悲愴な面もちな夫婦に、泉はそっと溜息を押し殺した。
「魂が宿るんでしょう?」
 ぎゅっと手を握っている妻は、必死の形相でそう尋ねた。
 憔悴している顔の中で、瞳だけは生気に満ちていた。
 それが何という感情か知っていた。
 渇望だ。
 からからに乾いた砂漠の中で一滴の水を求めるように、彼女は今泉に願いを託している。
 正直あまりの重みに、息苦しさが漂ってくるほどだ。
「どなたがそれを言い出したのか知りませんが。人形は人形です。作り物は生きていません。命を持つこともありません」
 お決まりの台詞だ。
 朝日奈に人形を作ってもらいたいと希望する人間は、大概このことを口にする。
「魂が宿るのだろう?」と。
 だが泉はそれを毎回否定していた。先代も、その前もずっとそう一言断っている。
 魂なんてものは一朝一夕で宿るものではないのだ。
 何十年もかけてようやく芽生える、非常に時間のかかるものである。
 その上、放置していては駄目なのだ。愛情と手間をかけてちゃんと保管しなければいけない。それこそ可愛がっていなければ駄目なのだ。
 その条件をクリアして、初めて人形は魂を宿す。
 しかしそこまで時間と手間をかける人間は滅多にいない。
 多くの人は魂が宿る前に興味を失ってしまうのだ。
 だから結果的に人形はただの人形のままになる。
 それを「魂が宿らなかった!」とクレームを付けられても朝日奈としては「そりゃそうだ」としか返答出来ないのだ。
 もめ事になる元である。
 だから最初に言って置くのだ「魂なんか宿りませんよ」と。
 そしてこう続ける。
「ですがもし仮に奇跡が起こって魂が宿るとすれば、それは何十年も先のことです。大切に可愛がってあげた子だけが、その奇跡を掴めるのかも知れません」
 あくまでも奇跡ですが。と何度も奇跡を強調する。
 間違いできない。こうすれば人形に魂が宿る、なんて確固たる条件はないのだ。
 それに夫妻は厳しい表情を見せた。
「あの子は、何十年後に戻ってくるのでしょうか?」
「亡くなった方は戻っては来ません。人形は人間ではありません。どれほど似せたところで、戻って来ることは有り得ないことです」
 断言する泉に、妻は唇を噛んだ。目に一杯の涙を溜める。
 まるで自分が責めているような気になり、泉は眼鏡を押し上げて心の中で溜息をついた。




「いらっしゃい」
 高校からの帰りに泉の家に寄ろうと気紛れを起こした。
 だが相手は忙しい人なので、事前に携帯電話にメールを送っていたのだ。「いいよ」という返事があったので訪問したのだが。
 インターホンを押すとドアを開けてくれたのは十五歳ほどの少女だった。
 蜜色の髪を二つにくくり、大きな琥珀の瞳で恭一を見上げてくる。
 そこにある笑顔は愛らしく、また以前見た時よりも表情が豊かになっていた。
 日々人間に近付いているようだ。
 薄いピンクのセーターに白のミニスカート。ふわりとした服装がとてもよく似合っている。
 和風なのか洋風なのかよく分からない服装が印象に強いが、こうして普通の少女の格好をすると道を歩いても違和感がないのではないか、という気になってくる。
 実際はその身体の所々にある関節にうっすらと線が入っているので、人の目に触れてはいけないのだが。
「お邪魔します。もしかして泉さん仕事中?」
 仕事場に籠もり始めると、泉はなかなか一階に上がって来ない。仕事に集中して時間の経過も忘れてしまうのだ。
 それは恭一も同じで、人形に携わっている時は時間など分からない。
 同じタイプの職人ということで、お互いの行動の把握はなんとなく出来ていた。
 そのため蜜那がこうして恭一を迎えてくれたのかと思ったのだが。
「ううん。でもちょっとぼーっとしてる」
 蜜那は否定しつつ、恭一をリビングへと案内した。
 歩き方も軽やかで、女子高生などがわざと妙な内股で歩いているのを見ている恭一からしてみれば、蜜那のほうがずっと少女らしさを感じる。
 子どもの域を少し抜けた、だが女にはまだ成っていない曖昧な時期。
 人より早めにそれを終えてしまった恭一は、何処かもどかしいような気持ちでそれを眺めた。
「人間っぽくなったね。可愛くなったって言うか」
 実際の人間よりよほど人間らしく、その上可愛さまで持っている蜜那をそう誉めた。
 表情が生き生きとすれば、女の子は愛らしさも増すんだなぁと感心していた。
「ありがと」
 蜜那は振り返ってにこりと微笑む。
 顔の造作自体が美しい上に、表情まで華がある。
 生身の人間では太刀打ちできないだろうな、と恭一は内心苦笑した。
「泉。恭一が来たよ」
 リビングのドアを開けながら、蜜那が声をかける。
 だが返事はない。
 恭一が中に入ると、泉はソファに座っていた。
 足を組み、何やら宙を凝視している。
 黒いシャツに細身のジーンズ。フープピアスが耳に並んでいる。丸眼鏡のレンズはグレイだ。
 手にはマグカップがあり、中から湯気が立っているが泉は微動だにしない。
 硬直しているかのようだ。
「お邪魔してます、泉さん…?」
 時の流れを止めてしまっているような泉に、恭一が小さく声をかける。
 考え事をしているのなら邪魔をしない方がいいのだろうか、とドアの前で立ち尽くしていると蜜那が泉に寄っていった。
 ぺたん、と足下に座り込むと「待て」をしている犬のように泉を見上げる。
「恭一が来たよ」
 母親に今日あったことを報告するような蜜那の姿に、泉がぱちぱちと瞬きをした。
 そしてゆっくり視線を下ろして、足下にいる少女を見る。
 そこでようやく我に返ったようで、コーヒーをすぐそばにある硝子のテーブルに置いた。
「いらっしゃい」
 恭一に手招きをしながら、泉はにっこりと微笑んだ。
 男にしては少々長めの金髪を所々跳ねさせ、妙な丸眼鏡をしているため少々変わった人に見えるのだが。そうやって笑顔を見せてくれると優しげな容貌が際立つ。
「考え事ですか?」
「うん、ちょっとね」
 泉の隣に座るとまじまじと上から下までを眺められた。
 高校のブレザー自体はさして目立つデザインでも、色彩でもない。
 しかし知名度はあるので町中でもちらちら見られることがあったが、泉の視線はその類の物とは違うような感じられた。
「恭一君、あの高校なんだ」
「そうですよ。家が近いから」
 あっさりと答えた恭一に、泉は「うっわ、嫌味〜」と笑った。
 だが事実だった。
 確かに偏差値は低くない。むしろ高いほうで、歴史もそこそこある高校だ。だが恭一がその高校を選んだのは単に通学に便利だから、という理由だった。
 家族や周囲の人間も「あそこに入るなら大したものだ」というような目で見ていたので、まあいいか、という程度の意識しかない。
 人によっては嫌味に聞こえる理由なのであまり口にはしないのだが、泉なら気にもしないだろうと思った。
 案の定笑ってくれたわけだが。
「でも僕もそこの卒業生だよ」
「そうなんですか?」
「そー、意外でしょ?」
 風紀の厳しい校風の高校に、泉のようなどちらかというと派手な感じの格好を好む人が行っていたとは、少し想像し辛い。
 髪を染めるのも駄目、ピアスなどまして、というような校則なのだが。
 当時は大人しい生徒だったのだろうか。
 性格の方は今と同じで、陽気だが問題は起こしそうもない気がする。
 勝手に想像する恭一の傍らで、泉がくすぐったそうに話し始めた。
「冗談で試験受けてら合格しちゃってね。入ったはいいけど三年間ずっと成績が地を這って大変だったよ。補習とか補講とか赤点とか再テストとかさ」
 あっさりと泉は笑いながら語るが、そのどれもお世話になったことのない恭一は「はぁ…?」と呆れた声を出した。
 一体どんな成績だったのだ。
「泉さん…見た目を裏切らず授業とかサボってたタイプでしょう?」
 今日は天気がいいから、と言って授業を抜け出して何処かにふらりと遊びに行ってそうだ。
「出席は足りてたよ。体育はちょっとやばかったけど」
「運動音痴…?」
「言うなぁ!人形作るのに速く走る必要なんかない!」
 泉はくわっと力一杯主張した。
 相当体育には苦労したようだ。
 そういえばこの前段差も何もないところでつまづいてたな、と恭一は十日ほど前のことを思い出した。
 人形を作っている間の休憩だったようで、集中力が切れたからだろうと思っていたのだが、実際はいつもああなのかも知れない。
「本当に駄目なんですね」
「昔から家に籠もって人形作ってたから」
 泉はぶすっと言い訳のようなことを口にした。だがコーヒーを手に取り、一口飲むとまた恭一の制服を眺める。
「そうしてると、ちゃんと高校生に見えるね」
「いつもはどう見えるのですか?」
 恭一は私服の場合実年齢より上に見られることが多かった。中学の頃は高校生に、高校に入ってからは大学生か社会人だ。
 きっと泉もそんな風に見ていたのだろう。
 自分でも高校生というより二十過ぎと思われるほうがしっくりくるので、嫌な気はしない。
 むしろ年の差が縮まったようで気分がいい。
「大人に見える。落ち着いてる感じだからかな」
「若いと馬鹿にされそうですから」
「そう?」
「仕事とか」
「ああ、なるほど」
 恭一の倍、三倍生きている職人ばかりの中で高校生というのはやりづらい。
 いくら跡取りで、生まれた時から仕事をしているからと言っても人形に携わった年月は、その人たちのほうが長いのだ。
 その上人間としてもまだ未熟だから、という目で見られるのは恭一にとってあまり心地の良いものではなかった。
 まして自分より腕の劣る人間に、若いからという理由で見下げられるのは腹が立つ。
「でも腕があれば大丈夫だよ」
 見た目は二十代前半にしか見えない、おそらく実際の年より五、六歳は幼く見える泉はにっこり笑った。
「若さなんて腕に関係ないからね」
 二十代という年で、たった独り人形師の前線に立っている泉はそう断言した。
「何年修行しても、どれだけ修練しても、出来映えが伴わなければ職人としては劣ってる。その逆もまたしかり、だよ」
 気にすることないって、と泉はテーブルに置いたコーヒーを再び手に取った。
 そして何やら褐色の水面をじっと凝視し始めた。
 恭一がリビングに入ってきた時と同じだ。
 宙を見つめていたのが今度はコーヒーになっただけで、泉はまたぴたりと動かなくなった。
 何をそんなに考え込んでいるんだろう。
 尋ねるのもはばかれる空気の中、恭一は足下に座っている蜜那と目があった。
「なんかね、今やってる子が気になるみたい」
 固まった泉の代わりに、蜜那がそう説明した。
「何度直してもなんか違う気がするんだって。あたしが見ても全然違うように見えないのに」
「ああ…。分かる。そういうことってあるんだよ」
 ぱっと見た感じでは問題はないのだが、何かが意識の端に引っかかるのだ。
 気にすることはない、と一蹴出来るような微かなものなのだがそれは妙に気になる。
 一端「何かが違うのか」と思い始めると、違いが分かるまでとことん追求してしまうのだ。
 恭一の場合、それは化粧に関することが多かった。
 補修するため、一度化粧を全て落としてしまうのだ。補修が終わった後に元通りにするため以前と同じ化粧を施す。
 その際、修復前と全く変わらない化粧をするというのはなかなか至難の業なのだ。
 デジカメなどで記録を残しておくが、それと照合しても記憶の中の化粧と何かが違う。
 そんな差異に悩まされることが多々あった。
「気にしないと思うんだけどなぁ」
「お客さんが気にしなくても、職人は気にするよ。プロだから」
「プロって大変ね」
 くるりと大きな瞳が感心したように作り手を見上げた。
 その身体のあらゆる部分に、泉というプロの技が最大限に活用されているのだ。
 だが蜜那はそのことを知らないというのは、なんだか面白いことのように思えた。
 親の苦労は報われないもんなんだよ、という親戚の愚痴を思い出される。
 もっとも、泉はそんなこと気にもしないだろう。
「うーん…ちょっといいかな」
 泉はコーヒーを飲むことなく、そのままこつりと硝子の上に戻した。
「何ですか?」
「恭一君にも意見が聞きたいっていうか、見て欲しいって言うか」
「人形を?」
「なんか違和感があるんだよね。本来人形のことなんか人に意見求めないんだけど、恭一君はこういうことが得意だと思って」
 人形を作る際、客以外の言葉は基本的に聞き入れない。
 それは泉の口から教えて貰ったことだった。
 職人と人形が意志の疎通を交わすことによって、初めて双方満足出来る人形が生み出せる。
 他の人間の声が混ざれば、意志の疎通に支障が生ずるかも知れない。それは人形を作る段階で一番困ることらしい。
 それを聞いていただけに、泉の言葉は恭一の心を躍らせる。
 まさかこれほどの腕の人が、他人に意見を求めるなど思ってもみなかったのだ。
「お役に立てるのなら」
 顔が緩むのが自分でも分かったが抑えられなかった。
 嬉しそうな顔をしているのだろう、泉も微笑んでくれる。
 とろりとした琥珀が穏やかに細められ、恭一はすっと視線を外した。
 踊った心臓が、これ以上動揺してしまいそうな気がしてすぐに立ち上がる。
 嬉しいのは、朝日奈の職人に近付けるからだろうか。
 そんな疑問が頭をもたげる。
 泉に会うたび、おぼろげに浮かんでくる疑問は日に日に大きくなっては恭一を揺らしていた。



 


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