人形を作ることより、心惹かれるものがあるなんて恭一と付き合うまで知らなかった。 好きだと言われた時も、口付けた時も、こんなに意識が奪われるものだとは思わなかったのだ。 今まで女性と付き合ってきて、好きだと思っても心が裂かれるほどの気持ちはなかったから。恭一相手でもそうだと思っていた。 だがそれは過ちだった。 人形のことに関しても遠慮なく話が出来るということが最も大きかった。 思っていること、考えていることをそのまま話しても全て通じる心地よさというのは、かけがえのないものだったのだ。 だからこそ、物理的にでも距離を持たなければ今後どうなるのか。分からなかった。 人形を作ることより執着を持ってしまえば、それを止められるかどうか。 「…泉さんを説得出来る人がいます」 恭一はそれまで難しい顔をしていたが、不意にさっぱりとした様子でそんなことを言った。 「どこに?」 尋ねる泉に、恭一は無言で部屋を出た。 そのまま階段を下りていく。 今からその人のところに行こうというのか。 後ろに付いていこうとして、ドアが開かれる音を聞き「あー…」と腑に落ちた声を上げてしまった。 なるほど、そこに辿り着いたのか。 泉は脱力をして、一階のリビングに足を踏み入れた。 父の場合は祖父と泉が説得した形になった。だからついつい人間にばかり意識がいっていた。 けれどよく考えれば、泉に対して一番影響力を持っているのはここにいる存在だ。 恭一と泉に見つめられ、リビングのソファに座っていた緋旺は怪訝な眼差しを向けてくる。 手元には新聞が広げられている。 知識や社会の流れを知るために、緋旺は新聞を読んでいる。 「緋旺。俺がもしこの家に来て、泉さんとずっと一緒に過ごして、今よりお互いに執着したら。泉さんは人形を作るのを忘れると思う?」 恭一は立ったまま緋旺にそう問いかけたが、緋旺は向かいのソファに視線を送った。そこに座れという意志だ。 見下ろされたまま話をすることが、緋旺は好きではない。 その視線を読みとり、恭一はちゃんと向かいのソファに腰をかけた。泉はどうしようか迷い、いつも通り緋旺の横に座る。 「恭一。残念だけどそれは有り得ない」 二人が座ってから、緋旺は口を開いた。 泉が恭一に執着して欲しがっていると思ったのだろう。わざわざ残念という言葉まで付けて断言してくれた。 「泉は人形師だから、朝日奈に受け入れられた時から泉の生き方は一つしかない」 片方の目を通じて記憶などを共有している緋旺は泉をそう語った。 人形師としての記憶と感情。そして人形としての意志を持っている緋旺の言葉だけに、重く響いた。 「でも親父は一時人形を作らなくなった。じーちゃんや僕がねだったから、また作り始めたけど」 自分が同じ状態になったら、と不安を見せる泉に対して緋旺は淡々としたままだった。 「あの人は説教をされて戻ってきたわけじゃない。あのままでもいずれ人形を作っていた」 「なんで、そう断言出来るの」 あまりにも堂々と言われ、泉は思わず懐疑的なことを口にする。 「義時は人に言われて素直な聞くような人間だった?私にはそうは思えない」 たとえ相手が息子であれ、父であれ、義時は自分が決意すればてこでも動かない。 そう緋旺に言われ、泉はぐうの音も出なかった。言われてみれば、義時は人形のことに関しては誰の意見も受け容れなかった。 祖父もそうだ。 穏和な人ではあったが、職人としては頑固な部類だった。 「泉だってそう思っていたでしょう?」 「…まあ」 感覚と記憶が繋がっている緋旺に言われ、泉ははっきりしない返事をする。 「違うのなら違うと言ってもいいよ」 最近表情が豊かになったのと同時に緋旺の言葉遣いも少し変わってきた。 性別を感じさせない喋り方をしていたのだが、少し女性に近い口調になってきたのだ。 見た目に合わせているのだろうな、とその適応能力に感慨深さを抱きながらも、肩をすくめた。 「自分で自分を否定する気にはなれない」 緋旺の抱いたことは泉の抱いたことに近い。 少女人形の口から改めて聞くと、確かに父は誰かの言葉を聞くような人ではなく、自分の意志で人形を作り出したのだと納得が出来る。そもそも、人形を作らずに生きていける方法なんて、泉には想像も出来ない。 人形を作ること以外、泉に出来ることなんて限られ過ぎている。 「じゃあ俺が来ても大丈夫ですね」 恭一が喜色を露わにそう言った。身体を前のめりにして、今にも泉に迫ってきそうだ。 「……それはどうかな」 人形師として支障はないと言われても、他人が生活に入り込んでくることに抵抗が消えたわけではない。 渋って見せると恭一は「どうして!」と子どものように声を荒らげた。 泉が年上であるせいか、恭一は自身を大人びて見せたがっているようで、言動が実年齢より落ち着いている。なので、こんな反応は新鮮だった。 「人形を作ることに問題は出なくても、君と暮らすことで集中力が削られる場合があるかも知れない。一人暮らしがもう長いからね」 「でも俺がいても集中出来るかも知れないじゃないですか。邪魔しないように気を付けますし」 「うん。だから、休みだけ泊まって行って」 その提案に、恭一は難色を示した。 「それじゃ今と変わりません」 「連休の間ずっといていいから」 「…夏休みは入り浸りますよ?」 これまで三日ほどの連休なら家に滞在していることを許可していた。だが三日以上になると一度家に戻れと促していたのだ。 家族と同居している学生なのだから、長い間家を空けていると親が心配すると思ったのだ。 恭一はしっかりしている人なので、親も安心して自分のやりたいようにさせているのかも知れないが。 だが同居をねだられ、高校も卒業した以上長期間この家に泊まって行かれるのも時間の問題だと思っていた。 泉が学生を辞めて人形師として朝日奈の名を背負ったのも、恭一と同じ年だった。そのせいか、もう子どものようには扱えないと思った。 「お試し期間みたいなもんかな」 夏休みなどの長期になった場合、ずっと恭一がいる生活をどう感じるのか。自分を試してみたいというのもあった。 夏休みが終わった後、寂しさで落ち込むようなことがあれば笑い者だが。 「それと、僕が一番気になってるのは君がここに越して来ると通学のために朝早く起きるだろ?僕は夜通し作業をしていて朝になったらばったり眠るってことがあるから、君が通学の用意をしている生活音で起こされるのは辛い」 熟睡しているのなら、恭一が朝食を食べたり、顔を洗ったりという生活の中で有り触れた音量ならば起きないだろう。 けれど寝入りばなであるのなら話は別だ。 ただでさえ作業を終えたばかりの神経は敏感になっている。素直に睡眠に入らせてくれないことになれば、苛立つだろう。 「だから休みの日だけで勘弁して欲しい」 ごめんね。と言うと恭一は反論しなかった。 作業を終えたばかりの疲労と尖っている神経は、恭一にも理解出来るのだろう。 「通学に時間がかかるのは分かってるんだけど」 「それは俺が選んだ大学なので構いません。通学の時間も分かった上で入りましたから。でも休みになったらここにずっといますから」 通学の時間が長いという愚痴は、恭一にとってはここに越してくるための足かがりのようなものだったのだろう。 通学時間に関しては全く落胆した様子を見せない。 「うん。でもそれ以外の時はちゃんと帰るように。学生なんだから。ちゃんと学生をしないと」 大学でどんなことをしているのか、泉は恭一からたまに話を聞いている。 美大に数ヶ月だけしか通っていなかった泉にとっては未知の領域に近い。 つまらないと溜息をつくこともないので、きっと恭一は大学生活をそれなりに楽しんでいるのだろう。 「それで、いいんですね」 同居を渋り続けた泉の提案に、恭一が念押しをする。 恭一が望んでいるものよりずっと程度の低いものになったというのに、それでいいのかと尋ねる恭一に笑みが浮かんできた。 「君がいいのなら」 「もちろんです」 せいぜい二泊三日しか出来なかった人は、長期滞在の許可が嬉しいらしい。力強く返事をした。 「今週末から泊まりに来ます」 「て、後三日しかないでしょう。片づけもしてないのに」 二階の洋室はさっき見たからどんな状態かは分かっている。小桃のおかけで塵も積もっていない。だがすぐに入れるというものではないだろう。 「せめてあのダブルベッドは処分させて」 恭一があの部屋に入ることになれば、泉の恭一の部屋で眠る可能性が出てくる。あの二人が抱き合って眠ったベッドの上で、今度は息子である自分が抱かれるというのは、どうも抵抗があった。 そもそも、あのベッドに別の人間が横たわること自体、違和感がある。 「じゃ、代わりのダブルベッドを買いましょう」 「ダブル…」 嬉々として発案する恭一に、泉はぼそりと呟いた。 やはりダブルを買うのかと。 「一緒に寝るならダブルの方がいいでしょう」 「そうだけど」 シングルで寄り添うには、二人の体格は小柄ではない。 いつも窮屈さは覚えていた。 「今から買いに行きますか」 恭一は一度下ろした腰を軽々と上げた。 あまりにも迅速な反応に「今から!?」と泉は驚かずにいられなかった。 「今日買って、今日荷物が届くわけじゃないし。シーツとかも買わないといけないでしょう」 恭一はリビングに置いたままだった上着を手に取った。 このまま出ていくつもりだ。 それほどダブルベッドが欲しいのか。 「泉さんも寝るんだから一緒に選んで下さい」 「…恭一君が気に入ったやつでいいよ」 ベッドにこだわりなどない。 ましてダブルベッドがどんな形であろうとも、広いことに変わりはない。足を伸ばして眠れるのならそれで十分だ。 楽しみにしている恭一には悪いが、泉はさほどダブルベッドに惹かれるものはなかった。 「どピンクで回転するやつでもいいんですか?」 「ラブホ!?」 どんなベッドを購入する気だ!?と泉は目を見開いて恭一を見上げる。 そんなもの家具屋に売っているのだろうか。 「それが嫌なら一緒に行きましょう」 恭一は上着のポケットから車の鍵を取り出す。 休日はここまで車でやって来ているのだ。 「嬉しそうだなぁ」 どピンクのシーツに包まれて眠るのも、なんだか嫌なので泉は重たい腰を上げる。 「夢への第一歩ですから」 恭一は笑みを浮かべて、堂々とそう告げた。 「これが夢なんだ」 「そうですよ」 泉と同居すること。 それは泉にとっては自分が一つの決意をすればすんなり動くことで、夢というほど大きくも重大でもなかった。けれど恭一にとっては、実現するかどうか分からない、それでも望んでしまうほど大切なことだったらしい。 そんなにも、泉の存在は恭一の中で膨らんでいる。 「義時は幸せそうだったでしょう」 恭一の中にいるだろう自分の形に嬉しいと感じた時、緋旺がそう言った。 「傍らに最愛の者がいた」 父は、気難しいと自他ともに認められていた男は、刻緒と出逢ってから微笑むことが増えた。 その眼差しは柔らかくなり、雰囲気はぬくもりを帯びるようになった。 愛おしさを知った父は、優しさを持つことを覚えて、それを刻緒だけでなく周囲にも零すようになった。 そして刻緒と共にいる時の父は、安らいでいた。 その表情は、幸せという思いにも見えた。 「僕もそうなる?」 あんな風に、自分を変えてくれる存在に出逢って。 泉は微笑みを深くして、幸せを抱くことが増えるのだろうか。 「それは貴方たち二人がどうするかっていう問題ね」 緋旺の冷静な判断に、泉は恭一を見た。 そこには何の迷いもない、喜びだけをたたえた瞳があった。 |