低速度の車で、アスファルトの上を走っていた。
 工場が建ち並んでいて、夜中になると全く人気がなくなる。
 まして経営が悪化した会社がすぐさま手放した広い土地、現在雑草だけが嬉々と生えている空き地のすぐ横に通っている道路など、人が住んでいない地域であるかのように静かだった。
 こんな所で人が殺されたのかと思うと、空しさが込み上げる。
 首の骨は異様な形で折られていたらしい。
 死体は無造作に空き地に捨てられていた。殺された男性の身元は判明したが、殺害方法は不明のまま、犯人の捜索が続いている。
 噂では、その死体の首はタオルを絞るかのようにいびつにねじれていたらしい。
 その殺し方に覚えがあった。
 祖父の亡骸はエンバーミングをほどこしても誤魔化しようのないほど、首が曲がっていた。さすがに苦悶の表情は隠されていたが、この悲惨さは明らかだった。
 同じような犯行がここで行われた。
 犯人に繋がる証拠を探すというより、犯人そのものを探していた。
 現場に戻る。そんな安易な発想を持ちながら。
 そんなに都合良く行くはずがない。そう思いながらすがるようにして、事件が発覚した夜からほぼ毎晩この近くに来ていた。
 警察関係者も最初はうろうろしていたが次第に減り、二ヶ月経った今では閑散としている。
 警察は他にも証拠や、情報を元に捜索出来るだろう。
 だが一般人にはそんな有益なものは持っていない。ただ祈るようにして、犯人に繋がるものを探すだけだ。
(警察が捕まえてくれると信じられるなら、動く必要なんてない)
 だが、この事件は警察が捕まえてくれると思えなかったのだ。
 祖父の死から約九ヶ月、警察は何一つ有力な情報を得ていない。そして死体の状況を聞いて、まず思い浮かべたことが、その理由へと繋がる気がしたのだ。
 指紋がない。凶器も分からない。人の形跡がない。
 祖父の死は、何か大きな力によって首をねじられたことによるものだ。人間には到底出すことの出来ないレベルの強さらしい。
 だからとって、特殊な機械を使った形跡もまたなかった。
 そう聞いて頭の中にはある一つの顔が浮かんだ。
 見ている者の意識を奪う優麗な容貌。たおやかな手つき。柳型の肩は赤い着物が良く似合っていた。
 そして、光の角度によって紅の色味を帯びる深い瞳。
 憧れ続けていたその存在が、妙に意識の中でちらつく。
 もしかすると。そう、有り得ないことではない。
 妄想のような考えは次第にリアリティを帯びる。そしてその考えに取り憑かれたかのように、記憶はその面影ばかり蘇らせた。
 微かに浮かんだ微笑が脳裏に写った瞬間、車の前に何かが飛び出してきた。
「っ」
 反射的にハンドルを切る。車の後部が横に流れ、スピンしそうになるがなんとか持ちこたえて踏みとどまった。
 くるりと半円を描くようにして止まった車の前で、それはぐったりと膝を付く。
 細身の女だった。身体に密着した黒い服を着ている。肩までの髪が、俯いた顔にかかって表情は見えない。
 具合が悪いのだろうか、運転席から出て声をかけようとすると、女が飛び出して来た方向から少女が走ってきた。
 軽やかな動きで、こつこつと堅い足音を響かせる。
 耳より上の髪を後頭部で蝶の形に結ってある。後ろ髪は肩胛骨くらいまでの長さで、歩くたび微かに揺れる。
 それよりも目を惹いたのは、服装だった。
 上半身は一見着物のような見えた。だが袖は肘の上辺りから広がり、姫袖になっている。帯の下からは左右に深く切れ込みが入り、膝上のふわりとした黒スカートをはいている。レースが清楚に使われていて、くどい感じは漂わない。
 だが着物とロリータのような服の調和というのはどうなんだろう。ふとそんな思いを込み上げさせる格好だった。
 少女はちらりとこちらを見た。無表情なそれに、はっと我に返った。
 人間じゃない。
 直感的なものだった。そしてよく目を凝らすと膝の関節に線が入っている。そして少女の指にも。関節というもの全てにその線が見えるだろう。
(これは)
 求めていたものではないか。
 渇望していたはずの事態に、身体は動かなかった。
 呆然と立ち尽くす男など用はない、というように少女は膝を付いている女に近寄り、その頭部を蹴った。ボールなどと同じように、容赦なく足を振り切る。
 編み上げの靴に衝突し、頭部は凹むかのように思われた。だが実際は首から離され、アスファルトを転がる。
 血は一滴も流れることはなく、ガッと鈍い音がしただけだ。
(人じゃない!?)
 頭部を喪失した首の切断面は、いびつな形をしていながらも肉や骨などの生々しいものは一切見えない。あるのは無機質な表面だけだ。
 人の形をした異様な物体を、少女は踏みつけようと足を上げる。
(これは、何だ…?)
 人でないものが、人でないものを破壊している。
 常識も、想像も凌駕してしまった状況だった。
 見続けることしか出来ない男の前で、頭のない身体が少女の足首を掴んだ。
 踏み潰されることを察知して、逃れるかのように。
 そして素早く起き上がり、掴んだ足首を上に持ち上げ少女金網へと投げ付けた。
 ガシャンと背中を金網に叩きつけられ、少女の目が一瞬閉ざされる。
 衝撃を受けて、痺れたかのように。
(表情が、あるのか?)
 男の期待をかなえることはなく、少女は無表情のままぐらりと姿勢を立て直そうとした。
 だが足下がふらつき、立っているのもおぼつかない。
 その隙をつき、頭部のない身体は少女に襲いかかる。まるで見えているかのような正確さで少女の首へと手を伸ばした。
「握りつぶす気か!」
 祖父の死体がよぎり、そう叫んだ。目の前でそんなことをされて許せるはずがない。
 硬直していた四肢は一気に融解し、無意識の内に走り出していた。
 だが手が胴体に届く前に、その腹から手が生えてきた。
「あ…」
 薄い刃のナイフを握った細く小さな手。それは胴体を貫き、無造作に横へとなぎはらった。
 腹を半分ほど真横に切断すると、身体が傾き少女が見えた。
 淡々とした眼差しは崩れていく身体を眺めている。おそらく手を伸ばされた瞬間、懐に入って胴を突いたのだろう。
 どさっと鈍い音を立てて身体は呆気なく倒れた。
   肉付きの薄そうな背中を、少女は改めて踏み潰す。
 グシャ、と硬質のものが圧縮される響きが大きく聞こえてきた。
 人間ではない。そう分かっていながらも何とはなく気持ちが悪い気がしてくる。
 まるで死体を崩しているかのような感覚だ。
(でもあんなナイフどこから…?)
 最初から持っていたわけではない。だからと言ってどこに隠し持っていたのだろう。
 疑問を思っていると人の声が投げかけられた。
「参ったなぁ。こんな時間、こんなところに人がいるなんて」
 切迫した異常な空気の中に、のほほんとした声が響く。
 ガラガラガラと何かを引きながら、その声は近付いてきた。
 点在している街灯にほのかに照らされたのは、脱色した髪をところどころはねさせた男だった。
 龍の柄が入ったジーンズにぶら下がった鎖がチャリと鳴る。
 首にも鎖をぶら下げている。
 上着は肩からずれ落ちるのではないかと思われるほど、気怠そうに羽織っていた。
 随分派手な格好だったが、顔立ちは意外にも柔和だった。優しげな双眸は色味が薄い。
 片手で大きなスーツケースを引いていた。ガラガラと聞こえていたのはこれらしい。
「朝日奈さん、ですよね」
 真冬の参列者たちの中に、似た人物がいた。あの時は黒い髪で、こんなにも派手じゃなかった。だが伏せた目が悲哀に満ちていたのをはっきりと覚えている。
 柔らかな形をした瞳が痛ましいほどの色を帯びているのに、強く同調したからだ。
 肉親と同じくらい痛んでくれる人がいた。それほど祖父は慕われ、そして惜しまれていることが、やるせなさに拍車をかけた。
「祖父の葬式でお会いしました」
 怪訝そうな顔をする人にそう説明すると「ああ!」と声を上げた。
「篠倉さんトコのお孫さん!よく似てるねぇ。恭一君だっけ?」
 直接会って話をすることなど滅多になったというのに、名前を覚えていて貰ったことに口元が緩んだ。
「僕のこと覚えてる?あの時は髪も黒くして、スーツだったから印象違うでしょう?」
「全然違いますね。一瞬誰だろうと思いましたよ、泉さん」
 泉はにっこりと笑った。
「ああいう場では大人しくしないとね。その場にあった服装ってのがあるし」
 二人が会話している隣で、不思議な格好をした少女は転がっていった頭部を踏みつけて壊していた。
 破壊される音に、恭一は少女を振り返る。
「貴方の人形ですね」
 自ら動く人形など、朝日奈が作りだした人形以外知らなかった。
 そして古めかしさのない、泉の作品らしい優しげな顔立ちと、笑みを形取ることを前提とされた愛らしい唇。凛然とした瞳。
 それは泉が作る人形によく見られる特徴だった。
 泉の父、先代は妖艶な人形を、二代前の祖父はどこか守りたくなるようなたおやかな人形をよく作っていた。
「そうだね。それを作れる人形師は、今は僕だけだね」
 微笑に、苦みが混ざった。
 それならばすでに残骸となってしまった人形はどういうことだ。そう恭一が問い掛けることを分かっているのだろう。
「蜜那、回収を」
 泉はスーツケースを開けて、少女にそう声を掛けた。
 蜜那と呼ばれた少女は頷き、破壊した人形の破片を拾い始めた。
 粉々になった破片などは諦め、大きめのものから回収しているようだ。
 すでにナイフは持っていない。
 あの不思議な服装の中に収納したのだろうか。
「あれは何ですか?」
「何だろうね」
「知っているんでしょう?」
 だから貴方は、自分の人形を使って破壊したんじゃないんですか?
 刺すように尋ねる恭一から目をそらし、泉は溜息をついた。
 酷く憂鬱そうな表情で、髪を掻き乱す。
 ちらりと見えた左耳に三つピアスがあった。よく見ると右にも一つある。よほどアクセサリーの関係が好きらしい。
 だが手首、指には一切装飾がない。
「…出来の悪い模造だよ…」
「紅の?」
 顔を見た瞬間、思い起こされた人形の名前を口にすると、泉は目を伏せた。
 心痛な面もちに恭一はまた祖父の葬式を思い出した。
 大切にしていたものを容易に奪われた痛みを宿した瞳だ。
「紅の件は、大変申し訳ありませんでした。こちらの防犯が不十分で」
 江戸時代に作られ、未だにその活動を止めていない魂を宿す人形。価値などすでに計れる次元ではなくなっていた。
 朝日奈が持つ宝預かっていたというのに、どのような犠牲を払ったとはいえ家から奪われてしまった事実は失態だった。
 頭を下げる恭一に、泉は首を振った。
「失ったのはお互いさまでしょ。謝らないで欲しい」
 大きすぎる損失だった。
 そしてあまりにも、理不尽なことだった。
 重苦しい空気が流れ、行き場のない怒気が二人の間に漂い始める。同じ気持ちを抱いているのだろう。
「犯人は見つからないままですね。出て来る気がしませんが」
 感じていることをそのまま口にすると、泉は破片を拾い続ける蜜那に目をやった。
 温度のない、感情が読みとれない視線だ。
「…ね、なんでこんなところにいるの?」
 瞬きを一つすると、泉は会話の流れを打ちきって変えてしまった。笑みを浮かべ、纏っていた悲愴さも払拭する。
 その件に関して、喋るつもりはないのだろう。
 追求しようか。恭一の頭はそう思ったが、急げは泉の口はさらに堅くなってしまうかも知れない。何も今すぐ切れてしまうような付き合いではないだろう。
「捜し物です」
 泉が肝心なところを話さないというなら、こちらも話す必要はないとばかりに簡潔な一言で答えを返した。
「でも貴方に会えて良かったかも知れません。近々ご挨拶に伺おうといました」
 恭一は姿勢を正して、微かに微笑んだ。目は細めず、誇るかのように堂々とした笑みだ。
「篠倉の跡継ぎに決定致しました」
 泉は目を見開いた。驚くと幼さが見えた。
 噂では二十六前後と聞いていたが、その表情では二十一、二ほどに見える。
 落ち着きのない服装も多少影響しているだろう。
「君いくつだっけ?」
 まじまじと上から下までを見られ、恭一は苦笑する。
「十八です」
「大学一回生?」
「高校三年です」
 恭一の答えに泉はばっと近くに置いてあった車を見た。
「君の…?」
「そうですよ。厳密には家の車ですけど」
「高校生だろ!?」
「高校生でも免許は取れます」
 真顔で平然と答えられ、泉は「そうだけど…」と少し意外そうな目で恭一を見た。
 高校生で車乗り回すようなタイプには見えないんだけど。という顔をしている。
「まぁ、僕も高校生の時に車乗ってたけどね。最初は無免で。それはいいとして」
「よくやることですね」
「やらないよ!君、見た目を裏切って不良だね」
「不良なんて、今時言いませんよ」
 恭一が小さく笑うと「どうせオヤヂだよ」と泉が拗ねたように呟いた。子どもっぽい仕草でおやじなどという単語を言われても笑いが込み上げるだけだということの自覚はないようだ。
「それにしても、君が跡継ぎか。お披露目は?」
 跡継ぎが決定すれば、身内や仕事の関係者を招いて会が開かれる。酒盛りをする程度だが跡継ぎの実力や、お互いの近況、仕事の具合などを知るのに丁度良い機会になる。
「まだです。貴方に認めてもらうのが先だと思って」
「大袈裟だよ」
「いえ、篠倉としては重要なことです」
 人形の修理、補修、そして簡単な制作などをしている家の跡継ぎとしては、朝日奈に認められるということは特別な意味を持っていた。
 朝日奈の人形は特殊だ。他の誰が作ったものより生々しく、魂を宿すというだけあって補修するという作業自体に緻密さと正確な判断を要する。
 そして、彼らの作る人形は人を魅了して止まない。
 恭一は幼い頃に初めて朝日奈の人形を見てからずっと、いつかは自分もこの人形に携われるようになるんだ、と決心していた。
 高校に入ってから祖父の手伝いで少しだけ朝日奈の人形に触れられるようになった時は、心が躍ってその日寝付けなかったほどだ。
 それが、跡継ぎとなって朝日奈の人形の補修は全て引き受けられる立場になった。
 朝日奈が、泉が納得して認めてくれればの話だが。
「そして自信を付けたいんです。貴方に認めてもらえれば、恐ろしいことは他に何もない」
 腕がない、技術が成熟していない。他のどんな人間が言ったとしても恭一は心動かされない。
 だが泉が同じことを言えば、築き上げてきた努力、自信、時間、全てがなくなってしまう気がした。
 それほどまでに朝日奈の人形は、朝日奈の職人は恭一の心を奪っていた。
「…なら、うちに来る?もう時間も大分遅いから門限があるなら駄目だけど」
「ありません門限なんてものは。お邪魔させて頂けますか?」
「だって、君話があるでしょう?」
 泉はそう言って肩をすくめた。
 破片を抱えてやってきた蜜那の頭を撫でる。
 蜜那は顔を上げ、泉をじっと見上げた。二つの視線が絡み合っているのを見て、恭一はその双眸の色が似ているような気がした。
 とろりとした琥珀のような色。
「物言いだけな顔をしてるよ。この子に」
 指摘され、恭一は口を閉ざした。
 ちらつく疑惑がまた首をもたげた。



 


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