それから、話題を選ぶようになってしまった。
 口から出る言葉は、一度頭の中で考えてしまう。
 思ったこと、感じたことをそのまま出せば、また泉に問い掛けてしまう気がしたのだ。
 自分でもはっきりとさせていない気持ちを。
 確信に触れることを避けた、どこかぎこちなさを漂わせる日々。
   泉はそれに気が付いたようでもなかった。
 だが、もしかすると感じているのかも知れない。
 人の気持ちを知りながら、さらりとしていた人だから。
 もやのようなものを抱きながら泉との距離を測りかねていると、急な電話がかかってきた。
 人形の補修を頼みたいということだ。
 しかし、その内容に恭一は眉を顰めた。
 例の人形に関することだったからだ。
 だが泉からの願いを断る気にもならず、家に向かい、作業場である地下に降りた。
 人形師は複雑そうな表情で出迎えてくれた。
「…随分荒れましたね」
 作業場に横たわっている一体の人形。
 一ヶ月半ほど前に恭一が持ってきた写真集に載っている女優とそっくりだ。
 だがその髪は艶もなく、いつ梳いたかも分からないほどぼさぼさでほうきのようになっている。
 陶器のような美しいきめ細かな肌は土色で、触れるとがさがさしている。
 指の腹を痛めそうだ。
 唇は乾き、ひびが入っている。
 憔悴したような表情を浮かべている人形は、泉が生み出したとは思えないほどみすぼらしい姿をしていた。
 補修をしろと言われても、一体どこからどう手を着けるのか悩むほどだ。
 作り手は人形から少し離れた場所に立ち、疲労を色濃く見せては溜息をついた。
「酷い扱いを受けていたってことだね」
 どんな仕打ちを受けていたのかは考えたくもないようだ。
 腕を組んでは柔和な容貌を陰らせる。
 作業場には他にも作りかけの人形がある。作業机にはビクスドールの頭部が置いてあるがそれと比べてもこの人形の異常さはあからさまだった。
 頭部だけの姿でもビクスドールは生き生きとしている。生気のようなものを持っているのだ。
 だが全身があるこの人形は、生気がない。死体のように見える。
 それも、かなり苦しい思いをしてようやく死ぬことが出来たというような、苦悶を味わった死体だ。
 その差が、恭一に怒りを生み出す。
 泉が作る人形はこれほど美しいというのに、なぜこんな姿にさせるのか。
 あまりにも台無しだ。
「相手に渡してそんなに日にちは経ってないでしょう?」
「二週間だよ」
「たった二週間!?それでこんなになるんですか?」
 何十年も放置していたかのような有様だ。
 外に雨ざらしにしていたとしても、こんな様にはならないだろう。
 第一、泉の人形は丹誠込めて非常に丁寧に作られている。
 ある程度完成された状態が保てるように、という技術も入っているのだ。
 それをこの人形は一切受けていないかのようだ。
「何をしたのかは聞かなかったけど、想像は付くでしょ?」
 依頼をされる時にその人が何を望んでいたのか。それを思い出せば答えは簡単なことだった。
 あんなことを本当にやってのけたのか。
 激怒するより前に、信じられない、と言う意識が先に立った。
 人形相手に欲情することが理解出来ないというのではない、朝日奈の人形をそういう目的に使用する、ということが理解出来ないのだ。
 恭一にとって泉の人形たちは、神聖なものに近いのだ。
 他の人にとっては、そうではないのか。
 あの美しさと人を魅了せずにいられない人形の素晴らしさは、感動を呼び起こして圧倒されるほどのものではないのか。
 首を傾げたくなる。
 だが恭一の周囲にいる者、人形に関わっている者が大半なのだが、その人たちは皆、朝日奈の人形に見入っては次々は驚嘆の声を上げていた。
 人の手を越えたものを見ているようだ。触れるのも躊躇われる、と。
 ならばその依頼者が特殊なのか。
 どちらなのか、分からない。
「嫌がるって言ったのに」
 人の賛美を受け続ける人形の制作者は憂鬱そうに呟いた。
「人間相手なら強姦ですね」
 込み上げてくる不快感を抑えることなく、恭一は吐き捨てる。
 そんなことはけだもの以下の人間がやることだ。
「そう。だからこんな風になる。同じことを繰り返すのなら何度直しても、結局はこうなるだけだって言ったんだけどね」
 泉は金に近い髪を苛立たしげに乱した。
 自分の手で生み出した人形をこんな姿にされて、気分の良い職人はいない。
 まして泉は人形を家族のような思っている節がある。
 荒れ果てた人形を目の前にして、心中はぐちゃぐちゃだろう。
「諦めなかったんですか?」
「土下座だよ」
 うんざり、と言ったように泉が口にした。
 恭一もそれを聞き「ああ…」と複雑な声を出す。
 いっそ開き直ってくれればいい。そうすれば激怒出来る。怒鳴りつけて、追い返せる。
 だが土下座をして、ひたすら謝罪をされれば、怒りの矛先を真っ直ぐ向けにくいのだ。
 怒りは落ち着かない、だが感情を爆発させるのもまた難しい。
 こちらにしてみれば最悪なタイプの依頼人だ。
「どうやら依頼主は安田さんのマネージャーだったみたいで、どうしても安田さんへの思いが消せず、暴走する前にマネージャーを辞めて人形に走った、と」
 そういうことらしいよ。と泉は気のない説明をする。
「マネージャーが襲うのはまずいですね」
「人形を襲ってもまずいでしょう」
 確かに、と恭一は頷く。
「それほどの思いなら側に人形がいたらつい手が出るでしょうから、これ以上壊したくないのなら諦めたほうがよろしいかと、とは言ったけど」
「聞いてくれなかったんですか?」
「考えさせて下さい。だって」
 泉は肩をすくめる。
 考えてどうにかなる思いなら、とうに我慢出来ているんじゃないのか?そんな疑問を二人ともが抱いているような顔だ。
「無理っぽいですね」
「だろうね。そこまで抑えられない気持ちっていうか、欲望があるんだね」
 自分には全く関係ないことのように冷静な泉に、恭一の中でじり…と何かが焦がされる。
 淡々としたその表情が、遠くに見える。
 不意に手を伸ばして、無理矢理にでも引き寄せたいほどに。
「泉さんにはないんですか?」
 焦がされるものは、身体の奥から頭へと登っていくようだった。
 声は思ったより硬質で、責めるような響きすら持っていた。
 意識していなかったこの響きに、恭一は少しばかり驚く。
 苛立っているのだろうか。だが何に対して。
「ここまで激しいのはないなぁ…。時々無性にキスしたくてどうしようもない時はあるけど」
「そんな時あるんですか?」
 キスしたい。と思う瞬間はあってもどうしようもなくなる、という感覚は恭一にはない。
 少し驚くと、泉が苦笑した。
「人形作るのに没頭して、ふと我に返った時とか人間に触りたくなるんだよ。なんだか、自分が人間なのか人形なのか分からなくなって」
 他の人が言うのなら、そんなことあるんですね。くらいで済ませられた。
 だが泉の口から聞くと生々しく聞こえる。
 現実に、人間と人形の境がなくなってしまうのではないかと思われるほどに。
「それ、危ないんじゃ?」
 現実味のある話に、恭一の中に危機感が生まれる。
 朝日奈の人間なら本当にいつか人形になってしまうのではないか。有り得ないと断言出来ないところがある。
「だね。でも何も怖くないんだよ。人形でもいいかなって思う。人形を作れるのなら、人間じゃなくてもいいって」
 大したことでもないことのように、泉が語る。
 ざくり、と恭一に突き刺さっている言葉だというのに、本人は涼しい顔だ。
 良くないですよ。そう叫びたくなる。
 だが口に出す前に、泉は軽く首を振った。
「でもそうなると、嫌がる人がいそうだし」
「俺は嫌です」
 泉の人形が好きだ。
 数多くの人形を見てきたが、他の人形は目に入らないほど、惹かれている。
 だが泉は人間で、これほど恭一の心を揺れ動かしている。
 そんな人が人形になっても嬉しいことなど一つもない。むしろ許せない。
 どれほど人形が美しく、完成されたものであっても、やはり命のない物体なのだ。
「うん。だから、人間だって確認したくなるんだ。本能か、理性か、分からないけど。人だってちゃんと感じたくて人間に触りたくなる」
 疲労を色濃く滲ませる泉は、今まさにそう思っているかのように話し続ける。
 恭一から目を逸らして、部屋の隅に視線を向けていた。
「あったかいのとか、心臓の音とか、そういうの感じると自分も同じもの持っている人間なんだって分かるんだ」
 恭一は泉が言っていることがなんとなく理解出来た。
 人を抱き締めると、その体温や、伝わってくる鼓動が、その人の存在を強く意識させる。
 そして同時にその人を抱き締めている自分の腕や身体も、それと同じ類のものだと知るのだ。
 それを強く欲しがるということは、かなり自分というものが揺らいでいるということではないのだろうか。
「だから、キスですか?」
「抱き付くのでもいいけど、でもキスのほうがより近い感じがする」
 熱というものに直接触れる感じがするのだろう。
 恭一も、肌より舌という器官のほうがずっと近くその人を感じている気がした。
 内側に入り込んでいるという感覚がそうさせるのかも知れない。
 泉は右手を顎の添えた。
 悩むような仕草をするのだろうかと思っていると、親指で唇をなぞり始めた。
 キスの感触を思い出しているかのようだ。
 物欲しそうな眼差しに、恭一の心臓がどくりと鳴る。
 しばらく、目をそらし続けた感情が頭をもたげた。
 ちらりとでも泉と目が合えば、その唇を奪うだろう。
 そんな予感があった。
 だが泉は恭一を見ようとはせず、人形の傍らで腰を下ろした。
 人形へと話を戻すのだろう。そう思って恭一も泉の傍らで膝を折った。
「時々人を襲おうかと思う」
 ぽつりと泉の口から零れたのは、そんな危ない発言だった。
 しかも真顔で言うものだから、切羽詰まっているように見えた。
「…止めたほうがいいと思いますよ?」
 一応。と心配の意味を込めて言うと、泉は大人しく「うん」と頷いた。
 全く冗談に聞こえず、ちらりと横顔を伺うがそこにはぎらついた欲情のようなものは見えない。
 キスというものも劣情を向けるためではなく、体温を感じるためだけにしたいのだろう。
 子どもが誰かに抱き締めてもらいたがるのと似ている気がして、苦いものが込み上げてくる。
 自分より年上の人だというのに拙い欲を見せられて、触れることも出来ない気がした。
「これ時間かかりますよ?」
 話題を逸らしたくなり、恭一は人形を見下ろした。
 補修をしようと思えば、肌や髪、化粧もやり直しだろう。
 サイズが人より少し小さいくらいなので、通常の愛玩用の人形よりずっと大きい。そのため時間も長く必要なのだ。
「そうだね。髪は毛先は全部切ろうと思う。ぱさぱさだしね」
「今の安田亜美も髪を切ってますから、丁度いいんじゃないですか?」
「んー、でももう安田亜美に似せるのは止めようかと思ってるんだよ。依頼者に金額の半分をお返しして、この人形は諦めてもらいたい」
「それがいいです」
 恭一は即答した。
 人形が嫌だと全身で訴えているところに再び戻せば、今度は崩壊するかも知れない。
 せっかく生み出された存在だというのに、壊してしまうのは忍びない。
「うん。でも依頼者の意見も聞いて、それからだけどね。どうして必要だって言われると、こっちだって強く出られないし。客商売だからね」
 どれほど腕の良い職人であっても、結局はそこだった。
 客がいなければ仕事にならない。
 朝日奈の人形であるなら欲しいという人は多くいるだろう。だがそれでも一人一人の依頼はきちんと飲み込み、果たすのがプロだ。
 我が儘を意地になって通せば、いつか息苦しくなる。
「欲情と、愛情がまざって、どっちに転ぶか…」
 大切に宝物として扱い続けてくれればいいんだけど。と泉の願いが人形の傍らに転がる。
 心の中で同意しながら、恭一は顔を上げた。
 んー…と泉が唸り始めたからだ。
 悩んでいる。そう思いながら横顔を眺めていると、泉も不意に顔を上げた。
 視線が間近で絡まる。
 琥珀の瞳が甘い色で恭一を映していた。
 誘うような色彩に意識が奪われる。
 見入っていることに気が付いたように、泉はふっと微笑んだ。
 艶やかに。
 そして、唇が重なった。
 柔らかく、あたたかな感触。弾力あるそれを押しつけられ、恭一の奥で何かが外れた。
 今までぎりぎりまで保っていたはずのそれは、呆気なく外れると細身の身体を腕に引き入れていた。
 泉の唇を舐めると、うっすらと開かれる。
 促されるままに舌を差し入れた。
 お互いの舌の判別がつかなくなるくらい深く、きつく絡み合う。
 吸い上げると舌先に歯を当てられ、戯れのように、だが容赦なく追い上げられる。
 くちゅ、と濡れた音がもれても唇が離れることはなかった。
 貪欲に動く泉の舌に、恭一は舌打ちをしたくなった。
 煽られ、だがこちらから仕掛けるとするりと抜けていく。翻弄されている気がした。
 キスを覚えたての頃ならともかく、高校生になってから誰かにこんな風にされることはなかった。
 完全に主導権を握って、相手を追い詰めるようなキスしかしてこなかったというのに。
 舌を噛んでやろうかと思った時、それを悟ったかのように泉が唇を離した。
 微かに上気した頬が、ぞくりと恭一の肌を粟立たせる。
 欲情を刺激されるのだ。
「可愛くないキスだなぁ」
 苦笑する泉の声は、平静とあまり変わりがない。
 かっと、怒りのようなものが恭一に走る。
 これだけ自分を煽って、動揺させて、それなのに貴方は変わりがないのか。
 理不尽なまでの憤りだった。
「お互い様です」
 屈服仕切れなかったキスに不服を零すと、泉が苦笑を深くした。
「高校生でそれはおかしいよ、どんな経験してんの」
「年上のキャパ嬢に昔教えてもらいました」
「どんな交際してるんだ」
 高校生なのに、と呆れる泉に恭一は苛立ちを抑えきれずに髪を掻き乱した。
 どうしてこの人は、こんなに冷静でいられるんだ。
 一人だけこの熱を持て余しているようで、本当に気にくわなかった。
「くっそ…なんてことしてくれてるんですか」
 恭一は自分が欲情していることを嫌というほど自覚していた。
 たかがキス。だがそれだけでこんなにも疼く。
「人が誤魔化し続けたのをあっさり自覚させて。知りませんよ」
 何が。と瞬きをして問い掛ける泉の後頭部へと手を伸ばした。
 そして金に近い髪をくいと掴む。
 脱色をしているせいだろう。少しぱさついている。
 痛くないように加減して指に絡ませると、そのまま自分の方へと引き寄せた。
 下唇に歯を立てる、すると泉の身体がひくりと震えた。
 その反応に、身体の芯が焼かれた。
 肉食獣が補食動物を見つけたように、衝動が恭一を支配した。
 唇を割り、舌を入れる。歯列をなぞり、舌先を噛んだ。
 痛いか、痛くないかの刺激に泉が喉の奥で一つ声を零す。
 このまま押し倒して、食らい付きたい。
 体重を掛けてしまおうとした時、無粋な音が部屋の中で響いた。
「泉、あの人形なんだけど」
 作業場のドアが開いて、蜜那の声がやけにはっきり反響した。
 振り返った二人と蜜那の瞳が見開かれた。
 異様に緊迫した沈黙が流れ、泉が身じろぎをした。
「…えっと…」
 コメディのような場面で、泉は何を言うべきなのか迷ったのだろう。
 ずりずりと恭一から距離を取りながら、曖昧な笑みを浮かべている。
「…もしかして、お邪魔ってやつ?」
「オーソドックスな質問だ…」
 泉は妙なところを気にした。
 すると蜜那も蜜那で「基本かと思って」とあっさり答える。
 状況はそんな会話を求めていないというのに。
「たぶん、そういうのは作業場でやることじゃないのと思うの。部屋に上がれば?」
 少女の提案に、恭一が激しく首振った。
 この前は人形に対して欲情した人間に潔癖なまでの怒りを見せていたというのに。この反応はどういうことだろう。
 小首を傾げて「いいの?」と無邪気なまでの態度だ。
 冷水を浴びせられたように、我に返った大人二人は蜜那をこくこくと何度も頷いた。
「おいで、どうしたの」
 泉はぎこちなさを残しつつ、蜜那を手招きした。
 クッション剤として蜜那を間に入れるつもりのようだ。
 多少残念だと思いながらも恭一は泉との間に少女を座らせる。
 痛いほど自覚した事実は、今突きつけなくともいずれ泉に知らせることだ。
 唇に残された熱に、曖昧にしていた気持ちが強固になってくいのが分かった。






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