恭一は溜息をつき、住人の許可なくエアコンの暖房をつけた。
 身体まで凍えては息が止まりそうだ。
 もう、胸は潰されて呻き声すら出せないのに。
「人形が愛おしいって言うくせに、やってるのはこれか…」
 起動し始めたエアコンの振動に紛れて、泉の苦悩が聞こえる。
「浅ましさに死にたくなる」
「泉さん」
 大袈裟に聞こえず、恭一は泉の傍らに膝を折った。
 死。という単語がどくりと心臓を打ち付けた。
 崩れていく蜜那の姿が鮮明に脳裏に蘇る。
 失うことの恐怖が恭一の中で暴れ始めた。これ以上の空虚は耐えられそうにない。
 止めてくれ。そう全身で願う。
「大丈夫、死なないよ。死んでも蜜那は戻らない」
 両手で顔を覆っていた泉が、手を力無く落とした。
 横顔は血の気がなく、左目は血が滲んで痛々しい姿になっている。
 ぼんやりとした表情はのし掛かってくる虚脱と悲痛な思いについていけないように見えた。
「でもそれくらい最低な気分なんだ」
 そう言う泉の耳にあったのは、赤い石だった。
 少し長めの髪に隠れて見えなかったが、今日のピアスは赤だったのだ。
 それが悲愴な色に思えた。
 血の涙のようだ。
「…何て顔してるの」
 泉はすぐ横で膝を付いて見つめている恭一に苦笑した。
 どんな表情をしているのか、恭一本人には分からない。だがきっと、情けない顔をしていることだろう。
 それでも強張ったままの泉よりましだ。
「ごめんね。こんな話聞かせて」
 それなのに泉は恭一を気遣う。
 余裕など、かけらもないはずなのに。
「泣いて下さい」
 喪失を計りきれずにいる泉に、そう願った。
 せめて泣いてくれればいい。
 こうして泣けずに、呆然としているより少しは楽になれるはずだから。
 悲しい、辛い、嫌だと泣き叫んでくれればいい。
 だが泉は苦笑したままだった。
「泣かないよ。なんで泣くの?蜜那が壊れたことに?でもそれは僕のせいで、その上予測してなかったわけじゃない。その可能性があることは十分理解していた」
「でも」
「今更泣くくらいなら、初めから止めておくべきだっだだろう?」
 だから、泉は泣かないという。
 辛いことも、苦しいことも、口に出さずにいる。
 言う資格などないと思っているようだ。
「でも辛いって顔してる」
 頭では分かっている。
 蜜那が壊される可能性など。
 恭一も考えなかったわけではない。あれだけの力を持ち、人形を破壊しているのだから、滅多なことでは、と思ってはいたが。
 だが絶対などないと知っていたのだ。ずっと、蜜那が崩壊するかも知れないということは、頭のどこかにあった。
 それでも実際にそうなれば、痛みに変わりなどないのだ。
 信じられず、驚愕に張り付けにされ、夢じゃないかと疑う。
 今もまだ、現実だと認識したくない気持ちのほうがずっと大きい。
 蜜那の楽しげな声が、部屋のどこかから聞こえてくるのではないかと期待している自分がいる。
「身勝手だから」
 目を伏せ、泉は自分を罵り続ける。
「身勝手でもいいですよ」
 自責に瞳を曇らせていく泉を見ているのが耐えられなかった。
 触れれば拒絶されそうで、伸ばしたくなる手で拳を握る。
「苦しいなら苦しいで、泣けばいいでしょう。誰も貴方を責めたりしない。分かっているでしょう」
 蜜那も、恭一も、泉を責めない。
 それ以外の人間は関係ない。
 ただ一人、泉本人だけが強く責めているのだ。
 苦しみに追い打ちをかけようとしている。
「分かってるよ。だから余計に自分の身勝手さに腹が立つんだ。何様だって、状況だよ」
「泉さん」
 見たこともない泉の姿だった。
 両手を組み、右目がぎらりと鈍く光る。
 はっきりとした苛立ちが宿った。それは穏和である常の泉からは考えられないほど深いものに見えた。紅の模造に対しても見せる激情に似ている。
「どうして分かっていたことに今更傷付く。どうして止めなかった。紅の模造を壊したいのなら、蜜那に依存なんてするべきじゃなかった」
 苛立ちは泉の唇を忙しくなく動かした。
 声は冷静で、それ故にこの怒りが大きいことが分かる。
 淡々と自責を述べる横顔は憔悴しきっていた。数時間でどれほどのものを消失したのか、計り知れない。
「大切で失えないなら、紅のことを忘れて、関わり合いにならないように避けて生きるべきだった。こんなことから手を引けば良かった。きっかけは腐るほどあったはずなのに、それでも僕は」
 泉の吐息がまた震えた。
 いっそ嗚咽に変わってしまえばいい。だが泉は、それを許さない。
「二つとも欲しいなんて、欲が過ぎるんだ」
 僕が壊れれば良かったのに。
 自嘲は泉を苛み、恭一に衝動を呼び起こした。
 頭より先に腕が細身の身体を抱き締めていた。
 びくりと腕の中の人は肩を揺らした。だが抵抗はなかった。
 服を重ね着しているはずなのに、思ったよりさらに細い身体は恭一を怯えさせる。
 壊れてしまうんじゃないかと。
 背はほぼ変わらないはずなのに、妙に小さく感じられる。
 呼吸音が間近で聞こえて、胸の奥がぶるりと震える。
 もっと強く、包み込むように抱き締めたい。少しでも楽にしたい。そんな思いが溢れ出すが、実際は何も出来ずにいた。
 ただひたすら痛かった。
 ここにいない存在が大きすぎて、自分では何も出来ない無力さが歯がゆくて、苦しい。
 小柄な少女に受けとめられた存在は、この両手では支えきれないのだろうか。
 鼓動が感じられる距離なのに、言葉一つも紡げない。
 迷うように泉の後頭部を包み込んで、自分に引き寄せた。
 泉さん、名を呼ぶことしか出来ない恭一に、泉が深呼吸をした。
「…もう、止めようか…君は怒る?」
 紅の模造を壊すことを止めようか。そう提案した泉に恭一は目を閉じた。
 ぎゅっと堅く瞑っては唇をきつく噛んだ。
 紅の模造を追うことは止められない。
 自分にとってはどうしても許せない存在なのだ。
 人形について一から教えてくれた、実の祖父を無惨な死体にした人形も、それを操った人間も、殺してやりたいほど憎んでいる。
 時間が流れても、それは収まることを知らない。
 思い出すたびに、灼熱が恭一を突き動かす。
 だが、泉を付き合わせることはない。
 今まではお互いの目的が同じで、だから恭一はそれに頼るようにして動いてきた。
 あまり良い顔をしない泉に強引な形でついていき、邪魔にならないようにして戦いを見ていた。
 時々役に立つこともあり、同行することでちゃんと助けになっているのだと思っていた。
 だが、泉がそれを嫌がるのなら止めてしまえばいい。
 強制などしない。勧めることもない。
 むしろ崩れてしまうそうなこの人を見ていると、もう紅の模造からは手を引いたほうがいいだろう。これ以上ぼろぼろになって欲しくない。穏やかな微笑を消して、自責で自らを傷付けて欲しくない。
 自分一人で何が出来るのか、はっきりと分からない。こんなちっぽけな力しかないのに、破壊出来るかどうかは疑問だ。
 だがそれでもいいと思えた。
「貴方が、望むなら」
 それを望むというのなら、恭一に止める理由はない。
「…君は、諦められる?」
 泉は顔を上げた。恭一の肩を少しだけ押し、目を合わせる。
 生気の薄い左目が赤く恭一を刺す。
「それは」
「君が諦めないのなら、僕だって諦められない」
 恭一が答える前に、泉は返事をしてしまった。
 それほど目には意志がありありと浮かんでいたのだろう。
「どうして」
 それだけ傷付いて、もう動けないほど虚ろなのに、何故諦められないなんて言うのだろう。
 そして恭一の言葉に左右されているようなことを口にする。
「君まで失いたくないから」
 泉の表情が歪んだ。
 耐えられないというように。
「…君まで失ったら、きっと正気じゃいられなくなる」
 後ろめたいほどの喜びが込み上げてくる。
 蜜那を失ってしまい、心がふらついてるのだろう。すがれるものなら何にだってすがりたいのだろう。だがその先が自分に向けられたことが、嬉しかった。
 苦痛を味わっている人に対して抱く感情ではないというのに、それは抑えきれず、恭一を苦笑させた。
「弱ってますね」
「そうだね。でもそれだけ君の存在が大きいことは分かって欲しい」
 いなくなれば、どうなるか分からない。
 そう呟く泉の声に、場違いな感情が恭一を襲った。
 触れている身体、鼓動、呼吸、その全てがはっきりと感じられる。
 強く意識してしまうと、視線もそらせなくなる。
 ほんの少し動くだけで、あまりにも容易に肌に触れることが出来る。体温を確かめることが出来る。
 だが、その「少し」が恭一を揺さぶった。
「分かるようにします…」
 離れたほうがいいかも知れない。
 状況をもっと弁えろ、と言いたくなる熱は高くなる一方だ。
 だが手放すのが惜しくて、感触を手に刻みつけるようにして泉を抱きしめている。
「目は本当にいいんですか?」
 義眼にはまだ見えないが、それでも左目は危ういように見えた。
 話題を逸らして冷静さを取り戻そうとする恭一に、弱々しい微笑が返された。
「義眼はまた頼むから」
「…本当に、痛くないんですか?」
「うん」
 頷いて、そっと泉が恭一を見つめた。
 すがるような色がそこにあり、気が付けば、吸い寄せられるように唇を重ねていた。
 駄目だと思っていたはずなのに一度触れてしまえば、有りもしない甘さを感じてさらに深く欲しがった。
 乾いていた唇を舐めても、泉は抗わない。
 目を伏せ、僅かに舌を動かしては恭一に接してくる。
 慰めなのか、痛みから逃れようとしているだけなのか、分からなかった。
 ただあたたかな唇を貪るようにして奪っていた。
 何をしているという叱咤の声は、何度か唇を重ね直し、二人の呼吸が乱れた頃にようやく恭一の脳裏で響いた。
「…つけ込む真似、したくなかったのに」
「うん…」
 唇を離すと、空しさが漂った。
 それと同じだけ劣情があり、どうしようもない居心地の悪さが流れる。
 恭一が視線を落とすと、泉もまた目を伏せた。
 優しげな瞳はやるせなさが満ちている。
 そんな人を押し倒して、抱きたいなど、人でなしもいいところだ。
 そっと腕を離し、距離を取った。
「俺、抑えられそうにないから。離れます」
 もう一度触れれば、今度は肌を感じずにはいられない。
 そしてそうなれば止めることなど出来ない。
 後ろへと少し下がると、泉は深く俯いた。
 前髪で隠れて、表情が伺えない。
 口付けなどして気分を害しただろうか。更に傷付けただろうか。
 どくりどくりと心臓が怯える。
 言葉を待っていると、泉はふいに顔を上げて部屋にかけてある時計を見上げた。
「もう深夜だから…帰ったほうがいいよ」
「え」
「高校生がこんな時間まで放浪したら駄目だから」
 泉はゆっくり立ち上がり、午前二時近くになった時計の針を見ていた。
「今更」
「いいから。帰りなよ。お願いだから」
 怒りはなかった。
 言葉通りただ願っているようだった。申し訳なさすら見せる顔に、恭一は反発出来るはずもなく、促されるままに立ち上がった。
 だがこのまま泉を一人にしておいて大丈夫だろうか。
 魔が差したように、何かするんじゃないのか。そんな不安がよぎる。
「心配しなくてもちゃんと寝るよ。死なないし」
 泉は不安を見透かしたように、力無く笑う。
 そして恭一の手を取った。
 冷たい指先だ。
 暖房はちゃんと効いて、恭一の身体はかなり暖めてくれたのに。
 その指に引かれるまま、リビングを出て玄関に向かう。
「心配なら、また明日おいで。携帯もいつ鳴らしてくれてもいいから」
 そしてまた、大丈夫。と泉は言った。
 何も大丈夫じゃないことくらい、本人にだって分かっているだろうに。
 まるでこちらが心配されているようなことを言われ、見守られるままに恭一は靴を履いた。
 帰りたくない。
 出来ればここにずっといたい。
 側にいたい。
 だが泉はそれを無言で拒絶する。
 憂鬱な思いと同じだけ鈍い手つきで靴を掃き終わり、玄関のノブに手を掛ける。
 止めて欲しい。
 しかし泉は口を閉ざしたままだ。
「…明日来ますから。絶対」
「うん」
「来ますから」
 言い聞かせると、泉は「分かってる」と返事をした。
 会話は途切れ、嫌々恭一はノブを回した。
 真夜中の空気が滑り込んできては、体温を奪っていく。
 この冷たさが泉に届かないうちに、ドアを閉めようとした。
 だが泉は見送りなのか、ドアのすぐ前まで来た。
「じゃあ」
 戻りたいと言う代わりにそう告げて背を向けた。
 指先からぬくもりを奪うくせに、身体の奥に生まれた熱を冷ましてはくれない夜に足を踏み出すと、玄関から声がかけられた。
「落としたいなら弱っている時につけ込むのが一番効果的なんだよ」
 声が告げた内容をとっさに理解出来ず、振り返るタイミングが遅れる。
 ガチャという音を聞いてから、ようやく視線を戻した。
 その場に立ち尽くし、凍えるまでじっとそのドアを見つめていた。



 


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