昼休み、学食に向かう途中で携帯が震えた。
 友達には先に行って席取っとけ。と指示して、歩きながら電話に出る。
 画面に表示された名前を確認すると、冬の寒さが少しだけ和らいだ気がする。
「もしもし?」
『恭一君?今昼休み?』
 こちらを気遣っている男の声。容姿も柔らかな印象を受けるのだが、声もどこか優しげに聞こえる。
 この高校の卒業生だという泉は、おそらく時間を見て自分の記憶を探ったことだろう。
「昼休みですよ。どうしたんですか?」
 数年前、泉もここにいたのだろうか。そう思うと当たり前に日々歩いている廊下も特別なものに思えるから不思議だ。
 頭髪検査に引っかかって、生活指導に怒られていたと思われる。
 案外、今の生活指導の教師に泉の名前を聞いたら覚えているかも知れない。
 数年前に思いをはせている恭一の耳に『悪いんだけど…』と控えめなお願いが届いた。
『次に、こっちに来る時は女優の安田さんって人の写真集と、その人に関する雑誌とか買って来てくれないかな?』
 恭一は週に一、二度は泉の家に行っている。
 最初は人形に関することを尋ねたり、仕事が見たいと言っていたのだが、最近は遊びに行っているというほうが正しい。
 接客のための家、日本家屋に初めの頃は通っていたのだが、いい加減仕事場兼自宅に案内するのが面倒になったのだろう、泉は「直接こっち来て」とすぐに自宅に来るように言ってくれた。
 仕事をしている時はいちいちインターホンが鳴ったくらいで作業を中断するのが嫌なので、こちらに人を呼ぶことはないらしい。
 恭一は特例扱いだ。
 しかし事前に「何時頃に行きます」というメールを泉に送らなければいけない。
 そうしなければ、玄関のドアが開けられることはない。
「安田って、安田亜美ですか?」
 最近ドラマなどで活躍しているらしい女優の名前を挙げた。
 恭一はドラマを見ることはないのだが、クラスの話題やたまたまつけたテレビなどによく出ている。
 二十歳ほどで髪が長く垂れ目がちの目で、少しふわふわとした喋り方をしている。
 他にどんな特徴があるのかは、よく知らない。
 顔と名前を知っている程度だ。
 何故そんな名前が泉の口から出たのだろう。
 好きなのだろうか。
『お金はちゃんと払うから。僕が出られればいいんだけど、ちょっと今籠もってて』
 そういえばこの前、二体同時に依頼されたと言っていた。
 双子人形が欲しいのだという人がいるらしい。
 一度本格的に制作に入るとのめり込んでしまう泉は、外出を億劫がる。
「いいですけど。今日行こうと思ってたんですが」
『あ、じゃあ今日で』
「大丈夫ですか?」
 制作に熱中していて、恭一の相手などしている場合でないのなら、また別の日にすればいい。
 だが泉は軽い口調で『大丈夫だって〜』と笑った。
『恭一君が来る時間には、一段落付けておくから』
 一段落と言っても、完成に近くなっているとは限らない。
 何回も段階を踏んで人形は作られていくのだ。
『出来る限りでいいから。ちょっと探しておいてくれるとありがたい』
「了解しました」
 安田亜美。大して個人的感想も出てこない女優の顔を思い浮かべながら、恭一はもやっとしたものを感じた。
 可愛いタイプではあるだろう。
 友達が「彼女にしたい」と無茶なことを言っていた。
 通話の終わった携帯電話をしまいながら、帰りに寄る本屋の目星をつけた。


「これが写真集。去年のやつですね。んでこれがインタビューが載ってる雑誌三冊。今、ドラマの主役やるみたいであちこち出てますよ」
 リビングで持ってきたものを広げた。
 泉は少し疲れた様子で雑誌を手に取り、ぱらぱらとめくっている。
 着込んでいる白のフードパーカの背中にはセフィロトの樹のような模様が描かれている。
 黒を着ていることが多い泉だが、こうして見ていると白のほうが似合っているように思えた。
 丸眼鏡の色はとても薄い紫だ。
 ソファに座っている泉の足下に蜜那がいた。
「待て」をしている子犬のようだ。
 白のセーターに膝までのスカート。
 同じく雑誌をぺらぺらとめくっては、あまり興味がなさそうな顔をしていた。
 大きな瞳と桃色の唇。ふっくらとした頬に蜜色の髪。少女と雑誌の中にいる女優と比べてるとその造形の美しさが際立った。
 テレビに連日出ているような美人であっても、蜜那という存在の前では霞みがちだ。
「話題のドラマみたいだね。昼間にテレビでやってた。休憩しながら見てたけど、一応録画も急いで録ったし」
 泉は全身が分かる写真に目を留めている。
 観察するような眼差しだ。
「でもずっと座ってたんだよね。歩いてくれると良かったのに」
「ということは、資料ですか」
 人形を作る際には、見た目だけでなく、どのような動きをするか、ということも考慮に入れるそうだ。
 基本的に人形など歩かない。せいぜい立つ、座る、横たわる。という人がポーズを取らせる形が出来るように作ればいい。
 だが朝日奈の人形の場合、自ら動く、という動作も考えて作らなければいけない。
 人間が行うある程度の動きが可能である、という前提で関節などが制作されるのだ。
「うん。ファンになったかと思った?」
 泉は写真集から顔を上げて、向かい側に座った恭一に笑いかけた。
「ちょっとだけ。こういうのがタイプなのかなと」
 硝子のテーブルの上ではにっこりと微笑む安田亜美がいる。
 自分の容姿を最も良く見せる術を知っているかのような笑い方だ。
 目の前でふわりと笑みを浮かべている人とは違う、作った笑顔。
「ちょっと違うなぁ。可愛いけどね」
 可愛いというのなら、蜜那のほうが可愛いだろう。
 外見だけの話ではなく、自分が生み出した存在という点でも特別だ。
「どんなのがタイプなんですか?」
 聞いてどうする。
 言った直後に自分で思った。
 だが口から出たものは戻ってはこない。
 泉の前にいると、何故か意味のない問い掛けをしてしまう。
 知ったところで関係がないはずの問いだ。
 そして言った後、自分に戸惑う。
「可愛くて、我が強い子かな」
 さらりと泉が答える。それに当てはまるのは、間違いなく足下にいる子犬だろう。
「なるほど」
 恭一が頷くと、蜜那はにっこりと笑顔を見せた。
 雑誌の表紙を飾っている人の魅力をなくしてしまうほどの、愛らしい表情だ。
 作り手も、人形も、どうしてこうも人の目を惹きつける微笑を自然に見せるのだろう。
「この人に似てる人形を作るんですか?」
「そのものが欲しいんだって」
「は?」
 雑誌片手に、恭一は少々間の抜けた声を上げた。
「昨日来た人が安田亜美の人形を作ってくれって言うんだ。似てるんじゃなくてそのものを」
 ぱたんと写真集を閉じて、泉は憂鬱そうな表情をした。
 厄介な注文だ。と言うように。
「芸能人の人形ですか?朝日奈にそんなもの作れって?」
 恭一は渋い顔をした。
 朝日奈という人形師は特別であり、有名人の人形を作らせるような人間ではない。というのが個人的な意見なのだ。
 確かに子どものための人形なども作っている。だがそれは子どもに降りかかる厄災を代わりに受けるかたしろの役割をしていたり、魔除けのなるような役割を持っていたりする。
 おもちゃと思われるものでもしっかりと意味があるのだ。
 それだというのに芸能人と同じ姿の人形が欲しいから作れ、というのは傲慢に思えた。
 朝日奈はそんなものを作る人形師ではない。そんな不快感がある。
「作れって言われたら作るけど、でも芸能人の人形が欲しいってだけで依頼するには、うちの人形はちょっと高いでしょう?」
「ちょっとどころじゃありませんよ」
 三十pほどの人形でも軽く六桁の金額を弾き出す。
 サイズが大きくなればなるほどそれは跳ね上がり、蜜那ほどの大きさになれば一体いくらなのか考えるのも恐ろしい。
「うん。だからそんな話は滅多に来ないんだけどね。どれだけ積んでも欲しいって言われて」
「魂が宿るっていうのは、相手は知ってたんですか?」
 もし女優と同じ姿をした人形に魂が宿るとすれば、性格も似るかも知れない。
 そう依頼者が考えたとしてもおかしくはない。
 テレビの中にしかいなかった自分が好きな人が、人形としてそのまま側にいてくれる。
 その夢のためであるなら金など惜しくない。という気持ちなのだろうか。
「知ってたみたいだけど。それよりも精密さにこだわってるみたいだった。顔の造りが酷似しているとか、関節がなめらかだとか、体付きも似せるようにとか」
 そんなことは言われるまでもない。
 誰かに似せて人形を作って欲しいと頼まれた時点で、泉はそれらの条件を全て理解しているはずだ。職人なのだから。
 わざわざそう注文されても「今更」という気持ちしか沸いてこないだろう。
「…マニア?」
 顔だけならともかく、体付きや関節まで口を出してくるというのは、相当安田亜美に入れ込んでいるのだろう。
 一つの違いも許せないほど、というところに異様な執着を感じる。
「かもね…。でも一番驚いたのは、抱けますか?って聞かれたことかな」
 恭一は一瞬耳を疑った。
 だが泉が苦笑してる様を見て、自分が聞いたことは間違いではなかったことを知る。
「はぁ!?抱く気なんですか!?」
 持っていた雑誌をテーブルに叩くようにして置く。
 目の前に依頼者がいたら、身体を前に乗り出して詰め寄るほどの勢いだ。
 何、馬鹿なことを。というように眉を顰める。
「そのつもりだったみたいだね」
 泉は肩をすくめる。
 恭一のように不快感を露わにしてはいないが、呆れてはいるようだ。
「で、何て答えたんですか?」
 目の前に依頼者がいたのなら、どういうつもりなのかと詰問を始めそうなほど恭一は苛ついた。
 自分にとって特別な、拝んでも良いほどの存在である泉の人形たちを抱くなどと。
 おこがましいにもほどがある、何処の馬鹿だろう。
 朝日奈の人形たちは美しい姿をしている。だがそれだけではないのだ。
 人とは一線を引き、劣情などという生々しい感情とは無縁である。人間のような造り、だがどこまでも人とは違う存在。それが触れることすら躊躇わせる雰囲気を持っていた。
 もし暗く後ろめたい気持ちで触れれば、そこから壊れてしまいそうな気になる。
「ダッチワイフは作っておりません。そのような機能を持つ人形を作る気もありません。第一人形が嫌がります」
 依頼人に説明しているように、泉は真顔で真剣に説明した。
 きっとその話が出た時もこうして話をしたのだろう。
 それにしてもダッチワイフなどという単語が泉の口から出てくると、どうも違和感がある。
 穏和そうな容姿から真面目な口調でそんな単語は聞きたくないからだろう。
「嫌に決まってるじゃない」
 黙って聞いていた蜜那が足下から口を挟んだ。
 可愛らしい少女は不愉快極まりない、というように冷ややかな目をしている。
 一見思春期特有の、性に対して潔癖なまでの姿勢であるかのように見えるが、蜜那にそんな時期などはない。
「人形は子孫を残す必要がない。だからそんなことをする必要がない。よって、欲求もない」
 生物ですらないのだ。
 人形にそんな欲があることのほうが異常だと言えるだろう。
「欲求がないのに身体を求められても戸惑うし、それが続くと苦痛にだってなるだろう」
 人間だってそうだろう。
 望みもしないことを強制されるのは嫌だ。それが続けば苦しくもなる。
 人であるなら逃げることを考えるだろうが、作られたばかりの人形は動くことが出来ない。
「そしていずれは自壊してしまう」
「自壊、ですか?」
 それは人が自殺するのは同じ響きに聞こえた。
「蜜那みたいにしっかり魂が宿ってなくても乱暴に扱ったりすれば荒れる。髪がばさばさになったり、肌の色が変色したり、ひびが入ったりね」
 長い年月を経て、自然とそうなった人形なら多くいる。
 それらの補修を恭一は仕事として受け持ってきた。
 大切に扱っていても劣化というのは逃れようのないことなのだ。
 だが泉の話し方では、何年という歳月なしでそういった変化が起こるということだろう。
「魂がなくてもそんな風になるなんて、やっぱり特別な人形なんですね」
 まるで自分の身体を自分の意志で支配しているかのようだ。
 無機質である物体だというのに。
「魂が宿れば動くし、喋る。でも魂がなくても小さな意志みたいなものは、制作している途中から生まれてくるよ。僕はそれ聞いて作っているわけだし」
 人形の作り方は人形に聞いている。そう告げる泉はさも当たり前のように言う。
 恭一はなんとなくこうかも知れない。こう望まれているかも知れない。
 そんなことは自分の頭の中で考える。
 しかし泉が言っていることは、それとは全く異なることなのだろう。
 直接人と会話をするように、人形の意志を聞いているのかも知れない。
「魂がなくっても嫌なことは嫌なのよ」
 ぶすっと膨れたような顔をして蜜那が雑誌を放り投げた。
 人形代表のように、不満をこれでもかというほど態度に出している。
「別に神々しいもの作ってるわけじゃないから抜くぐらいいいんだけどね」
 さらりと真顔で言う泉に、恭一は「え」という口の形で固まった。
「それくらい人形だって許してくれるだろうし、我慢もするよ。他の時にはちゃんと可愛がって大切にしてくれれば、いずれは諦めもつくだろうし。でも入れようとするのはなぁ」
 大体入れるところを作るのは僕なんだって。
 と泉は困ったように写真集の女を見下ろした。
 一方恭一は予想以上に開けっぴろげな会話をする人をまじまじと見つめ、動揺を隠しきれずに溜息をついた。
 女の人相手ではない、同性なのだから驚くところではないのだが。顔に似合わない。
「殴りたい」
 ぽつりと蜜那が苛立たしげな声を零した。
 どうやら相当その依頼者の希望が気に入らないらしい。
 大きな瞳は半眼になり、あらぬ方向を睨み付けている。
 微笑んでいると見ている側の気分まで柔らかなものにしてくれるのだが、そうして怒りを全面に出していると、居心地が悪くなってくる。
 それほど人の意識を惹きつけるのだ。
 泉はご立腹の蜜那に「はいはい」と苦笑しながら頭を撫でていた。




 


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