「そういえば、その刻緒は今どこに?地下で眠っているんですか?」
 この家の地下、人形を制作している部屋のすぐ隣に人形を安置している部屋がある。
 持ち主がいなくなった、魂のある人形などが主に眠っている。
 だが泉は首を振った。
「刻緒はもういないよ。親父が病気になって、死ぬのを見届けてからこの部屋の後片づけをして逝った」
「逝ったんですか…」
 恭一の声に落胆が滲む。
 一目だけでも見たいと思ったのだろう。だがその願いは叶えられることはない。
「親父の棺に入り、親父の傍らで焼かれて逝った」
「焼かれて…」
 呆然とした声に、泉は目を伏せた。
「残されるのは嫌だって言ってね。僕も止めなかった」
 止められなかった。
 父は亡くなるまで家にいた。病状が悪化して、手の施しようがない状態になってから病院に入り、そして余命を告知されてからずっと家にいた。
 泉はほとんど介護をした覚えがない。
 刻緒がずっと付いていたからだ。
 人間とは違い、休養の必要がない刻緒は四六時中父に寄り添い、そして父もそれを望んでいた。
 これほど引き合っている二人だ。父が亡くなった後刻緒はどうなるだろうと思っていた。
 祖父の時には、祖父が亡くなったと知った途端、自壊する人形が続いた。きっとそうなるのだろうと思っていた。
 だが刻緒は、父が息を引き取ってからも凛としたものだった。残された者の仕事として、父の身体を清めて、服を着替えさせ、部屋の掃除をした。
 葬儀関係は泉が小桃たちと共に手配したが、家でのことは全て刻緒がやっていた。
 そして部屋の片づけが終わり、父が焼かれる前日に、刻緒は自分も焼かれて逝くことを泉に告げた。
 考え直してくれなど、口にすることも許さないものが刻緒にはあった。
 父がいなくなった今、この世に未練などかけらもない。後片付けも済んだ以上ここに存在している必要もない。だから逝かせてくれと。
 義時と共にいることが私が生み出された意味だった。
 そう言った刻緒に泉は頷いてしまったのだ。
 確かにそうであると、思ってしまった。
 棺に入り父を見つめた刻緒の瞳は、愛おしさで溢れていた。
 いつだって二人はそうだった。だから引き剥がすことは出来なかった。
 出棺を躊躇わなかったわけではない。けれど、泉は黙ってそれを見送った。
「作り手が死んだと同時に自壊する人形は多い。僕も刻緒が生き残るとは思ってなかった」
 だからといって同じ棺に入り、焼かれることを望むとも思ってはいなかった。
「壮絶、ですね…」
 二人の関係に、ただならぬものを感じたのだろう。恭一は戸惑いを滲ませていた。
「情が深かったから」
 父が、刻緒が灰になるまで、泉は火葬場に立ちつくしてこれが愛情の形の一つであることを知った。
 それまでも人と人形という得意な関係に、愛情の在り方を考えなかったわけではない。けれどこの激しさを、底のない思いを見せつけられて、改めて知ったのだ。
 感情というものは、心というものは、魂というものは、歓喜するほどに、恐ろしいほどに強いものなのだ。
「自分が人間の女のように抱くことが出来ない者であることを悔やみ、親父に身体を作り変えるように頼んだり、動けなくなった親父の看病をしたり、喜びも悲しみも分け合って許し合ってた」
 父がいれば刻緒がいる。刻緒がいれば父がいる。
 それが、当たり前だった。
「夫婦って言うより半身みたいだった。だから親父が刻緒を作るために生まれてきたって言ったのも頷けてさ」
 あの二人はお互いのために生まれてきたのだ。
 父は刻緒を作るため。刻緒は父と生きるため。
 必然のようにして二人はここにいた。
「……二人は、ここで暮らしてたんですね」
 泉が部屋を見つめては亡き二人を思い出したように、恭一も同じ姿を探しているのだろう。
 感慨深いところまで似てしまっている。
「そう。外界を放り出してね」
 世間の声も、目も、二人には届かなかった。そんなものはどうでもいいと、父は捕らわれることはなかった。
「なら、このままにしておきましょうか」
 恭一に言われ、泉はうんと言いかけた。
 だがふと口を閉ざす。
 今まで、放置していた。
 父や刻緒がこの世に未練を持っているはずがないということも。自分たちの部屋自体に思い入れがさしてあるわけではもないことは、生前からして明らかだ。
 あの人たちは互いのこと以外は気にしていない。
 それだというのにこのままにしておけば、この先ずっとこのまま保存されていく気がする。
 泉はこの部屋に用はないので、支障はないのだが。
 いつまでも父を偲んでいるようで、少し気にかかるものではあったのだ。
 一人この家に残された寂しさを引きずっているかのようで。
「それは、構わなくていいと思う。親父が執着してたのは刻緒だけだし。刻緒が欲しがってたのも親父だけ」
 ここに二人が戻ってくることはないのだ。
 残しておく必要は、本当はどこにもないのだ。
「このままにしておいたのは使われなかったせいと、俺の無精」
 そして、少しの孤独感からだ。
 けれどもう変えてもいいかも知れない。
 泉は自分の片割れを持った。
 一度は失ったが、再びそれは動き始めている。
 鮮やかな緋色の人形。
 何より、恭一がここにいる。
 泉がどんな人間なのかを知っている上に、好きだと言ってくれる人。この人がいるのに、寂しいなんて感じていられない。
「じゃあ、俺が来てもいいですか」
 同居したい。ここに来たいと恭一は何度も言っていた。
 じゃれるような会話の間だったり、情事の後であったり。
 それはふとした時に恭一の口から聞かされていた。
 けれど今のように思い詰めた瞳で、ぴんと張った緊張感を漂わせて尋ねてきたことはなかった。
 後ろはない。
 泉はそう感じた。
 それまでははぐらかすことが出来た。駄目だよとやんわり告げていれば、その場だけは恭一が引き下がってくれる。でも完全に諦めはしない、また言ってくるだろう。
 そんな雰囲気だった。
 けれど今断ってしまえば、駄目だと言ってしまえば、恭一は二度と同居のことを口にしなくなるだろう。これが最後の、本気の願いなのだ。
 泉は息が止まりそうなほどの迷いを抱いた。
 頷きたい、怖い。その二つに引き裂かれそうだ。
「……僕は他人と暮らしたことがなくて…」
「俺もそうです」
 困惑を色濃く滲ませる泉に対して、恭一の声は鮮明だ。
「誰かと暮らした時のペースが分からない…。親父たちと暮らしていた時は、人形師同士だったから、お互いよく分かっていたんだけど…」
 恭一は人形に携わっているとは言えども、人形師ではない。
 人形師であったとしても、朝比奈は独特のものがある。
 作業に没頭すると感覚の全てが人形に集中してしまい。他のことは何も感じなくなる。そんな特殊な状態に入ってしまうのだ。
 恭一にもそれは話しているが、彼が思っているよりも泉は人形に浸食されている。そのことを、受け入れられるだけろうか。
「作業に支障が出ると困るんだ」
 本当に、困るのだ。
 人形師である以上、それ以上に重視しなければならないことはなく、また恋人であってもそこは譲れない。
「君が…君が側にいるのは嬉しいけど」
 それは誤解がないように伝える。
 側にいるのが嫌なわけではない。むしろ恭一が側にいることに喜びもあるのだ。
 好きな人にいつでも会えることを喜ぶのは、当たり前のようなものだから。
「俺が泉さんに合わせます。作業の邪魔なんて絶対しません」
 恭一はそう宣言する。
 泉の作る人形が好きだと言っていた人だ。その妨げを自らするような人ではないことくらい分かり切っている。
「自分が……僕自身がどうするのか分からないんだ」
 泉はフローリングに伸びている、窓から入り込んでくる光を見下ろした。恭一の存在が邪魔になるかも知れない。ということがまず頭にちらついていた。けれどこの部屋に入って、父の話をして、自分が恐れているものが本当は何であるのか、気付いてしまった。
「え?」
 恭一は何を言われているのか分からないという声が上げている。
 無理もない。今までこんな事を言ったことはなかったから。
「親父は…刻緒を作ってからしばらく、人形を作らなかった。二年くらいかな」
 刻緒を作った以上、もう他の人形を作っても意味がない。
 父はそうとまで言った。
「刻緒がいればいいって言って…刻緒にのめり込んだ」
 だが特別な人形を作ることが出来る朝比奈の職人を遊ばせておくことは、好事家たちも、他の職人たちも許さなかった。
「でも人形を作るようにせっつかれて、じーちゃんとも話し合ってまた作るようになったけど」
 あの時、父はもういいだろうと言っていた。
 人形だけでなく、誰かに心奪われてもいいだろう。と。
 祖父は反論出来ずにいた。人形師である以上、人形を作り続けろ、自分が望む望まざるに関わらず、とは言えなかったのだろう。
 それは親として、人としての情だ。
 黙り込んだ祖父に、一度は父の意志が通ったように思えた。
 けれど子どもだった泉にせがまれ、祖父の無言の願いを感じ、人形たちにも淡い期待を囁かれ、父は人形を再び作り始めた。
 折れたような形ではあったが、再開した人形制作は刻緒以前と変わりのない出来映えで続けられた。
「今以上に君に執着したら、僕もそうなるかも知れない」
 手を伸ばせば恭一に触れられる。
 人形作りに没頭していて、自分が生きているかどうか分からなくなってしまった後に感じる、あのぬくもりは気持ちがいい。
 自分が溶けていくような感覚に、快楽が混じるのだ。
 ずっとこれを味わっていたいと切望するほどだ。
 そうでなくとも、恭一に触れていると心地が良い。
 自分を好きでいてくれる人、自分が好きな人と抱き合っているとこんなにも安らぐのかと思う。
 それを始終得られる環境。
 そこに溺れずにいられると、誰が保証出来るだろう。
 甘さに慣れてしまえば、それを求め続けてしまうのが人の欲だ。
「そうなった時、窘めてくれる人がいるかな」
 祖父も父もいない。
 泉が人形師として尊敬している人は、この世にはいなくなってしまったのだ。
 そして周囲の人々の声に、泉は自分を曲げることはしない。
 祖父や父がそうであったように、人の声を耳に入れることはあっても自分の意志を歪めることは出来ないのだ。
 それをしてしまえば、人形師は人形の声を見失う。
 人形師は人形の声を聞いて作るだけの存在だ。人の声に比重をかければ人形の声がかすみ、また人形の声なくして魂を持つ人形など、作れはしない。
「俺が」
 恭一の言葉に、泉は視線を上げる。
 必死になっている姿には悪いが、浮かんでくるのは苦笑だった。
「君を言いくるめる自信がある」
 なんだかんだと言っても、恭一は泉に甘い。
 こと人形に関しては泉の言うことを丸のまま納得してしまうような人だ。
 そんな人を言いくるめるのは、非常に容易いだろう。
「反論出来ません…」
「だろうね」
 情けない顔を見せた恭一に、泉は苦笑ではない笑い方をした。
 素直な部分がとても好ましいのだけれど。
 今はそれが少し怖かった。



 


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