泉の左目から流れた血は、すぐに止まった。
 痛みもそれと同時に収まったらしい。
 本当かどうか、恭一には分からない。
 ただ血が止まった後、泉は痛みを顔に出さなかった。
 血は片目を塞いでしまう。
 だがそれに頓着することなく、泉は引いてきたスーツケースの中から白い布袋を取り出した。
 いつもは破壊した人形を入れる袋だ。
 それを二枚出して、砕けて散らばった破片を拾い始めた。
 冷静な行動だ。まるで心を凍り付かせたかのような。
 紅の模造と蜜那の破片は、よく似ていた。
 肌の質感が似ていたのだろう。
 出来が悪いとはいえ、肌くらいは似せられる。
 恭一は判別のつきにくいそれを拾い、袋へ入れていく。
 泉はそのたび「これはこっち」と袋を指示していた。
 どちらが蜜那の破片か、分かるらしい。
 作り手だからか、それとも瞳を共有している深い繋がりがあったからか。
 泉は破片を迷うことなく、分けていった。
 淡々と、感情をどこかに置き去りにしたように。
 吐く息が白くなり、掻き消えていく。
 指先が冷えて震えた。
 静かすぎる。
   この作業は、いつもは蜜那と一緒にやっていた。
 ばらばらにすると拾うのが大変だから、いつも出来るだけ砕かないようにしてる。と蜜那は言っていた。
 確かに一つ残らず拾おうとすれば、かなりの労力がいる。
 土で指が汚れていく。
 破片もまた、土に染まっていた。
 蜜那の肌は淡い色をしていた。触れると柔らかそうだった。実際は堅く冷たいのだが、見ただけではとてもそんな感触だとは思えないほどきめ細やかだった。
 人間の女が太刀打ち出来ないじゃないか。と恭一が笑うと蜜那は当然でしょ?と自慢げに笑った。
 誰の人形だと思っているの?と、自慢していた。
 彼女は、自分がこうして壊れていく仕組みだと知っていただろうか。
 おそらく、知っていたのだろう。
 だから来てはいけない、と制止したのだ。
 巻き込む恐れがあるから。
 大好き。
 そう笑っていた蜜那の顔がちらつく。
 背後から「恭一」と呼んでくれる声がないことに、違和感が込み上げる。
 喪失に、身体も心もついていっていない。
 今拾っている、この陶器のようなものは何だろう。
 どうして蜜那の服が切り刻まれて捨てられているのだろう。
 今まで、何を見ていたのだろう。
 軽い眩暈を感じて顔を上げると、泉の背中が見えた。
 しゃがんで小さくなっている。
 その手もやはり破片を拾っていた。
「泉さん」
 声を掛けると泉は瞬きをして、目を伏せた。
 だが何の表情もなく「うん」と返事をした。
 虚ろな響きに、恭一は喉を締め付けられる。
 破壊されたのは人形だけでない。泉をも破壊した。
 手を伸ばせば、このまま崩れ落ちてしまう人の姿に唇を噛む。
 かける言葉はもう、どこにもなかった。



 破片を拾い終わると、泉の家に戻った。リビングに白の布袋を二つ置くと泉は洗面所へ向かった。
 左目の血を洗い流すのだろう。
 恭一は二つの布袋を眺めて、どうして並べて置けるのだろうか、と思った。
 ずっと可愛がってきた蜜那と、その蜜那を破壊した人形をどうして並べて置いておけるのだろうか。
 片方は憎くてどうしようもないはずじゃないのか。
 もう一つは大切で仕方ないものじゃないのか。
 今すぐにでも二つを離してしまいたい衝動に駆られながらも、リビングで立ち尽くした。
 戻ってきた泉の左目は、赤く染まっていた。
 充血しているように見えるが、実際は血が滲んでいるのだ。
「痛くないんですか?」
 本当に医者に行かなくていいんだろうか、と恭一が尋ねると泉は首を振った。
「痛くないよ。一応見えるけど、視力も落ちてる」
 よく見ると、左目は右に比べて陰っているように見える。
 生気のようなものが薄い。それが作り物だという証拠なのだろうか。
 だがそんな雰囲気は、この夜まではなかった。
 蜜那が壊れるまでは甘い色をした優しげな琥珀だった。
 こんなに脆く見えなかった。
 光から遠のき、締め切った空間を見つめているような退廃的な色は、今夜までなかった。
 本当に、壊れてしまったのだ。
「…この二つ、どうして並べて置くんですか?」
 破壊された瞳を見つめているのが痛ましくて、恭一は視線を逸らした。
「どうしてって、人形だって好きであんなことしてたわけじゃないから」
「でも」
「人間によって動かされていただけで、人形自身の意志じゃない。だからこの人形を疎んでも仕方ないよ。蜜那だってこの人形自身を憎んだりしない」
「でも泉さんは、それでいいんですか?」
 たとえ人形が操られていただけでも、それでも蜜那を破壊した形が残っているというだけで恭一は腹の奥が煮える思いだった。
 だが泉は切なげに目を伏せる。
「…正直、辛い。本当は粉々に砕いて、消してやりたい。でも蜜那は、彼女は、そんなこと望まないだろう。人間の身勝手な意志から解放された人形にそんな仕打ちは、して欲しくないと思う」
 いつだって、彼女は人形を思っていたから。
 泉は静かに告げ、ソファに深く腰をかけた。
 そして視線を落とし、溜息をつく。
 恭一もまたその視線を追い、唇を噛んだ。
 蜜那が泉の足下にいない。
 ぽっかりと空いた場所が二人に静寂を突きつける。
「…僕、何やってるのかな」
 前髪をくしゃと乱して、泉が呟いた。
 指先は、僅かに震えていた。
「自分の人形、あんな目に遭わせて、何やってるんだろう…」
 小さな、消えそうな弱々しい声。
 震えるような寒い部屋の中で、乾いた響きが広がる。
「紅の模造が人を殺すのを、止めるために」
 泉の呟きに恭一は答えを返す。
 それが最初の目的だったはずだ。
 恭一は祖父を殺した人形を破壊するため。
 泉は紅の模造が人を殺すのを止めるため。
 そうして、始まった。
「…それは、蜜那を失ってまですることだったんだろうか」
 泉が口にしたのは後悔が深く滲んだ自問だった。
 リビングの隅に置かれた布袋が、存在を強く主張する。
 苛むように。
「…でも蜜那は望んでいました」
 蜜那は人形を破壊することを嫌がっていなかった。
 恭一にも、そう語っている。
   むしろ当然のことだと思っていると、はっきり言っていた。
 そこには、誇りすら滲んでいた。
「…そもそも、人形を破壊するための人形を作ったこと自体過ちだったのかも知れない」
「蜜那の存在自体が過ちですか?」
 人形が人形を破壊する。
 そのことに関して抵抗があったのは恭一も同じだ。だから泉が言いたいことも分かる。
 だが作り出したこと自体過ちだったのでは、と言われるととっさに反論したくなった。
 蜜那を作ったこと自体が間違いではないかと言われれば、あの人懐っこい少女の全てを否定されたように感じるのだ。
「そうじゃなくて…そうじゃ、なくて…」
 棘が混じってしまった恭一の声に、泉が首を振って苦しげに声を上げる。
 故意に責めるつもりはなかったのだが、含んでしまった棘は泉を痛めたようだった。
 すいませんと唇が動いたが、謝罪は宙に浮く。
 何に対して謝ったのか、泉には分からないだろう。こんなことは恭一の自己満足に過ぎない。
   自分に偏った言葉は今の泉には届かない。悲しみに沈んだ人の胸には、入り込むことは出来ない。
 どうすればいいのか、正直途方に暮れていた。
「人形なのに、人形を破壊しなければいけない。そんな役目を負わせるなんて非道なことを僕は蜜那に押しつけた。でも彼女は受け入れてくれて、僕はそれに甘えて今までやってきたんだ。それで…結局は」
 泉は深く息を吸い込んだ。呼吸が、震えていた。
 吐息が嗚咽になることを抑えている。
「僕は彼女を殺すことしか出来なかった」
 人形を壊すために作られ、身体は構造を調べられないように、自壊する仕組みまで組み込まれていた。
 泉のしてきたことを列挙すれば、それは確かに非道と言えるものだった。
 だが恭一は間近で見てきたのだ。
 非道なことをしている泉が、どんな目で蜜那を見ていたか。扱われていた蜜那がどれほど幸せそうな様子で作り手の傍らにいたのか。
 そこにはぬくもりや、笑顔、相手を思う気持ちが溢れていた。
 非道などという言葉が入り込む隙間もないほどに。
 しかし泉は殺した、と口にする。
 そんなことしか出来なかったと。
 ではあの、親子のような、兄妹のような二人は何だったのか。
「それ以外のことだってあったでしょう…。あんなに仲が良くて、通じ合っていたじゃないですか。それも、後悔してるんですか?」
「彼女を作ったことは後悔してないよ。人形を作って後悔したことなんて一度もない。でも…これが本当に蜜那の望みだったのかな」
 人形を破壊して、人形に破壊されるかも知れないのに。戦い続けることが望みだったのか。
 そして破壊され、悔やんではいないのか。泣いてはいないか。
 あの愛らしい表情が歪んだのではないか。泉はそのことに捕らわれている。
 辛いだけじゃなかったのかな。と乾いた声音がひび割れるように転がる。
「蜜那はそう言ってました」
 泉が電話に出ていて、二人しかいないときに蜜那は恭一は語ってくれた。そのことを思い出していた。
 幸せだと、泉の役に立てるのなら壊れることなど怖くないと。
 それは泉にも話したことだと蜜那は言っていた。だから知っているはずなのだ、この人は。
「…僕は一度だって彼女を幸せにしてない」
「あの子はいつだって幸せそうでした」
「破壊された時も、そうだったのかな」
「笑ってました。見たでしょう?」
 崩れていく自分の身体を見下ろして、その表情は恐怖ではなく微笑を浮かべた。
 ひどく優しげな、幸せそうな微笑みだった。
 それは泉に対するものだったのだろう。
 自分を失うことを怖がる主人を慰めるための慈愛だった。
「…見たよ…」
 なら、その奥にあったものにもちゃんと感じ取っているだろう。
 泉は両手で顔を覆った。
 あの微笑が眼窩に焼き付いては、恋しくて仕方ないように。
「何してるのかな…本当に。失うって分かってても、止めなくて、また失って」
 ぼろぼろと、泉の指から大切なものが零れていく。
「何一つ、もう何も失いたくなかった。大切なものは何一つ壊したくなかった。だから蜜那が魂を持った時に迷ったんだ。これでいいのか。蜜那を失うくらいなら紅は諦めたほうがいいんじゃないかって」
 後戻りの出来ない場所に立ちながら、泉の心境は揺れたことだろう。
「あの子が可愛くて、大切で、傷なんか付けたくなくて。それなら紅のことはもう忘れてしまったほうがいいって、思い始めた頃だった、また模造が…出たのは」
 そして激情は泉を焼いた。
 蜜那を失う恐怖と競りながらも、それは衰えることはなく次第に強さを増していったことだろう。
 模造は新しく現れては人を殺し続けているのだから。
「毎日、迷ってた。今蜜那を失ったらどうしようって。でもそんなこと考えてるくせに紅のことが忘れられなくて。怖がってた」
 ふと紅の模造が現れたという電話を受けた後の泉を思い出した。
 あれは紅の模造が出てきたことに対する怒りや、悲哀だけでなく、蜜那を失うかも知れないと言う恐怖のほうが大きかったのかも知れない。
 だから蜜那は泉を抱き締めた。
 大丈夫。そう囁いては、宥めていた。
 今の姿を見れば、きっと蜜那はまた泉を抱き締めるだろう。
 細い腕で包み込んでくれただろう。
 だが彼女はいない、そして自分が泉を抱き締めても、何の役にも立たない。
 人は、誰かの代わりになることは出来ないから。
 拳を握りただ見つめることしか出来ない。
 冷え切った部屋の空気が、沈黙とともに二人をさらに追い詰めているようだった。
 


 


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