襖を開け、泉は目を丸くした。 かけてあった丸い眼鏡を外しながら「どうしたの」と笑う。 「珍しいね、姫が起きてるなんて」 畳四畳ほどの部屋は薄い布がかけられた鏡台と桐箪笥があり、布団が敷かれていた。 部屋の隅には和紙で出来た円筒形の照明がつけられていた。 照明の一部に薄木で格子を作ってあり、月と桜の柄がそこから溢れるように描かれていた。 格子窓から桜月夜を眺めているような絵柄だ。 一昔前の時代の女性の部屋をそのまま再現したかのようだ。 その空間の中、凛然とした姿の女が一人立っていた。 黒く長い髪はすらりと腰まであり、艶やかさは照明のほのかな光を受けて反射するのではないかと思われるほどだった。 目元は涼やかで。静かな眼差しが泉をひたりと見つめた。 瞳は黒く何処までも澄んでいるように見えるのだが、深淵のように深さが分からない。 薄紅の唇に淡い笑みを浮かべると、途端に空気が華やかになる。 女がこの部屋の全てを管理しているかのようだ。 微かな翠色の生地に藤色が広げられ、そこに趣のある野が描かれていた。 前に見たときは流水の青さがよく似合うと思ったのだが。 こうして見ると、紫が最も似合うような気になってくる。 (桜の時期もそんなこと思ったっけ) 何を着ても似合う。煌びやかな織物に着せられることなく、選ぶことの出来る者というのは少ない。 「誰か来ていらっしゃいますのね」 女の声は高いながらも深みを帯びていた。耳の中で反響しては甘く広がるようだ。 泉は頷きながら微笑む。 「篠倉さんのお孫さんだよ。今作業場で補修してる。腕を見て欲しいんだって」 「ここにいらしゃるの?よろしいのですか?」 女は戸惑ったような笑みだけを浮かべ、小首を傾げた。 黙ってただ立っているだけなら二十過ぎに見えるのだが、そうしてあどけない仕草をすると十五ほどの少女にも見える。 明確な年を悟ることが出来ない。 「うん。蜜那が付いてるから。何かあったら足の一本でも折ってって言ってる」 泉は布団の上に座った。 「面白そうですね」 女は泉の口元にある笑みを見て、同じように微笑みながら傍らに腰を下ろした。 着物の裾を崩すことなくたおやかに正座をする姿すら優麗だった。 「うん。面白そう。なんか昔の自分を思い出すよ。腕に自信があって、人から試されることに堂々と向かっていく姿勢とか」 恭一の目を思い出しながら、泉は心が軽くなっていくのを感じた。 紅に似ている人形を壊すため、数時間前にこの家を出ていった時とは比べものにならないほど気分がいい。 ぱっと見た時には二十前後だと思った恭一も、腕を見てくれ、試してくれと言う姿勢を見せた時には高校生らしい若さと勢いがあった。 思いのまま突っ走ってしまうという危うさを持った年に、泉は過去の自分もこうだったのだろうと微笑ましい気持ちになった。 だからだろう。試してやろう、という気になったのは。 篠倉の孫というだけでも気にはなっただろうが、腕を見るだけなら後日改めて人形を篠倉の家に送ればいいだけの話なのだ。 それを今すぐ、その上自分の作業場を貸してやるほど破格の扱いをしたというのは。 「あの目が気に入ったんだよ。好戦的で、誇りがあって、自分に対して自信を抱いてる」 「泉と同じですね」 「僕も好戦的だったかな。自信家だったのは事実だけど」 子どもの頃から割と穏やかな気質だと自分では思っている泉は、心外だという顔をして見せる。 「人形のことで誰かに不条理なことを言われればすぐに牙を剥いておられました。他のことなら聞き流してしまわれる貴方だから、とてもよく覚えております」 「だって僕が言わなきゃ誰が言うの。魂を宿す人形なんてほんの一握り、その上喋るようなるのでには何年かかるか分からないっていうのに、言われ放しじゃ可哀想だよ」 人形を友達か兄弟、家族のように扱う泉はその時のことを思い出したのか、むっとしたようだった。 気が付けば周囲には人形ばかりで、しかもその人形たちは泉にとても優しかった。 名も知らない他人よりずっと暖かく接してくれた。 それなのに人形のことを何も知らない人間が、大好きな人形たちを侮辱するなんて許せないことだ。 誰だって、好きな人を罵られれば腹を立てる。それと同じなのだ。 憮然とする泉に女は目を細めた。 「ありがとうございます」 「なんでお礼なんか言うの?みんなは僕の大切な子たちでしょう?それに僕をここに連れてきてくれたのも、人形師にしてくれたのも姫じゃないか。僕がお礼を言いたいよ」 ありがとう。満面の笑みで泉が言うと、姫と呼ばれた女はそっと両手を伸ばした。 泉の頭を包み込むとそっと自分の方へと引き寄せる。 「私はどこまでも幸せ者ですね」 その言葉に泉は姫の胸に額を寄せ、母親に抱かれる子どものように目を閉じた。 心臓の音も、体温もない身体。だがそれ以外の何かが、姫の中には満ちている。 人と変わりない、人よりも澄んだ何かが。 「眠いんだけど、寝ていいかな」 午前一時を回っているだろう時刻に、泉は軽い眠気を感じた。 昨日の夜から今朝にかけて人形を作っており、寝たのは午前五時から午後十時という中途半端な時間だったのだ。 「どうぞ」 姫は泉の頭を自分の膝の上に乗せた。 手から眼鏡を取ると、そっと側に置く。 「恭一君か、蜜那が呼びに来たら起こして」 目を閉じたまま深く息を吸うと身体が重くなった。 疲れていたらしい。 意識すぐに霞んでゆく。 わかりました、という姫の返事を聞いた後、意識はゆっくりと沈んでいった。 母親の膝枕というものは知らない。 どんな人だったのかも、写真でしか知らないような有様だった。 ただおぼろげに、か細くあたたかい人だったような気がする。 でもそれも他の誰かと混じった記憶かも知れない。 それくらいに、曖昧なものだった。 だが姫に関する記憶は小さな頃から溢れるほど持っている。 二ヶ月に一度目を覚ますか覚まさないか、という頻度でしか言葉を交わすことがないというのに。 姫という存在はそれほど、強烈に焼き付く。 靄がかかった意識が明るくなっていく中に感じた、ひんやりとした指の感触でそれが姫のものだとすぐに分かった。 「泉」 「……はよ…」 目を開けると、眠った時と同じ様に姫が見下ろしていた。 焦点が合うとにっこりと微笑んでくれる。 「呼んでいらっしゃいますよ」 姫がそう言うのを聞いていたかのようなタイミングで、襖の向こうから「朝日奈さん」と恭一の声がした。 泉はのっそりと立ち上がり、姫に「端に行って」と指示を出した。 人をどうしようもない力で惹きつけては魅了する姫は、他人に見せるには危険過ぎる存在だった。 手に入れたいという欲望に火を付け、ここから奪おうと企らませる。 そのため泉は、恭一から隠すように姫を入り口から見えない位置へ立たせた。 転がってる眼鏡を拾い上げ、かけてから襖を少しだけ開けた。 人間が一人出入りするだけの隙間だけを開き、するりと部屋から抜け出す。 「おはよう」 手で髪を適当に梳き、泉は小さくあくびをした。意識は随分クリアになったが、身体のほうはまだ眠りが足りないようだ。 妙に身体が堅く感じる。 「おはようございます」 恭一はどこか憔悴した様子で会釈をした。目の下にくっきりクマが付いている。 根を詰めて作業していたのだろう。ふらふらといった様子だ。 しかし職人が一度作業に没頭するとこうなるのが普通だと思っている泉は「あらら」と苦笑しただけだった。 「今何時?」 「朝の八時です」 「あー、もしかして六時間半くらいぶっ通しでやってた?」 「みたいですね」 時間感覚ないんですけど。と恭一は力無く笑った。 隣で蜜那はいつものように淡々とした表情で立っている。彼女には睡眠というものは無関係なので、泉が見た時と変化は一切ない。 おかげで恭一の疲労度がよく分かる。 「それでも終わりませんが」 「そりゃそうだよ」 人形というものは作りのにも何十日という日々を費やすが、補修するのも日数がかかる。 「どうなった?」 蜜那の衣装は着直されているのでそれを解いてみようかと思ったが、先に依頼されていた人形が気になっていた。 蜜那なら後で手直しの仕様がいくらでもあるのだが、あの人形を直すのはいささか手間がかかる。 篠倉の孫というだけである程度の信用はしているし、恭一の手によるものだという人形も見たことが一度か二度あったので、落胆するほどの出来ではないだろう。 数年前にちらっと見た恭一の手は、当時でも泉の感心を引くほどだった。あれからまた年が流れ、おそらく腕も上がっているだろう。 正直心配より楽しみが大きい。 作業場に戻るとその場は少しだけ雑然としていた。 恭一が道具や素材などを探した後だろう。 置き場所などをしっかり教えれば良かった。悪いことをしたなぁと思うのだが、それよりも人形の姿を先に探してしまう。 いつも使っている机の隣、生前父が使っていた机の上にその人形があった。 眉や唇の色などの染色は取られ、胡粉が塗られている。 化粧は後からやり直してくれるので問題ない。そんなことより泉の意識を惹いたのはその色合いだった。 「絶妙な色だね!ひびをなくしてるのは当然として、元の色に忠実な上によく馴染んでる!」 自分が想像していた以上の出来に、泉は興奮すらしていた。 高校生と甘く見ていたわけではないが、いくらなんでも七十を過ぎた篠倉の先代が持っていた技と並ぶもの、越えようとしているものが出てくるとは思えなかったのだ。 「その年で先代を越えるなんて天才ってやつか!他の人の立場がないだろうに」 人形を手に取り、泉はじっくり観察する。粗が見当たらない。補修が丁寧なのは先代と同じだが、色合いは先代のセンスをほんの僅かに上回っていた。今は多少違和感がある色なのだが、これが何度も重ねられ、乾燥すれば間違いなく違和感なく仕上がることは人形師の感と経験からして分かる。 赤い着物の人形と並んでも、補修したなどということは分からなくなるだろう。 眠気が一気に飛び、嬉しさに落ち着かなくなる。 握手でもしてこの喜びを恭一にも伝えたいほどだ。 こんな腕の人が、ましてこんな若さでいるなんて世の中は驚きに満ちているらしい。 「朝日奈さんに言われたくないですよ。朝日奈さんだって天才じゃないですか」 手放しで誉められ、恭一は少しくすぐったそうに苦笑していた。 憔悴していた様子が和らいだように見える。 「泉でいいよ。朝日奈、朝日奈って言われても、死んだ人形師みんな朝日奈だから分かりづらい」 これから先付き合っていくとすれば、誰それの人形だという説明が必要になってくる。 その際多くの人形が「朝日奈」という名字の職人が作った人形なのだ。 泉のことを「朝日奈」などと呼んでいては今後紛らわしい。 「僕は親父を越えてないんだから、いいんだよ。天才とか言われたって」 「あの人は独特の雰囲気がありましたね。でも朝日奈さん…泉さんの人形だって違った雰囲気で全く劣りません」 朝日奈と呼んだ後で、恭一は泉と言い直した。 名前で呼ばれただけで親近感が沸く気になる。こんなに才能がある人と近付けるというのが、泉の機嫌をさらに上昇させた。 普段人形に携わる人間と会うことがあっても、パーツを作っている人間が多いので人形自身についてこれほどの才能を見るということが滅多にないのだ。 先代の篠倉が亡くなった時に、もうこんなに親しみを感じられる人形師はいないかも知れないと落胆していただけに、その嬉しさは抑えきれないものがあった。 「誉めても何も出さないよ」 泉はそっと硝子を扱うようにして人形を座らせた。 歌い出したいような気持ちになりながら、恭一を振り返る。 「出ないわけじゃないんだ」 疲れているという顔をしているが、恭一は軽口を叩きながら嬉しそうだった。 泉に認めて欲しいと言っていたのだ、それが叶ってほっとしているようにも見える。 「うん。でも君が篠倉の跡継ぎだっていうのは認める。というより僕からお願いしたいくらいだよ」 「ありがとうございます」 恭一は腰を折るようにして深く頭を下げた。 深い感謝が滲んでいるようで、泉は首を振る。 「だって認めるしかないでしょ。こんな出来を見せられて」 口ではそんな悔しそうなことを言ったが、気持ちはこちらが頭を下げてもいいくらいだった。 この人とこれから先仕事をやっていくのかと思うと、篠倉と朝日奈が昔から交流があって良かったと心底思う。 先代の時は泉が生まれた時からあの年、あの腕だったので感動はしたものの、それほどの喜びはなかった。 だが今度は違う、自分より後に生まれ、そしてそんな若さで極上の技量を持っているなんて。 こんな才能の遺伝子を持っていた篠倉という家系に感謝していいのか、恭一という天才に感謝していいのか。 落ち着きを失いながらも泉は恭一に手を差し出した。 「よろしくね」 抱き付きたいほどの嬉しさなのだが、いきなりそんなことをすれば恭一が引くだろう。 なので無難な握手を求めると、恭一は力強い笑みとともに手を握り返してくれた。 |