腹をくくるとむしろ楽に付き合える。
 距離を測ることなく、縮めることだけに考えればいいのだから。
 もっと近く、もっと深く、そう接すればいい。
 すっかり慣れてしまった広いリビングで、恭一はソファに座りながら背を預ける。
 冬の日差しは観葉植物を暖めている。
 暖房が入った空間の中で寒さは弱く、硝子のテーブルに置いてあるコーヒーがすっかり冷めてしまっても、二人とも無関心だ。
 もちろん寒さ暑さなど関係のない蜜那がそんなことを気に止めるはずがない。
 ただ泉の足下に座っては作り手の顔を見上げていた。
 どうしてソファに座らないのだろう。と見るたびに思う。
 泉もそれを促さない。好きなようにさせているらしい。
 飼い主と子犬という図に見えて、こちらも違和感を感じない。微笑ましいくらいだ。
「泉さんのこと好きだな」
 恭一の問いに蜜那がにやりと笑った。
 悪戯を仕掛ける小僧のような表情だ。
「羨ましい?」
 ぐさりと刺さるように台詞だった。
 先日泉とキスしている場面を蜜那に見られてからというもの、こういう攻撃を食らう。
 腹を立てることも、苛立つこともない。だが少々痛いところがある。
 純真無垢な少女にいかがわしさを指摘されているようで、居心地はあまり良くない。
「羨ましいけど、俺が足下にそうやってくっついてるわけにいかないから」
 蜜那のように愛らしい少女がそうして足下にいる分には泉も嫌な気はしないだろうし、見た目もおかしくない。
 だが恭一がそうして足下に座って擦り寄れば、一気に妖しい世界に突入だ。
 背後に紫の薔薇でも舞っていそうで恐ろしい。
「それは妙な光景だろうね」
 泉もその姿を想像したのだろう、複雑そうな笑みを浮かべた。
 遠慮したい、と顔が言っている。
 耳には羽を形取ったシルバーのピアス。丸眼鏡は水色がかっているが、よく見なければ分からないほど色味は薄い。
「でしょう?」
 どちらも勘弁したい、という顔をすると蜜那がくすくすと笑った。
「いつの間にか僕より大きくなってるでしょ?会った頃は僕と同じくらいだったのに。そんな人にかしずかれても」
「危ない人たちみたいですね」
「危なくないの?」
 蜜那の無邪気とも思える質問に、二人は口を閉ざした。
 お互い視線を送っては、何とも言えないというように苦笑した。
「人に危害を加えるタイプの危険はないから、いいんじゃないっスか?」
 恭一が投げやりに答えると「まぁ」と泉は曖昧に頷いた。
 危害は加えない。
 別のことは、泉にくわえるけれど。そう恭一は含めた。
 それを感じ取っているのだろう、泉の苦笑は深まる。
 どうやって落としていこう。そう思った矢先、電話が鳴った。
「ちょっとごめん」
 泉は一言告げて、リビングを出ていった。
 電話の音は遠く、別の部屋に置いてあるらしい。
「いつもそうしてんの?」
 泉がいなくなると、蜜那はいなくなった人が座っていた場所に腰を掛けた。
「そう。落ち着くから」
「足下にいるのが?隣じゃなくて?」
「側にいるだけでいいんだけど、見上げてると安心するの」
「へぇ」
 隣じゃなくて、見上げるのがいい。
 そんな感覚もあるのようだ。
「指示を待ってるみたいでしょ?」
 蜜那は、人に依存しているような様など一切ないような雰囲気で言った。
 泉かいなくなると、途端に少女は一人の女を見せ始める。
 誰にも頼る必要などない、一人きりで生きていける。そんな独立した意志を見せるのだ。
「飼い主大好きな子犬みたいに見える」
「大好きだもん。きっと恭一より」
 比較され、恭一は片方の眉を上げた。
 ふぅん、と少々面白くない呟きを零す。
 気持ちを軽く見られたようで、いい気分ではなかった。
「計ったの?俺の気持ち」
 泉の人形で出会った時から、泉という職人に憧れていた。
 こんな人形を作る才能に憧憬を抱き続け、そして本人に会い、職人だけでなく一人の人間として泉は何を思っているのか、見ているのか。触れているのか。それが知りたいと思ったのだ。
 憧れという領域を越え、興味は恭一の心を焼いた。
 眼差し一つすら奪いたいと願うようになってしまった。
 柔和な容貌をしていても、男には違いがないというのに。
 何が恭一をそこまで焦がしたのか。正確なところは分からない。きっと理由が分かればここまで冷静を欠いていないだろう。
 蜜那に対して、対抗意識のようなものも持たなかったはずだ。
 形振り構えなくなっている自分に、苦笑はするが悔やむ気持ちは沸いてこない。
「計っていないよ。でも恭一は人間だから」
「人間だから?」
「うん。だって人間は自分を基本として動いている。自らの継続を望み、死ぬことを恐れ、自分のことを真っ先に考える。動物もそうだね。命があるものってみんなそうだと思う」
 蜜那は淡々と語った。
 他人事として冷静に分析していた。実際人形に命はないのだから、他人事には違いがないのだろう。
 少女の面差しをしているのというのに、口調は老成している。
「でもあたしにはそんなものはない。壊れるのも怖くない。自分の魂より思いを優先するの」
 一抹の不安も。迷いもなく。
 人間が本能として持っている、自己防衛など一切ない人形は、自分の思ったこと、願ったことを叶えるために身体も魂も捨てることを厭わないというのだろう。
 恐怖がないのだ。
「つまり、泉さんのためなら命も惜しくないって?」
 使い古された口説き文句を口にする恭一に、蜜那は微笑む。
 自信に満ちあふれた、大輪の華のような笑みだ。
 手折れることなど有り得ない、見ている者にそう強く印象付ける瞳が真っ直ぐ恭一を見据えた。
「惜しくない。惜しむのものでもないもの。泉の望みなら何だってするし、出来る。その為に生まれてきてるから」
 当然のことように蜜那は口にした。
 愛玩のためだけに生み出された人形ではない。愛されるためだけの物じゃない。
 そのことを強く意識しているようだった。
 矜持の強さと高さに、恭一は内心頭が下がる思いだった。
 蜜那は、生まれてからまだ数ヶ月しか経っていない。
 生まれてからどのようにして魂を宿し、意識を作っていくのかは知らない。だが今まで自分が過ごしてきた時間や、抱えてきた思いに決して劣らないものを蜜那は持っているのだ。
 作り手と、自分のために。
 だが矜持の高い人形に託された願いは、自分と同形の物を破壊するということだ。
 それは蜜那にとって複雑ではないのだろうか。
 今は泉のためと強い意志を持っているが、生まれたばかりの時は一体何を思っただろう。
「前から思ってたんだけど。人形を壊すために生まれてきたって知った時どう思った?俺なら複雑だけど」
「当然だと思ったよ。そのための身体だし」
 蜜那は強く言いきった。
「あたしは瞳をはめ込まれた時に泉の思ってることが流れ込んできて、紅のことを知ったし、その模造のことも知った。それがどれだけ屈辱的なのか、泉がどれだけの苦痛を感じているかも分かった」
 それは恭一がどれだけ想像しても、完全に知ることの出来ないことだ。
 蜜那にしか分からないのだろう。
 羨ましい、そんな感情が無意識の内にぽつと生まれた。
 それに嗅ぎ取ったのか、蜜那が表情を緩めて笑った。
「いいでしょ」
「ちょっとだけ」
 嘘、ちょっとじゃないくせに。と蜜那は楽しそうに恭一をからかった。
 だが湯気のなくなったコーヒーに目をやると、その笑みはゆっくり消える。
「紅のことを知った時、今すぐにみんな壊したくなった。動けなくて、ろくに意識も持ってないけど、それでも一刻も早く壊してしまいたかったの」
「むかつくんだ、やっぱ」
 紅と蜜那は実際には一度も会っていないはずだ。
 それでも泉のことを思うと、激情が沸いてくるのだろう。
「だって紅がどんな人だったかって知ったら、あたしだって好きになったもん。恭一だってむかつくでしょ。自分の大切な人の姿で人間殺してたら」
「激怒どころじゃすまねぇな」
 考えるのも嫌になる。言われただけで不快感がぐっと腹の奥から込み上げてきた。
 自然と声が低く、乱暴になった。
「でしょ?その為に迷うことなんかないよ。あたしは泉の気持ちと、朝日奈の人間みんなのプライドを背負ってるわけ。嬉しいってことはあっても、怖いとか全然思わない。動けなくなるまで、身体がバラバラになるまで破壊し続ける」
 身体が砕けてもこの意志だけは守り続ける。そんな目で蜜那は誇らしげに言った。
 揺らぎなど知らぬ、澄んだ琥珀の双眸に恭一はただ感謝した。
 自分のために蜜那がそんな決意をしているわけではない。
 恭一などは部外者だろう。
 だが蜜那の姿勢に自分の願いを見たのだ。
 祖父の復讐。そんな私的な願いを。
 自分一人では決して叶えられないことを、蜜那はやってのけるだろう。
 便乗するような形は、本意ではないが。その代わり蜜那が戦っている間は泉を無事に守り続ける。
 それが、せめてもの助力だ。
「…でも、泉は迷っているみたいだけど」
 ふっと蜜那の眼差しが陰った。
 肩が落とされて、小さな少女に戻る。
「迷ってる?」
「あたしのこと思って、迷ってる。人形なのに人形を破壊しなきゃいけないのは嫌なんじゃないかって」
 恭一が思ったことを泉も考えているらしい。
「悩むのよ。あたしは自分が望んでることだからって言ってるのに」
 それでも泉は気になるのだろう。
 兄妹のように見えるほど仲が良く、可愛がっているのだ。
 心を砕くのも無理がない。元々泉は人形をとても大切に扱っているのだ。
「蜜那を思ってるから」
 心配性の親を持った娘の相談を受けている人のように、当たり障りのない返事を口にする。
「あたしを思ってるなら、あたしの気持ちを一番にして欲しい。あたしは壊れるの覚悟してるから大丈夫だって」
「泉さんは嫌なんだろ。それでも」
「あたしだって嫌だもん。だって壊れたら泉と離れるじゃない。すっごく嫌。でもそれよりもっと嫌なの。紅の真似されて、人を殺されるのも。それを聞くたびに泉が泣きそうな顔して、でも悲しむの無理して我慢してるのも」
 蜜那はぐっと拳を握った。
 小さな子どものような仕草だ。
 切なげな表情で「泉、苦しそうなんだよ」と自分も同じ苦痛を味わっているような呟いた。
「…うん」
「分かるでしょう?」
「ああ」
 恭一の前では、泉は悲しい、苦しい、辛いという表情を隠してしまう。
 だが隠しきれなかった一瞬の間で、恭一はその深さを知る。
 殺された人の死、全てを受けとめようとしているのだ。
 まるで自分が殺してしまったかのように。
 だが背負うにはあまりにも大きすぎるのだ。恭一など殺された祖父の死一つだけで、心はいっぱいになってしまった。
 そしてそれを行ったのは、大切な人に酷似したもの。
 優しげな微笑がいつ壊れるのだろう、そんな危惧が恭一にのし掛かってくる。
「紅は泉のお母さんでもあり、お姉さんで、家族なの。そんな人があんな扱いされて」
「…俺が泉さんと同じ立場だったら、やっぱり蜜那を作りだしてただろうな」
 自分がそれを止めるだけの術を持っているなら、どんなことでもしただろう。
 蜜那に対して罪悪感を抱きながらも。
「あたしもよ。だから平気。でも泉は怖いのよ」
「蜜那を失うのが?」
 こくんと頷き、少女は窓に目をやった、
 その向こうに何が見えるのか、ひどく寂しげな色を見せた。
「きっともう何も失いたくないのね」
 恭一は、その台詞に目を伏せた。
 もう泉はもう失うということを嫌というほど味わっているだろう。
 血の繋がった人も、育ててくれた人もいない。
 たった一人でこの家に住み、長い間一緒にいた大切な人形を奪われ。もう十分なはずだ。
   怖がるのも無理がない。
 だが蜜那はぽつりと、零した。
「そんなこと無理なのにね」
 冷静な、そのくせ寂しげな声だった。
 そんなこと出来ないよ。そう言うような瞳は遠くを見ていた。
 別離がくると感じているかのような眼差しだ。
 恭一が静まり返ったリビングの中、言葉を探しているとドアが開かれ泉が戻ってきた。
 憂鬱そうな顔をしている。
 電話の内容はあまり嬉しいものではなかったようだ。
「紅ね」
 顔を見た瞬間、蜜那は見抜いたようだった。
 泉は答えず、蜜那の隣に腰を下ろした。
 随分身体が重そうに見える。それだけ一気に疲れたということだろう。
「大丈夫よ」
 自分より大きな泉の身体を、蜜那の細い腕が抱き締めた。
 そしてぽんぽんと子どもをあやすようにして背中を軽く叩いた。
 宥めているのだろう。
 泉は目を閉じ、深く息を吐いた。悲愴なに面もちに、恭一の胸もまたじくりと痛む。
 笑っている顔が一番よく似合っている。それだけに痛みを堪える姿は見ているだけで苦しくなるほどだった。
「あたしが何とでもしてあげるから」
 だから大丈夫。
 不安を払拭したいのだろう。蜜那はそう囁くが、泉が表情を緩めることはなかった。
 



 


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