笑ってくれるのなら」
 それでいいというのだろうか。
 十分だと言うのだろうか。
 泉は否定したかった。そんなはずはないと叫びたかった。
 苦しいはずだと、辛いはずだと言いたかった。
 だが「貴方はそうなのか」と尋ねられると、頷けはしないだろう。
 本当は、泣きたいくらい分かるのだ。
 その気持ちは。
 蜜那が初めて魂を持って、自ら動いた時、その微笑を見た瞬間思った。
「この子がこうして笑ってくれるのなら、何だって出来るだろう」と。
 その気持ちは今だって、息づいている。泉の中で生きている。
「あの子は…」
「幸せだって俺に言ってました」
「…僕にも…言っていたよ」
 何度だって聞いた、幸せそうに言っていた。
 それを見るとこちらまで幸せな気分だった。
 この子に出逢えて良かった。そう思えた。
「幸せだって……蜜那は」
 言ってた。
 ぬくもりが泉の中で溢れ出す。
 愛しさや、恋しさ、そういった類の感情が膨れ上がって抑えられなかった。
 だが表に出すことは出来ず、心の中で苦しいまでに広がっていく。
 息が止まりそうな気持ちを抱えている泉の左目に、そっと恭一の唇が触れた。
 柔らかなその感触に、目を見開く。
 人形にはない熱が、泉の眼窩に無理矢理押し留めていたものを零れさせた。
 思いは雫になり、ようやく頬を濡らす。
 ぽたりぽたりと落ちるたびに恭一の指が拭ってくれた。
 あたたかな指に触れられるがまま、涙は流れ続ける。
 貴方の望みを叶えられる人形で幸せ。
 耳の奥で、蜜那がそう囁いた。



 


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