夜の中で鮮やかな軌跡を描くように、少女は身体をひるがえした。 紅色の姫袖がふわりと揺れ、蜜色の髪がなびく。 襲いかかってくる人形の拳や蹴りを、あともう少しのところで避けていた。 後一歩手前に出ていれば当たる、だが人形はその間合いが取れず、蜜那に触れることが出来ない。 容姿は美しく、また肢体もしなやかな作りの人形ではある。 着ている服は身体に密着した黒の上下。顔や手などの、見えている部分の肌も淡い肌色で生気があるように生々しく見える。。 しかし 見た目はどれほど似ていても、紅という気が遠くなるほどの時間を過ごしてきたからくり人形にはほど遠い出来映えだ。 蜜那もそれを感じているのだろう、浮かんでいる笑みには余裕が溢れていた。 人気も、音も、車が通る気配すらない工場の近くにある広すぎる荒れ地で、蜜那は優雅に踊る。 満月を掲げ、心地よい音楽を聞いているかのように。 一見丈の短い着物のように見えるが、実際のところ帯から下は短いスカートようになっており、両サイドに切れ込みが入っている。その下は膝より上の黒フリルスカート。編み上げの靴が土の上で軽快に飛ぶ。 「遊んでるみたいですね」 紅の模造など相手ではないようだった。 以前に比べて更に動きは早く、的確に、そして優麗になっている。 戦っているはずだというのに、その動き一つ一つが雅だ。 恭一が感嘆の声を上げると、泉が微笑を浮かべた。 「身体が慣れたからね。遊びに近いものがあるかも知れない。僕がこうして意識を少し離しても全然揺るがないしね」 戦っている最中は泉が意識を共有して、不安定な蜜那の思考をより緻密に安定させるのだが今夜は時折こうして意識の共有を止めていた。 いつもならずっと蜜那に意識を向けていて、泉自身のことは完全におろそかになっているというのに、今はごく短い会話も出来ている。 それだけ蜜那の成長がめざましいのだろう。 いずれは泉と意識を共有することなく、戦う時がくるかも知れない。 「どこまで優れた人形なんですか、蜜那は」 「さあ?性能だけで言うなら、紅に劣らず、勝らずというところだと自負しているよ」 紅の本来の性能というものを、恭一は知らない。 人を殺す紅など見たことがないからだ。 静かに微笑を浮かべている姿しか覚えていない恭一には、その素晴らしさは計ることが出来ない。 二人の視線を浴びながら、琥珀の瞳をした舞姫は地面を蹴り、人形の肩へと手を置いた。 それをさらに押すようにして高く飛び、踏み台にしては宙で身体をくるりと回転させた。 蝶のように結んでいる帯の端が、動きから僅かに遅れて付いてくる。 それが優雅ですらあった。 艶やかな舞いを披露しながら、蜜那は人形の背後に下り立つ。 そして左の姫袖の中へ、右手を入れた。 どういう仕組みになっているのか、そこから刃の細いナイフが現れる。 蜜那の手に収まるサイズの柄には淡い刺繍が施されているようだった。 「あれ、どこから出てるんですか?」 前から疑問に思っていたことを尋ねると、泉は小さく笑った。 「まぁ、からくり人形だから」 仕掛け。ということだろうか。 泉は明確なことを言わない。 からくりと言うより、蜜那は他の人形と異なるところを見せない。 そういえば、紅もからくり人形だと言われていたが、一体どこにどんなからくりがあったというのだろう。 内心不思議がっている恭一の前で、背後に立たれ振り返った人形の腹を、蜜那のナイフが深々と突き刺し、横へと引き裂こうとした。 もう終わる、そう恭一が気を抜いた瞬間。 人形の胸部から食虫植物の葉のように、鋭い刃物のようなものが左右から飛び出してきた。 肋骨のようにも見えるそれは、蜜那の身体を両脇から貫こうとする。 「蜜那!!」 泉の叫びも空しく、食虫植物に捕らえられた蝶はその肢体にひびを入れた。 きめの細かい肌に鋭利な骨が刺さり、みしりと鈍い音を立てて身体を歪ませようとしている。 電流のようなものが、空気を切るようにして流れた。 二人とも、信じられないような表情で凍り付く。 「駄目よ」 我が目を疑いながら、それでも駆け寄ろうと足を踏み出した二人に、蜜那がはっきりと制止をかけた。 その時、蜜那の胴体に人形の骨がめり込んだ。 横になった巨大な口にも見えるそれは、小さな少女を喰い殺そうとしている。 止めさせなければいけない。 今ならまだ間に合う。蜜那は人間ではない。人形だ。ある程度の破損なら身体の交換がきくはずだ。 「来ないで」 だが恭一が来ることを蜜那の声は拒んだ。 そして人形の腹を刺したナイフから手を離し、人形の首を掴んだ。 人形は抵抗しようと蜜那に手を出す。だが空いていた片手でそれをはね除ける。 身体は貫かれ距離が取れず、近距離で首を掴んでいるが破壊するのは難しい。 加勢するべきだ。そう恭一は判断するのだが。 「人の手は借りない」 氷のような蜜那の声音。 完全な拒絶だった。 それは夜に響き渡っては、二人が動くことを許さなかった。 一瞬の迷いが恭一の身体を縫い止めていると、蜜那の細い指が人形の首をへし折った。 小柄の少女の小さな手で大人と同じ大きさに人形の首を折るとは、想像を絶する握力だ。 紅に似た、だが出来の悪い模造の頭部は土に落ちた。 ごとりと鈍い音を立て、無惨に転がる。 長い黒髪がさらりと広がり、人であったなら血が溢れているところだろう。 だがそこには砂のような欠片が僅かに散らばっただけだった。 蜜那は人形の腹に刺したままのナイフを引き抜いた。 そしてその切っ先を、頭部へと射る。 細身のナイフは人形の右眼窩を貫き、顔や頭部全体に大きな斜めの亀裂を作った。 触れただけで大きく割れてしまうだろう。 もう、その人形は動くことは出来ない。 それを確認して蜜那はゆっくりと後ろへ下がった。 頭部を失った人形の胴体から距離を取ろうとするが、骨のようなものが身体を貫いていて上手く動けないようだった。 泉が衝撃から立ち直るようにふらりと一歩踏み出す。 助けたいのだろう。 しかし、それをやはり泉の人形がはね除けた。 「駄目。もう分かるでしょう?」 諭すような、優しい響きに泉の肩がびくりと震えた。 目を見開き、その場で硬直してしまう。 「泉さん?」 何故そんなにも驚くのか、どうして止まってしまうのか。 恭一には分からなかった。 それより、人形の胴体からなんとかして逃れようとしている蜜那に手助けをするほうが先決のような思われた。 「とりあえず、引き抜くのが先でしょう」 何が駄目なのかよく分からないが、人形に固定されたままなのか可哀想だ。 恭一は蜜那に近寄ろうと軽く駆け出す。 この修復はなかなかに難しい。おそらく別の身体を用意しなければいけないだろう。 朝日奈の人形は一つのパーツごとに交換をする。腕、足、下腹部、胸、など、一つ一つなのだ。 理由は知らないが、蜜那の状態であるなら、一気に胴体全てを変える必要があるだろう。 今夜は大変そうだと思われた。だが。 「泉さん?」 恭一の肩を泉の手が掴み、引き寄せる。 振り返ると青ざめた顔は強張り、怯えのようなものが張り付いている。 どうしたというのだ。人形はもう壊したじゃないか。 恭一の困惑は次の瞬間、明らかにされた。 蜜那の腰の関節が、ずれた。 上半身と下半身のバランスが、少しばかり横に揺らいだのだ。 え、という声を零している間にも、左の肩が外れ、腕の関節が歪む。 それは、解体だった。 蜜那は無表情で外れた左手首を見つめ、、ずれ始めた右側の手でそれを掴んだ。 そして地面に転がる頭部へと、自分の左手を投げ付けた。 突き刺さっていたナイスの柄に当たり、ナイフがぐらりと傾いて、頭部を大きく二人に割り裂いた。 完全に、人形を破壊するためだろう。 「なんで…」 蜜那が自ら壊れていく。 事態が飲み込めず、立ち尽くす恭一に泉が深く息を吐いた。 「蜜、那」 乾いた声で、泉が名を呼ぶと蜜那は微笑を浮かべた。 母親のように慈愛に満ちた、穏やかな微笑みだ。 見つめ合った琥珀の瞳は何を伝えたのか、蜜那は一つ頷くと薄い桃色の唇で何かを呟いた。 耳では聞き取れない、だがその唇の動きに、恭一はこれが絶望なのだと知った。 蜜那は、もうここで壊れていくのだと、知らざる得なかった。 「泉さん!どうして!」 制作者にわけを求める。 泉はじっと壊れてゆく蜜那を見つめ、こう口にした。 「からくり人形だって言っただろう?これが答えだ」 蜜那の身体の中には、何かキラキラ光るものがあった。 それは体内を駆けめぐっては、蜜那を破壊している。 指は関節ごとにバラバラの破片になり、二の腕は割れ、肩が外れる。 硝子が砕け散るように下肢は破砕され、胸は人形の骨に貫かれた部分から砕片へと変わり果てていく。 「…蜜那は…もし身体を解体されるようなことがあれば…その身体を自ら破壊するような仕組みになっている…」 「どうして!?」 「分解された際、構造を調べられないために、僕がそうした。紅の二の舞になるわけにはいかない」 たどたどしい口調で、泉が説明をする。 その眼差しは今まさに首から切り離される頭に向けられていた。 「蜜那の身体は、一度破壊を始めると、二度と修復出来ないレベルまで壊れる。近付けば、その破壊に巻き込まれて、君まで壊される…」 だから泉は恭一を止めたのだ。 その言葉に呆然とする恭一の前で、蜜那の頭が首から切り離された。 そして笑顔で駆け寄ってきた少女の肌が、唇が、瞳が、乾ききった大地のようにひび割れる。 人の目を魅了して止まない容貌が壊れ、琥珀がぱきりと大きく割れた。 終わってしまう。 あの少女が、もう二度と笑わなくなる。 どうにかして止めたい。時を戻したい。そんなどうしようもない衝動が恭一を焼く。 無意識の内に手が伸びた。触れてもどうしようもないことなど、理性では分かっているはずだった。 だが感情が、蜜那を求めた。 「ぅ…!」 だが小さな呻きに、恭一が我に返った。 横を見ると泉が背を丸めていた。 「っ…く…ぃ」 泣いているのかと思った。 顔を右手で覆って、嗚咽を零しているのかと。 衝撃で強張ったままの表情が崩れ、涙を流し始めたのかと。 だが地に落ちた雫は、透明ではなかった。 真っ赤な、鮮血が目を押さえた指の隙間から零れ落ちたのだ。 「泉さん!?目が!?」 「いいから」 はぁ、はぁと荒い息をしながら、泉が首を振る。 激痛が押し寄せているのだろう。 「いいわけないでしょう!!救急車!!」 それとも車で救急病院に連れていった方が早いだろうか。恭一がパニックを起こしている頭でそう判断を下しかねていると「駄目だ」と泉が恭一の腕を掴んだ。 どうして泉も、蜜那も、止めてばかりなのだ。 壊れてしまうところを、なぜじっと我慢して眺めていろと言うのだ。 苛立ちがかっと恭一に走り抜けた。 「何がですか!!いいから医者に連れていきます!」 腕を乱暴にふりほどくと泉が叫んだ。 「医者じゃ何も出来ないんだよ!この眼は蜜那と同じなんだから!だから…」 「…じゃあ…」 「壊れたんだよ…」 弱々しい泉の声まで、薄い硝子のように砕けて落ちる。 恭一は言葉を失い、荒い呼吸で揺れる泉の肩を見下ろした。 壊れた。 紅の模造も、蜜那も、そして泉の左目も。 どうして、こんな突然。 何の前触れもなく、いきなり全てが崩壊してしまうんだ。 さっきまで、当たり前のように三人並んで歩いていたのに。 現実味を失い、途方に暮れてしまう。 だが地面に転がった人形の残骸も、蜜那の破片も、泉の血も。 瞬きをしたところで元に戻るはずがない。 「壊れたんだ…よ」 かくりと泉は膝を折り、その場に座り込んだ。 懺悔する人のように。 次 |