ソファに座って顔を天井に向けていた。
 目を閉じては、眼球に長時間酷使していたことを謝っていた。
 手元を何時間も見つめ続けなければならない、この仕事は目に良くない。
 だが目を気遣って作業時間を短くする、休憩を入れながらやる。ということは頭にない。
 集中力が切れてしまうことの方が問題だからだ。
 人形一体に意識を向けている間は、他のことは入ってこられない。なのでその意識が途切れる前に出来るだけの段階を踏んでおきたいのだ。
 単調作業の繰り返しではあるが、勢いというものが大切だった。
 全神経を手元にそそぎ込むので、作業から離れた時が大変だ。
 疲労が一気に押し寄せてくる。
 今日はまだ一晩もかけていないのでましな方だった。
 そうでなければソファなどではなく、ベッドに倒れ込んで眠っていることだろう。
 傍らに座っている緋旺がまぶたの上に手をあけててくれた。
 人形である緋旺の手は冷たい。
 そのひんやりとした感触が目を慰めてくれる。
「あ、携帯の電源が切れた」
 週末ということで家に来ていた恭一の声がした。
 大学生だが、休みになればうちに来ている。
 他にやることはないのかと訊いたこともあったけれど、何よりここに来たいのだと言われた。
 人形の補修をしている家の子だ。職人になっている彼にとって、この朝比奈という家は興味をそそられるものなのだろう。
 泉も恭一が来て、精神に余裕があれば自分が作っている人形を見せることがある。
 それに、好きだと口にしながら抱き合っている関係だ。
 ここに通ってきてくれることは、純粋に嬉しい。
「充電してくれば良かった」
 悔やんでいる声がした。
 恭一の携帯電話を思い出すが、その会社までははっきりとは思い出せない。
「会社は?」
 泉の思考を読みとったように緋旺が尋ねた。
「泉さんとは違うところだから、充電器は貸して貰えない」
 恭一もこちらの言いたいことを先読みしてくれたらしい。
 手間のかからない人だ。
「別に困りはしないけど」
 恭一の携帯電話が鳴るところはあまり見ていない。
 メールが着ていても見た後は返信もせずに置いているのがほとんどだ。
 あまり携帯電話に関してはまめな方ではないのだろう。
「ここに住んでいればすぐに充電出来たのに」
 わざとらしいまでの溜息と共に聞こえてきた言葉に、泉はぎくりと心臓が跳ねるのを感じた。
 携帯の電源が切れたくらいで、そこに話を持っていくのか。
「緋旺は、俺がここに住んだら嫌?」
「別に」
 どうして泉ではなく緋旺に尋ねるのか。
 おそらく泉に訊いてもはぐらかされて逃げられるのがおちだと学習してしまっているのだろう。
 この話題は何度も繰り返されているので、お互いの返事も想像が容易くなってしまっている。
「部屋は二階が空いている。和室は無理でも洋室が入れる」
 緋旺は素直に恭一にそう教えていた。
 だがそれはすでに泉の口からも出ていることだった。
 和室には亡くなった祖父の仏壇が置かれている場所だ。
 そこに他人が暮らすというのは居心地が良くないだろう。だが隣の洋室はそういうった物は一切なく、そもそも物自体がとても少ない。
 その事実を緋旺を言っているのだろう。
「知ってる」
「そして日当たりがいい」
 そう、その部屋はとても日当たりがいい。
 バルコニーに出れば景色も良い。周囲にあまり高い建物がないのだ。
 午後にあの部屋に昼寝をしたら気持ちがいいだろうなと思う。
 しかし、未だにあの部屋に鎮座しているダブルベッドの上で一人昼寝をする勇気はなく、その気持ち良さを体験したことはない。
「掃除も小桃がちゃんとしてる」
 緋旺は家のことはしない。
 家事をするのは祖父の代に作られた小桃という人形だ。
 普段は接客として使われている隣の家で暮らしている。だが泉が日常生活を過ごしているこの家にも毎日来てくれているのだ。
 そして部屋の掃除をしていく。
 それは小桃の仕事であると同時に、小桃の生き甲斐にもなっていた。
 仕事が苦痛であるのなら辞めてしまえばいい。けれど小桃にとって祖父がいなくなった日々を過ごすために家事というものはなくてはならないものになっていたのだ。
 そのため、小桃を手伝うということはしない。緋旺もそれを知っている。
「ならすぐに入れるなぁ」
 恭一の呟きに、泉はようやく自分のまぶたの上に置かれていた緋旺の指を避けた。
「こーら。家主放置で何の話だ」
 瞬きをしてから恭一を見る。すると不服そうな顔がそこにあった。
「同居の話ですよ」
 分かり切っているでしょう。と恭一の目が言っていた。
「泉さんに話してもはぐらかされるだけなので、外堀から埋めていこうかと思って」
「せこいな」
 しかもその外堀が緋旺だ。
 泉にとって最も近く、影響力の大きなところを狙ってきている。
 とは言っても、泉に関わりのある者なんてそういない。恭一以外に、泉に大して進言出来るのもまた、緋旺くらいのものだから仕方がないのだろう。
「諦められないので」
「どっちも」
 恭一の言葉に続けられた緋旺の台詞が、突き刺さってくる。
 そう、同居が心底嫌ならとっくに冷たく却下している。
 だがそうではないのだ。
 恭一が、すぐ側にいることはありがたい。
 会いたい時に会える。人形を作ることに没頭しても、すぐに人間のぬくもりと愛おしさを思い出させてくれる存在が共にいることは、嬉しさでもあり、安堵だ。
 けれど、泉は今の状態が望ましいことも分かっていた。
 寂しさと恋しさが満たされるのはいい。けれど泉は職人だ。
 人形を作ることを至上の喜びとし、人形を作らずに生きていけるとは思えない。
 もし他人と同じ空間で暮らすことで、人形を作るということに支障が出るようでは困るのだ。
 そんなことになれば、恭一を邪魔なものだと感じてしまうかも知れない。
 それが嫌だった。
 好きなら好きなままでいたい。
 苛立ちなどかけらもなく。
「……たまには先代にご挨拶を」
 恭一は黙った泉を気にして、そう言い出した。
 仏壇は話題に出た二階にある。
「駄目だと言われれば大人しくしますけど」
 意図が分かって、頷き難く思っていると恭一が苦笑した。
 そこまで頑なになることもないだろうと、泉は「どうぞ」と階段をのぼる。
 他人がここまで上がってくることは恭一以外ない。
 祖父や父を慕ってくれた人たちは、隣の家にある仏壇を案内している。こちらの家に入れることは基本的にないのだ。
 階段を上ってまず右手にある部屋の襖を開ける。
 そこが祖父の部屋だ。
 畳が敷かれ、古めかしい家具が並んでいる。
 新聞などを読んでいる姿が不意に蘇ってくる。泉が物心ついた時にはすでに老眼鏡をかけており、随分手元から文字を離して読んでいたものだ。
 人形を作っている時以外は滅多に怒ることもなく、穏和な人だった。
 皺だらけの手には叩かれたことより、撫でられた数の方が圧倒的に多かっただろう。
 仏壇には白菊が添えられている。小桃がこまめに取り替えているのだ。
 そこに飾ってある写真の祖父は、人形たちに寄り添われて微笑んでいる。傍らにいる少女の人形は祖父が亡くなった次の日に自ら壊れてしまった。その隣にいる妙齢の女性の人形もそうだ。
 祖父と共に未来を絶った人形は少なくない。
 失われた人形の数に寂しさは覚えたものの、それだけ祖父は人形たちに魂を与え続けていたのだと思うと感慨深いものがあった。
「失礼します」
 恭一はそう言って、仏壇の前に正座した。
 深く頭を下げ、両手を合わせる。
 ぴんと伸びた背中を、泉は後ろから眺めた。
 こうした他人が祖父を偲んでいる姿をいつも見てきた。泉に祖父との思い出を語る人もいた。
 けれどその人たちと語るより、祖父に作られた人形、たとえば小桃などから祖父の話を聞いた時の方がずっと心に染み込んでくる。
 人形たちはどんな人の目より正確に、そして深く祖父を見つめ、そして思ってくれているからだろう。
 恭一は篠倉の家で祖父と会ったことが何度もあるだろう。けれど仏壇に語りかけることもなく、立ち上がって泉を振り返った。
「先代の仏壇は隣ですか?」
 祖父の次は父に挨拶をしようと思ったのだろう。
 けれど泉は首を振った。
「親父の仏壇はないよ」
「ないんですか?先々代の仏壇は向こうとこっちにあるって聞いてたからてっきり二つずつあるんだと思ってました」
「親父は供養なんて一切して欲しくないって言ってた人だから。本当は仏壇自体必要ないんだよ」
 そう言って泉は苦笑した。
 父は、この世に未練の欠片もない人だった。
 執着したのは、ただ一つだ。
「客間にあるのは、来客が気を納めるためにあるだけ。じーちゃんの仏間がここにあるは、この窓から」
 泉は仏壇の向かい側にある窓を見た。
 丁度人が畳の上に座り、膝を付けながら眺めるのに良い高さに窓が付いている。
 祖父は窓の前に座り、頬杖をついてそこから外を見ていた。
「ばーちゃんの墓が見えるんだ」
 泉は窓に近寄り、外を指さした。
 この周囲は緑が多い。だがその緑がぽかりと開いた箇所に灰色の固まりが並んでいるのが分かる。
 恭一も隣に並んで、その場所を見付けたようだった。
 しかし同然のことながらここからではどんな墓があるのかなど確認出来はしない。
「あの辺りにばーちゃんが眠ってて、じーちゃんは毎日それを見てた」
「毎日、ここで?」
「そう。だからこの部屋で暮らすのを止めなかった」
 この家を建てる際、祖父はこの部屋にこだわった。
 本来なら階段の上り下りが辛くなることが目に見えていたのだ。一階の、泉の部屋に入るのが自然だった。
「足腰が弱ってんだから、一階の方が楽だったろうに。ばーちゃんが見えなくなるのは嫌だって言ってね」
 きっと祖父にとって、墓という形であろうが祖母を感じられる場所にいたかったのだろう。
「夫婦仲は良かったんですね」
「らしいね。僕が来たときにはもうばーちゃんはいなかったんだけど」
 人形たちは祖父と祖母のことをよく聞かせてくれた。
 祖母はよく喋る明るい人だった。祖父は尻に敷かれて、祖母にお小言をもらうのが日常だったと。
 身支度は祖母がしゃんとしてやらないと祖父はいつもだらしのない格好して、人形に関しては細かいのに自分の身なりに無頓着なのが不思議だと、祖母はぼやいていたらしい。
 そんな二人はいつもは仲が良く、しかし一端喧嘩が始まると激しかったらしい。
 間に挟まれるとろくなことがなかった、そう人形たちは笑っていた。
「人形たちから聞いた分には、すごく良かったみたい」
 祖母が亡くなった時、祖父は泣き暮らしたという。
 泣いて、泣いて、このまま後追いをするのではないかと人形たちが心配していたほどだ。
「一人で階段を下りるのが困難になってからも。一階で生活はしなかったくらいだから」
 泉がどれだけ勧めても、父が苦言をしても、祖父は頷かなかった。
「まぁ、人形たちがじーちゃんの手伝いを喜んでしてくれてたし。みんなじーちゃんの世話ならこぞってやりたがってたからなあ」
 祖父が階段の上り下りをする時、近くにいた人形が手伝っていた。
 手を添えたり、支えたり、ゆっくりゆっくり階段の上り下りをしていた。
 人形師の助けが出来る。ということは人形にとって嬉しいらしく、まして自分の作り手であった場合は己の生き甲斐のように感じるらしい。人形たちは嬉々として祖父に付き添った。
 祖父の手伝いがしたいために、祖父の周囲には必ず人形が付いて回っていたほどだ。
「中でも小桃はよく働いてたなぁ。あの子が一番長く魂を持っていたから」
 小桃は祖父の代から働き者だ。
 今も埃一つないこの部屋を見ていると、小桃の思いが伝わってくる。
 息子と孫をよろしく。
 そう頼まれた小桃は、今も祖父を思っていることだろう。
 いつも着物を纏っている小柄な姿に、泉は無性にお礼が言いたくなった。
 寂しさを堪えて、ここに残ってくれてありがとう。
 何度もそう言っているけれど、祖父を懐かしむたびに噛み締めていた。



 


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