グラスの表面に水滴が滲み、滴っては座卓を濡らしていく。 涼しげな風が過ぎていくが空気の重みは流してはくれない。 「…僕は不愉快だ」 泉は座卓の上に置いてあった破片を指でなぞった。 指の皮膚はところどころ厚いように見えた。 「だからあの、蜜那で?」 「まぁ…ね」 憂いを帯びた眼差しで、泉は破片から指を離して姿勢を正した。 何か迷いのようなものがある瞳だった。 「手助けは」 「相手は人間じゃないんだよ?人がいても邪魔なだけ」 泉は恭一の希望をたしなめる。年上らしい態度に、反論したい気持ちが頭をもたげる。 「気が済みません」 「仇をとるのもいいけどね。お祖父さんならそんなことよりもっと腕を磨いてもらったほうが嬉しいんじゃないかな」 まるっきり子どもに対する言葉だ。 あしらわれ、恭一は口元に不敵な笑みを浮かべた。 「腕に関しては、祖父と並びました」 その一言に、おや、と泉の苦笑に呆れが混じった。大きく出たな。とからかい気味だ。 「君いくつだっけ?」 つい数十分前に尋ねられた問いを泉は再び口にした。その若さで何十年も年上の祖父と、技量が並んだなんて。と信じられないようだった。 無理もないだろう。 たかが子どもの強がり、傲慢さだと思われても仕方がない。 恭一は挑戦的な笑みをさらに深くする。 「信じられないのなら、試して下さい」 元々、恭一はそのつもりだった。 泉の元に行った時には、この腕を試してもらうのだと。 それが少し予定より早まったからと言って、怖じ気づく必要はない。 「んじゃ蜜那の背中を補修してくれる?あ、後他にも見て欲しい子がいたんだよねぇ」 泉はあっさりと承諾して腰を上げた。 あまりにも容易に納得したことと、任せると言われた人形の名前に恭一は目を見開いた。 「いいんですか?あの子は必要な子でしょう?もし俺が不手際を起こしたら困るんじゃないんですか?」 「起こすの?」 「決して起こしません」 「じゃあいいじゃない。何も素人に任せるってわけじゃないし。それに蜜那は魂がしっかり宿ってるから、君が何か不審なことをしたら反応してすぐに対処する。有能さはもう知ってるでしょ?」 なるほど、完全に信用しているわけじゃないのか。 恭一は落胆よりも、むしろ泉に対する見方を少し改めた。 軽そうに見えるが、実際のところ用心深いところがあるのだろう。 蜜那は監視させるのに最も適しているから恭一に任せるのであって、何もその腕だけを信用して任せるわけではない。 侮られている。 そのことが恭一の職人としての意識を焦がした。 「任せてもらうには光栄な子ですね」 好戦的な眼差しで見つめながら、恭一も立ち上がった。 座敷から玄関を出て、庭の中を歩き始めた。 鍵は小桃がかけてくれるらしい。何とも便利だ。 「向こうの家へと庭から行くんだよ。お客さんは大体この家だけで相手するから、向こうの家までは入れることが滅多にない」 土を踏みしめながら、恭一は庭を見渡した。 水の流れる音は、どうやら小さな池に水が流れているようだった。 暗くて何がいるのかは分からないが、半分に割った竹から水が流れてるのは遠目で分かった。 庭木も丁寧に整えられている。垣根の近くには朝顔が咲いていた。 「じゃあ、俺は特別待遇なんですね」 「そう、特別だよ。だって今から作業場に行くんだから」 庭の向こうには一軒の新しそうな家があった。 二階建ての大した特徴もない家だ。和屋敷のような家とは対照的に現代風な家である、くらいものだろう。 庭から見て、玄関は横を向いていた。和屋敷の門は西向き。こちらの家は南向きの玄関だ。 玄関に回っても、何の変哲もないドアだった。オレンジ色の照明の下で泉はインターホンを押した。 黒いドアの表面には凹凸があり、縦長の硝子が細くはまっている。よく見ると幾何学的な模様が硝子のうっすらと描かれていた。 ガチャ、と内側から鍵が開けられドアが開かれた。 そこに立っていたのは人形を破壊していた少女だ。 「ただいま〜」 泉に、蜜那は返事をしなかった。 明るい光で見ると、確かに関節に細い線が入っている。人形の証拠だ。表情も硬い。 だがまろい茶色の瞳だけは生き物と同じように生気を宿して、軽く潤んでいた。 明るい、金を帯びた甘い色の髪は蜂蜜のような色をしている。 あどけなさの残る顔立ちは、瞬きをしてじっと恭一を見た。 「お邪魔します」 恭一が声をかけると蜜那は軽く頷き、軽く横に避けた。 中に入って、ということだろう。 随分物の少ない素っ気ない玄関だった。そこから見える廊下も物がない。 人を招き入れることがないので、飾る気がないのだろう。 「もうお茶は出ないからね」 「構いません」 泉は靴を脱ぐとさっさと廊下の奥へと入った。 「セキュリティの問題で和の家だとどうも不安になったんで、じーちゃんの代に家を分けたんだよ」 泉は部屋の奥へと入ろうとした蜜那を呼び止めた。 「おいで蜜那。今からこの人が背中を直してくれるよ。金網にぶつけたとき、ちょっと傷が入っただろうから」 服を着ていたとはいえ、金網の凹凸は蜜那の背中に微妙な傷を付けただろう。 泉が手招きをすると蜜那は泉の元に戻り、小さな子どものように擦り寄った。 親子のようだ。 「恭一君は、人形を直してくれる人だから。でも妙なことや、嫌なことされたら足の一本くらい折ってもいいからね」 泉は噛み砕いた言葉で蜜那に言う。 変な人について行っちゃいけません。と言い聞かせているかのようだ。 「足の一本…」 穏便ではない話に、恭一は複雑な表情で二人を眺めた。 「だって腕だと困るでしょ?職人なんだから」 「それはそうですけど…」 「しばらくの間松葉杖を突くくらいだよ」 泉は軽く話しながら、玄関を入ってすぐのところにある階段を下りた。 蜜那、恭一と続く。 地下部分は暖色の照明が下がっており、左手に曲がってすぐにドアがあった。 ただのドアではない。横向きに付いてるノブのすぐ上に細長い機械が埋め込まれている。 一見電話の子機のような形をしていた。だが四角のくぼみがある。小さな何かを入れるらしい。 泉はそこに人差し指を差し込んだ。するとすぐさまピという電子音がした。そして指を取り出すと今度は長細い機械の上部に付いている蓋のようなものを上にスライドさせた。 すると下から電話のプッシュボタンのようなものが現れた。 それをいくつか押すと、カチャンと錠が開く。 「向こうの家では、これが付けられなくてね。だからこの家作ったんだ。ここから先は僕がいないとご覧の通り、入れない仕組みになってる」 泉はノブを下ろし、ドアを開けた。 「確かに、これくらいのセキュリティが必要でしょう。ここには」 朝日奈の人形を手に入れるために、大金を積む人間はいる。 そのため、窃盗の危険性も高い。 「大変だったよ。ここ作るの」 ドアを開けてすぐに見えたのは、硝子のはめ込まれたドアだった。 廊下を挟んで、すぐの場所だ。 開けたばかりのものとは違い軽い作りをしているが、硝子越しに見える光景に恭一は心の奥が身震いするのを感じた。 作りかけの人形の部位や、作業机と思われる大きめの机、様々な道具と素材が見えたのだ。 朝日奈の作業場。そう思うだけで鼓動が早くなる。 憧れ、焦がれて止まない人形たちがここで生まれた。 「これが作業場。それであそこが洗面所。大きめに作ってるから、研磨に便利だよ」 開けたドアのすぐ隣に洗面所があった。広めに作ってあり、陶器で作られていると思われる洗面場はシンプルかつ清潔さがあった。 顔を洗うなどにはあまり使われていないのだろう、生活感のあるものは一切ない。もちろん歯磨き粉、洗顔フォームなどもない。 「んで、階段の下にある開いたスペースにトイレがあるから。僕、作り始めると没頭するからさぁ、いちいちトイレのためだけに上がるのが面倒で」 「俺もそうですよ。寝食忘れてずっとやってます。徹夜とか当たり前で、気が付いたら外明るいってのも、たびたびです」 「職人ってみんなそんな感じ?親父もじーちゃんもそうだったんだけど」 泉はにこにこと笑いながら尋ねた。 「みたいですよ。じーさんそうだったし。人形を直してる時間は人形と話してるような時間だから。今を逃したら駄目だって」 「そうそう!生き物なんだよねぇ。俺もそうだよ。人形作ってる時は話してる時だからさ、他のこと考えられないし、その時を逃したらその子のことが霞んでいく気がするんだよ」 嬉々として話す泉に、やはり特別な人なんだろう。そう恭一は思った。 会話をする、なんてことは祖父以外の人間からは聞いたことがなかった。 自分も確かにそんな瞬間がありそれは理解出来ることだったが、泉が言っていることはまるで目の前にいる人と話をしていることのように聞こえた。 本当に聞いているのかも知れない。そんな風に、耳元で人形の声を。 「それと、こっちが人形部屋だから入らないでね。入ろうとすれば蜜那に止められるよ」 泉は作業場の横にある通路を挟んだ向かい側を指した。 小さな部屋が幾つが並んでいる。 どうやらこの階はL字型に通路があるようだ。 「足を折られて?」 「そうそう。あっさり折ってもいいから」 二人の背後に立っていた蜜那を振り返り、泉は命じた。すると蜜那は大きな瞳で恭一をちらっと見てからこくりと頷いた。 もし恭一が部屋に入ろうとすれば、無言でそのまま両足を折ってしまいそうなほど淡々としている。 「それで、この階から上へは行けるけど。戻って来ることは出来ない。内側からは開くけど、外からは何の干渉も受けないようにしてる。あのドアを外から開けられるのは僕だけなんだ」 玄関の物よりよほど物々しいドアは、見ていた通り、泉だけが開けられるらしい。 指紋照合を出されてしまえば、他には強行でドアを壊すしかないだろう。 だがドアの作り自体が頑丈に見え、壊すのも一苦労だ。 「喉が渇いたりしたら呼んで。さすがに冷蔵庫とかはないんだよね。僕はこの通路の一番奥にある部屋にいるから」 泉は並んでいる部屋の一番奥を指さした。 そこだけは襖になっている。 洋風のドアが並んでいるだけに、和の雰囲気を漂わせるそこだけが浮いていた。 「外から声を掛けて。なるべく開けないで欲しい」 「開けると折られますか」 恭一が冗談めかして言うと、泉はあっさりと頷いた。 どうしても部屋を開けて欲しくないらしい。 「僕が中で寝てたりして返事がいつまでもなかったら、蜜那を中に入れてくれないかな」 「俺の言うことを聞いてくれますか?」 作り手であるとともに持ち主である泉の言葉にだけに反応している蜜那に、恭一が疑問を持つ。 だが泉は微笑んで蜜那に「ね」と声をかけた。同意を求めるかのような声だ。 蜜那はそれを受け、恭一に向かって頷く。僅かにだが、瞳に表情が宿った気がした。 「大丈夫」と言っているかのような色が。 「で、作業場なんだけどね。必要なものは全部あると思うよ」 泉は地下で一番スペースを取っている部屋のドアを開けた。 空調が利いている。エアコンが機動しているのだ。 制作途中の人形の部位が三つほどある机のうちの一つに置かれている。 他の二つは使っている様子がなかった。 焼成用の炉も置かれてあり、人間サイズの人形を作ることもある朝日奈だけに大きめなものだった。 硝子越しに見えた場所に足を踏み入れ、恭一は口元が緩むのを止められなかった。 職人にとって作業場というのは特別なものがある。神聖な場所だという者もいるほどだ。 その中に入るということが、どれだけ光栄なことか。 「うちも一応直すことはたまにするから」 泉は足を踏み入れると人形の部位が置かれている机の隣を指して「ここ使って」と言った。 「それで、なんだけど」 部屋の隅にはアンティーク風の椅子あり、そこに二体の着物を着た人形が座っていた。 子どもが愛玩用として持っているような小柄な人形だ。 二体ともおかっぱ頭で、右は赤、左は青の着物を着ていた。 青の着物を着ている人形の顔には細かなひひが入っている。 「この子のひびを補修して欲しいんだ。二体ある内のこの子だけどうも保存が悪かったのか、こんなことになっちゃってね。全く同じように作ってある子がいるなら参考にと思って、お借りしてきたんだけど」 泉は小さな子どもに接するように座っている二体の人形ともの頭を軽く撫でた。 「胡粉の色を調整している間に、ちょっと肌色の濃さを変えたほうが映えるんじゃないかなぁと思って。それから違和感覚えちゃってね」 どうやらこの人形の顔には、もう少し肌の色があったほうが良いのではないかということらしい。 恭一の目からしても、確かに白が濃すぎて浮いている感がなきにしもあらずだが、補修というだけならば色の違和感よりも元に戻すことのほうが重視される。 「この子と同じにすればいいんだけど。それが依頼主のお願いなんだからね」 作り手の立場にいる時間のほうが圧倒的に長い泉は、それがなかなか難しい。というような複雑そうな笑みをふと浮かべた。 「頼めるかな?」 泉は青い着物を着ている人形の頬にそっと触れながら尋ねた。 指先に感じているだろうひびを労るかのような手つきだった。 「もちろんです。元の子がいるなら補修もやりやすいです」 大体は壊れた状態、元の着色が分からなくなった状態などで来ている人形が多いので、手本になる個体がいるのは有り難いことだった。 こうすればいいというのが提示されているだけに、曖昧な想像に頼らなくてすむからだ。 「それで、ついでに蜜那なんだけど」 泉は蜜那の服に手を掛けた。 帯を解くと蜜那は恭一に背を向けて自ら袷を開いた。その下に晒された白く澄んだ背中には細かな傷が入っていた。丁度金網と同じような形で。 「これは一度軽く擦ればいいか…。てかこれくらいほっといてもいけそうだね」 泉は「んー」と唸ってからそう判断したが恭一は「待って下さい」と止めた。 「確かに放置しても構わないレベルですけど、気になることは気になりますよ」 恭一は人の肌よりよほどなめらかで柔らかそうなその肌に傷が入っていること自体、勿体なくて許せなかった。 完璧なものに、小さな欠陥を見つけたような感覚だ。 それさえなければ!という気持ちにさせられる。 「君がそう言うなら、ちょっとヤスリをかけて胡粉塗る?」 「…それだけでいいんですか?」 人の肌と見たところ大差が見られない蜜那の背は、特別な材質、もしくは特別な製法があるような気がした。 「うん。後は勝手に馴染むよ」 「馴染むんですか?」 「この子たち特別だから。自分たちの身体くらい、自分たちで馴染ませるよ」 傷は治らないけど。と泉はさも当然のような顔で言った。 「魂の成せる技ってやつかな」 「…特別過ぎる人形ですね。道理で欲しがる人が後を絶たないわけだ」 見た目が美しい、自ら動き、喋る。その理由だけでも十分過ぎるほどだというのに。朝日奈の人形はこんな特殊なことまで見せ付けてくれる。 驚嘆する以外どうしようもなく、恭一はまじまじと蜜那の背中を見つめた。 その傍らで泉は苦々しいと言うように、目を伏せた。 次 |