こんな話してると気分が悪くなる。
 蜜那は機嫌を斜めにしたまま、そう言ってリビングを出ていった。
 どうしてそんなもの作ろうとするの?と泉を責めてもおかしくないような雰囲気だったが、仕事には口を出さないという暗黙の了解でもあるのかも知れない。
   ここにはいない依頼者に文句を並べながらも、作り手に不満をぶつけることはなかった。
 泉はそんな様子を苦笑しながら見ていた。
「無茶な願いだ」
 コーヒーを入れ、恭一に差し出しながら泉は再びソファに腰を下ろした。
「そんなことが出来た人形は、一体しか知らないしなぁ」
「いたんですか?」
 恭一はコーヒーを口に運び、慣れないブラックの味に強い苦みを覚える。
 深夜に仕事をしていて、眠気を払う時にしか飲まないのだ。
 カフェインに対して抵抗力をつけないためにコーヒーは常飲しないことにしている。
 元々あまり好きな味ではない、ということもあるが。
「親父の最愛の人だよ」
 泉はミルクを入れて飲んでいる。砂糖は入れないようだ。
 褐色の飲み物が白くまどろんでいく様を眺めながら、恭一は「ああ…」と声を零した。
「鬼才の恋人ですか」
 泉の父親である義時は非常に妖艶な人形を作ることが多かった。
 それが二十歳であろうが、十歳ほどの子どもであろうが、皆どこか艶めかしいのだ。
 表情はあまり出さず、唇はきつく結んでいるように見える。だがその瞳は真っ直ぐ人の心を見透かそうとしているかのようだった。
 泉の人形より無機質に見える。しかし威圧感のようなものを持ち、その存在感は無視することを決して許さなかった。
 そんな義時の人形の中で、傑作だと言われたのが「最愛の人」だ。
 人目に触れたのは完成した直後のみで、それ以降は義時が一切外に出さなかった。
 補修なども全て自分の手で行っていたらしい。篠倉でさえその人形には指一本触れていないのだ。
 その執着に、関係者は驚きを隠せなかった。
 職人は人形を愛する。だかそれは親子や兄妹のような穏やかなものがほとんどだ。
 過ぎた独占欲や嫉妬を抱くものではない。
 しかし義時はその人形を家族以外には見せず、また名前すら知らしめない。噂では始終その人形を側に置いて、夫婦のようなして暮らしているという話まで流れた。
 首を傾げながら、人々は「あの義時が」と口々に言っていた。
 寡黙で、職人肌。フレームのない眼鏡の奥には鋭い眼差しがあった。背が高く、顔立ちは一見学者のような印象を受ける。
 人付き合いが好きではなく、何を考えているのか分からない、というのが周囲の意見だった。
 しかし何を考えているか分からないとはいえども、ここまで人形だけを愛して、人を見ない人間だとは思っていなかったのだ。
 作る人形もどこか人を見下したところがあったが、そういうことなのか。と妙な納得をするものまでいた。
 そして、なるほど特別な人はやはり変わっている。彼は鬼才だな、と恭一の祖父が言い出したのをきっかけに、義時は「鬼才」と呼ばれた。
「彼女は親父を受け入れた。彼女が自らそう願ったんだよ。瞳を繋げるだけじゃ足りないって身体も繋げたんだ」
 コーヒーを手にしながら、泉は静かに語る。
 人形と父親が肉体関係があったと言っているのに、さして特別なことではないと感じているように見える。
 恭一にしてみれば、人形と身体を繋げるというのはかなりの抵抗があることだった。
 魂があったとしても、それは冷たく堅い、生きていないものなのだ。
 大切に可愛がる、それ以上の感情は沸いてこない。
「彼女が言い出したことらしいよ。親父は最初悩んだみたいだけどね。好きな人に頼まれて、嫌なわけないから結局はそうしたみたいだけど」
 それはそうだろう。
 もしその人形が本当に好きならば、身体を望まれて不快感はない。
「でも、人形にはそんな欲求がないって」
 欲情することがない人形が、何故そんなことを言い出したのか。
 恭一が疑問を口にすると、泉は微笑を浮かべた。
「親父が何をしたいのか、どうしたいのか、それくらい彼女にはちゃんと分かってたんだろうね。人形だからってそれを我慢して欲しくなかったんだよ、きっと」
 人間同士の恋愛みたいだ。
 恭一はそう思い、マグカップのぬくもりで掌をあたためる。
 心というものは結局のところ、どんな姿、形をしていても変わらないものなのかも知れない。
「あの二人見てると、男とか女とかどうでもよく思えた。目の前では命ある者とない者が深く愛し合ってるわけだからね」
 子どもの頃からその光景を見ている泉は「時々さ」と電源の入っていないテレビ画面をちらりと見た。
 真っ黒なそこには何も映ってはいない。
「同性愛とか、否定してる人を見てると寂しいなと思うよ。命ある同士が好きになってるのに、何が駄目なんだろうって。責める理由がどこにあるんだろうって」
 寂しい、そう言った泉は瞳を陰らせた。
 責められた人を、見たことがあるのだろう。
 義時は良い噂をあまり聞かない人だった。「最愛の人」のことでも、頭がおかしくなったとまで言われたことがあった。
 それを泉は痛ましく感じているのかも知れない。
「いいじゃん、同性でも」
 ねぇ。と泉は恭一を見てにっこりと笑った。
 寂しげな色を払拭して。
 同意を求められ、恭一は口に含んでいたコーヒーをごくり、と音を立てて飲み込んだ。
 喉を熱さを通っていくのがはっきり感じられた。
「…まぁ、人ごとならいいでしょうけど」
 自分に関係がなければ、同性が付き合っていても「いいんじゃないか」という一言で終わらせられる。
 恭一がそうであるように。
 だが泉に同意を求められると、不思議と心臓が早鐘を打ち始める。
 自分のことになったかのように。
「人ごとねぇ」
 含みがある呟きが、恭一の耳にやけに大きく聞こえてきた。
「…泉さんは男に抵抗ないんですか?」
 安田亜美の写真集の表紙を見下ろしながら、問い掛けた。
 可愛い子がタイプだと、そう言ったばかりの泉に聞くことじゃないと思いながら。
 それでも、いつもより大きな鼓動が「聞け」と訴えるのだ。
「ないよ。付き合ったのは女の人ばっかだけど」
「それじゃ抵抗ないなんて分からないじゃないですか」
 付き合ったのは女ばかり、というのにほっとしいるような、落胆したような複雑なものが込み上げる。
 まるで、今から付き合うきっかけを探しているかのように。
「告白されても気持ち悪いとか思わなかったよ。断ったけど」
「なんで?」
 気持ち悪くないというなら、どうして断ったのか。
 恭一の視線に泉は「だって」とコーヒー片手に続ける。
「知らない人だったから。名前も知らないし、見たところ興味も沸かなかったから。だからだよ、それは相手が女でも同じこと」
 興味ないのに付き合わないでしょ。と言われ「まぁ」と頷く。
 恭一にもある経験だ。
 こちらにしてみれば初対面だというのに、いきなり「好きです」と告白されても、どうしろと言うんだ?という状況。
 付き合ってみれば好きになるかも知れないだろ。と言う友達はいるのだが、正直誰かと付き合うよりも楽しそうなことは山ほどある。
 小さな可能性にかけるぐらいなら、もっと別のことに時間を費やしたかった。
 泉もそう思ったのだろうか。
「興味があったら付き合うんですか?」
「うん」
「じゃあ俺は?」
 酷い切り出し方だ。
 もっと真剣な、真面目な言い方があったはずだ。
 それ以前に、どうして泉にこんなことを聞いている。付き合いたいのか。今まで通りでいいんじゃないのか。
 恋愛対象として、見ていたのか。だとすればいつから。どうして。
 何も考えず、勢いで言ってしまってから重苦しい後悔が一気に押し寄せてきた。
 岩石が頭上から降ってくるようだ。
 バクン、と鼓動はあがくように耳元で鳴る。
 こんなに動揺して、指先が強張るほど緊張している。
 たぶん、これが泉に対する思いの現れなのだろう。
 冗談に出来ないくらい、本気なのだ。
 泉はぱちぱちと瞬きをしたかと思うと、静かな眼差しで恭一を見た。
 本心を探すかのような視線に、目をそらしたくなる。
 だがそらせないほど琥珀の瞳は真摯で、どうしようもなく意識が惹かれる。
 痛いほどの静寂が広いリビングを支配した。
 身じろぎをしただけでも崩壊してしまいそうな、張り詰めた空気が流れていた。
「君が本気なら付き合うよ」
 ことり、とコーヒーを置いて泉が口を開いた。
「でも君は付き合えるの?抱ける?抱かれる?」
 抱く。抱かれる。
 直接的なことになった質問に、恭一は言葉が出なかった。
 同じ作りをした、身体だ。
 丸みも、膨らみもない肉体。
 受け入れるものなど何も持っていない。
 それを、抱けるだろうか。もしくは、それに抱かれるのだろうか。
 ソファに向かい合って座り、改めて互いの姿を確認してしまう。
 男なのだ、と。
 会った瞬間に分かることであり、恭一にとっては当然の事実だ。
 それが、ずっしりとのし掛かってくる。
 躊躇えとばかりに。
「泉さんは?」
 結局、答えられずに問いを返す。
 質問を質問で返すのは気持ちをはっきり出来ていないからだ、という自覚はあった。
 自分から出したことだというのに、曖昧しておきたいという思いがあった。
 突き詰めてしまえば、二度と這い上がってこられない深みへと墜ちてしまうようで。
「相手と同等の気持ちで接するよ?友達には友達として接するように、恋人には恋人として接する」
 それは恭一が恋人として泉を欲しがるのなら、恋人として接するということだ。
 墜ちてくるのを待っている、そう囁くような言葉に、恭一は揺れた。
 一本の糸の上に立っているような気分だ。
 ほんの少し、どちらかに足を踏み出せばすぐに墜ちていく。
 元いた場所へ戻れば、平穏があるだろう。
 出会った頃は変わりのない日々だ。
 しかし、恭一はそこにいて泉を求めた。
 その気持ちの形が整わないうちに。
 だが墜ちた先に何があるのかは分からないのだ。
「卑怯じゃないですか?その答え」
 自分の気持ちを晒さず恭一が望むなら、と言う泉に揺れる気持ちを投げた。
 いっそ、この揺れる気持ちごと落としてくれればいいのに、そんな身勝手なことを思いながら。
 その身勝手さに泉も感じたのだろう。
 足を組みながら、苦笑する。
「君はどうなの?はっきり言わずに僕に聞いてばかりでしょう?」
 今日ここに来てから、恭一は泉に尋ねてばかりだった。
 人形のことは仕方がない。だが、泉自身のことは、聞く一方で、自分の気持ちは何も話していない。
 気持ちを探って、確かめて、自分の気持ちは知られないように隠してばかりだったのだ。
「…そうですね」
「でも、急に思い詰めないで欲しいけどね」
 泉は静かな口調を止め、手をひらひらと振った。
 真面目な雰囲気をうち消すように。
「僕だってよく分からない」
 そう、声になるかならないかという声量で泉はぽつりと零した。
 恭一は同意の言葉を口にしようとした。
 だが本当に分からないのか?という疑問が浮かんできては、唇を開くことを許さず、口内にはコーヒーの苦みだけが広がった。



 


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